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Talks About Music, Books, Cinema ... and Niagara


by hinaseno

木山捷平が大正14年に住んでいた雑司ヶ谷の家の真ん前にあった小学校の跡地に建てられた豊島区役所、単なる高層ビルかと思ったら、下の方すごいんですね。最初に写真を見たときはなんだこれって思ってしまいました。
「こんなにもなつかしい静けさのなかで」_a0285828_11384230.png

今の地図と昔の地図を見比べてみると、この張り出した部分はもしかしたら木山さんが住んでいた長屋があった場所だったかもしれません。
今、そのなんだかよくわからない茶色のガラス窓からはいったいどんな風景が見えているんでしょうか。

ちなみにこれはネットで見つけた、区役所が建つ前の日出小学校の正門(たぶん)前から校庭と校舎を撮った写真。
「こんなにもなつかしい静けさのなかで」_a0285828_11391539.png

本当は空襲で焼ける前の写真があればよかったのですが、残念ながら見つかりませんでした。
でも、きっと木山さんが間借りしていた部屋の2階からは校庭で遊ぶ子供達の姿がよく見えていたでしょうね。

ということで、大正14年に木山さんが見たり聴いたりした風景を描いた詩を2つほど紹介しておきます。
1つ目の詩には桜の樹が出てきます。ちなみにこれは日出小学校の校庭に咲いていた桜をとらえた写真(やはりネットで見つけました)。
「こんなにもなつかしい静けさのなかで」_a0285828_11394257.png


  雨あがりの朝

 雨あがりの朝――
 しめりのいい校庭に朝日がさして
 ひろびろと広い校庭よ
 女の子がひとり
 はや学校にやつて来て
 ひとりでまりをけつて遊んでゐる。
 白い新しいまりを追ひかけ
 追ひかけてはけつて
 ひとりでかけまはつて遊んでゐる。
 さくらの若葉がきらきらと朝の微風にかがやいて――
 ひろびろと広い校庭の朝よ。

この詩はこの日に紹介した大西重利さんが81歳のときに書いた詩にどこか似ています。

次の詩には、村井武生から影響を受けたに違いないフレーズが出てきます。音楽で言えばサビのような感じですね。

  午後の一時

 午後の一時
 そこの小学校のベルがなつて
 子供等のざわめきがはたと止んでしまひ
 この森のあたりが
 太古のやうな静けさに浸された。
 背中にひややかな感触を覚えながら
 草の上に仰向けになつてゐると
 職のない、そして
 貧しい一人の男の頬をも
 微風はさわやかになでてくれる。
 こんなにもなつかしい静けさのなかで
 かうして今日も亦
 さみしさを淋しんでゐると
 ぼくのあたまの上で
 時をおきつつないてゐる
 小鳥の声のいとほしさ。
 ぼくの目は
 木の枝から木の枝へと
 今
 一羽(いつぴき)の小鳥のゐどころをさがしはじめた。

# by hinaseno | 2016-03-11 11:41 | 木山捷平 | Comments(0)

まずはじめに、木山捷平が大正14年に住んでいた雑司ヶ谷の地図を。
昭和初期の地図もあったのですが、こちらの戦後の地図のほうが見やすいのでそれを貼っておきます。
「或る夜、二銭ぐらゐの蠟燭を一本持って来た」_a0285828_1304498.png

木山さんが下宿していたのは雑司ヶ谷4丁目630。赤丸を付けているのが630番地。大正時代の地図を見ても630番地は同じ場所にありました。小学校の真ん前ですね。この地図では日出小学校となっていますが木山さんがいた当時は高田第四小学校。その正門前にあった長屋の二階を木山さんは間借していました。
木山さんの部屋からは小学校の校庭がよく見えたために、大正14年の作品にはこの小学校を舞台にしたはずの詩がいくつも書かれています。
大正14年の詩に出てくる雑司ヶ谷墓地や護国寺、そして木山さんが何度も乗ったはずの市内電車の駅もすぐ近くにありますね。

これがこのあたりの現在の地図。
「或る夜、二銭ぐらゐの蠟燭を一本持って来た」_a0285828_1311735.png

第四小学校(日出小学校)があった場所には豊島区役所が建っています。
これは一昨年の暮れに東京に行ったときの写真。左の建設中の高いビルが豊島区役所。その真下あたりに木山さんが住んでいたわけです。
「或る夜、二銭ぐらゐの蠟燭を一本持って来た」_a0285828_13494063.jpg

ちなみにこの豊島区役所から西に少し行ったところにある豊島区立郷土資料館で先日まで豊島区ゆかりの坪田譲治展が開かれていて山高登さんが表紙の絵を描いた『びわの実学校』が展示されていました。でもどうやら展示されていたのは134号までの30点だったようです。全部展示しているたつののYさんはやはりすごいですね。

さて、木山さんは姫路にいるときにも貧しかったですが、この雑司ヶ谷にいるときも相当に貧しい暮らしをしていました(ずっとですね)。そんな当時の貧しさを表している詩を2つ紹介します。いずれも大正14年に書かれた詩。
まずは「雨」。

 もう金がいくばくもないから
 歩いて帰らうと思つてゐたのに
 ひどく空が曇つて来たので
 また雨にふられて
 たつた一枚の着物をぬらしてはと
 電車にとびのつたが――
 電車が走るにつれ
 だんだんはれて行く空を眺めながら
 私は次第に憂鬱になつて
 おなかでもいたいみたいに
 ふところに両手をつつこんで
 銅貨のかずをかぞへながら
 実は今夜の夕飯についてかんがへてゐるのであつた。

次は「自動体量器」。

 お金を借りに行く人もなく
 ろくろく飯も食へないので
 ひとりもののこのからだが
 めつきり痩せて来たのに気づいて
 いい空気でも吸うたら
 心がはればれするかも知れないと
 散歩に来た上野公園で
 ためしに乗つた自動体量器
 どうしても秤の目が出ないので
 よく考えて見たら
 お金を一銭入れ忘れてゐるのであつた。

その日食うものにも困るような状態で、おそらく大学にもあまり通わず職探しの日々を送っていたはず。でも、近所に暮らしていた村井武生の家にはたぶん毎日といっていいくらい訪ねて行っていたにちがいありません。

村井武生が内藤鋠策の発行していた『抒情詩』に「蠟燭」と題された散文詩を書いています。毎日毎日彼の家を訪問してくる友の話です。

 たぶん訪問病にかかってしまったのであらう。彼は毎晩のやうに私の部屋にやって来た。
 初めの内は、私もいく分気まづい思ひはしないでもなかったが、しまひには彼の来るのを待つやうになってしまった。
 或る夜のこと――彼は、私は電灯もなしに、真っ暗な中に居ることをふびんにでも思ったものか、それとも、それによってぎこちない思ひをさせられるためにつまり自慰的良心といった風なもので興じたものか――或る夜、二銭ぐらゐの蠟燭を一本持って来た。そしてその夜から毎晩かかさず、その細い蠟燭を一本持ってやって来るのである。
 そしてその蠟燭のともれてゐるあひだを最も面白く、愉快に過さうと苦心してゐるやうであった。だがどちらかの話が、どんなに興に乗ってる時でも、その灯が消えてしまふとふいと逃げるやうにして帰ってしまふのである。
 私はこの可哀さうな友のために、毎日何か面白い話を考えておくやうになってしまった。
 或る夜、いくら待っても彼はやって来なかった。私はさびしかった。そしてまっ暗な部屋のなかで、友の姿をどんなに待ちつかれてしまったことか。
 翌くる夜、彼はいそいそとやって来た。勿論私は子供のやうに喜び迎へた。
 ――昨夜はどうしたんだ、あんなに待ってゐたのに。
 ――いや、全くどうしようもなかったのだ。さんざ都合してみたんだが、蠟燭の金が出来なかったのだ。
 私は驚いて友の顔を見上げた。だが無邪気に笑ってゐる友を長く見てゐるにしのびなかった。そして私は何げない顔で煙草をすすめながら、そっとその蠟燭を机の曳出しにしまっておいた。そして二人はどうしたものか、その夜はしみじみまっ暗な部屋の中で語りたい気持ちになってゐた。

なんだかいい話です。何度か出てくる「或る夜」という言葉が印象的ですね。
ここからはいくつもの推測。
残念ながらこの「蠟燭」がいつ発行された『抒情詩』に掲載されたのかは調べることが出来なかったのですが、もしかしたら木山さんが雑司ヶ谷を去って姫路にやって来た昭和2年頃に発行された『抒情詩』に掲載されたのかもしれません。
木山さんが『抒情詩』を毎号手に入れていたのは間違いのないことなので、この「蠟燭」に描かれた「可哀さうな友」が自分のことであることはわかったはず。うれしくなった木山さんは姫路で「たつた一人の友」である大西重利にもこの詩を見せて「これ、ぼくのことなんだ」とか言っただろうなと。
で、数年後、大西重利は、「大西重利に」という言葉を添えた「秋」を収録した『野』を出版したばかりの木山さんも作品を載せている『南方詩人』に作品の依頼が来たときに村井武生のこの詩を思い出して、もうひとつの「ある夜」の話を書いてみようと思ったのではないだろうかと。
木山さんに読まれることがわかった上で、大西重利なりの返詩として。
あとはこの日書いたブログを。
# by hinaseno | 2016-03-09 13:02 | 木山捷平 | Comments(0)

「りんごを食はせろ」


前回、村井武生と木山捷平の「林檎」というタイトルの詩を紹介したあとで、ある詩のことを思い出しました。タイトルは「ある夜」。

 「りんごを食はせろ」
 子供のやうだだをこねてゐた友は
 たうとうビールをぶつけて眠つてしまつた。

 姿見一ぱいに
 姿見一ぱいのビールの泡が
 するすると涙のやうに
 つたはり落ちるのを私は
 「なくな、よう、泣くな」と
 ひとりごとしながら
 たんねんにふいてゐた。

この詩を書いたのは昭和2年の木山捷平にとっての「たつた一人の友」であった大西重利。『南方詩人』という雑誌の昭和5年1月号に掲載されたもの。
この号に大西重利の作品が収録されているということを教えていただいたのは総社の清音読書会のNさんでした。ある方を介して僕が大西重利のことを調べているということがNさんに伝わり、連絡をいただいたんですね。ただ「ある夜」というのがどういう作品なのかは不明ということでした。
で、いろいろ調べていたらある図書館に『南方詩人』のその号が所蔵していることがわかり、電話で連絡をとって、対応していただいた方にそれがどういう作品であるかをうかがったら、詩だということがわかったんですね。
一刻でも早くその内容を知りたかったので、コピーを依頼する前に、電話で詩を読んでいただきました。
その最初の言葉が「りんごを食はせろ」でした。

思いもよらないきつい言葉から始まっていたので、思わず聞き直ましたが、瞬間的に僕はそれが木山さんの発した言葉に違いないという確信を持ちました。『野人』を発行していた姫路の南畝町288にあった大西重利の部屋で発した木山さんの言葉だと。

さて、その姫路にやってくる前に木山さんが住んでいた東京の雑司ヶ谷に、木山さんが住む半年くらい前の大正13年の秋(11月はじめ)に村井武生は石川県から移り住んできます。

村井武生の「郊外に住む」という連作詩の「新居」と題された作品はこんな言葉から始まります。

 
 けふから私は郊外の人となつた
 北国に住みなれた私は
 郊外の生活がなつかしい

 わけて冬ちかいこの雑司ケ谷墓地あたりの気持ちは
 みづみづと故里の秋を思はせる

あるいは「一日」と題された詩にはこんな言葉も。

 墨絵のような雑司ケ谷墓地のあたりの美しい遠景をながめてゐると
 しきりに故里のことが思い出される

「雑司ヶ谷墓地」「遠景」といえば、木山捷平の大正14年に書かれた作品に、雑司ケ谷墓地のあたりを舞台にしたまさに「遠景」という題の作品がありました。この詩に関してはこの日にも書いています。とにかく大好きな作品。『野人』の第一輯に収録された方を引用しておきます。

 草原の石ころの上に腰を下して
 幼い少女が
 髪の毛を風になびかせながら
 むしんに絵を描いてゐた。
 私ははづかしさうに近よつて
 のぞいて見たが
 やたらに青いものをぬりつけてゐるばかりで
 何をかいてゐるのか皆目わからなかつた。
 そこで私はたづねて見た。
 「どこを描いてゐるの?」
 少女は微笑して答へてくれた
 「ずつと向ふの山と空よ。」
 だがやつぱり
 私にはとてもわからない
 たゞ青いばかりの絵だつた。
 

さて、村井武生の作品に、彼の部屋を「或る夜」訪ねてきた「友」の話が出て来るものがありました。毎晩のように村井の部屋にやって来る「可哀想な友」の話。僕にはそれが木山さんのような気がしてならないのでした。
大西重利の部屋で酔っ払ってビールを投げつけるという可哀想な姿を出してしまった「ある夜」の2年前の「或る夜」の、別の木山さんの可哀想な姿を描いた話。
# by hinaseno | 2016-03-08 15:23 | 木山捷平 | Comments(0)

村井武生に関して少しの可能性を考えて(でもあまり期待はしないで)動いてみたら、ちょっとうれしい連絡が入りました。「それ」が手元に届くのはもう少しあとになりそうですが、いつもの通り待てば海路の日和あり、です。届くのが楽しみ。
僕の木山捷平研究(というほどエラそうなものではちっともありません)の中心にあるのは大正14年から昭和2年にかけての木山さんなので、その時期に木山さんと関わりをもち、大きな影響を与えたはずの人物を発見したことは確かなようです。

うれしいと言えば、たつののYさんから『びわの実学校』に掲載された野長瀬正夫の作品のコピーを送っていただきました。創刊号に「老人と子ども」と題された童話が載っていたことは確認していましたが、調べてみたら25号にも「古いアルバム」という作品が載っていることがわかったので、Yさんにコピーを頼んでいました。
そうしたらなんとその号の表紙の実物大のカラーコピーまでしていただいて。表紙の絵を描いているのはもちろん山高登さん。どちらにも大好きな汽車の絵が描かれていたので、それだけでうれしくなりました。
「十の林檎を二つに分けるといくつですか」_a0285828_14164092.jpg

さて、25号(昭和42年10月発行)に掲載された「古いアルバム」はどんな作品だろうかと思ったら、「古いアルバム」という表題のもと、「ふるさと(一)」「ふるさと(二)」「ふるさと(三)」と題された三つの詩が掲載されていました。

『酔いざめ日記』におそらく唯一村井武生が木山さんの家を訪ねて来た日、ふたりはいっしょに野長瀬正夫の家に行っています。
考えたら3人ともある時期、田舎で代用教師をしていました。木山さんは兵庫の田舎で、村井武生は石川の田舎で、そして野長瀬正夫は奈良の田舎で。「古いアルバム」のふるさとはもちろん奈良のこと。

ところで木山さんの「杉山の中の一本松」では村井武生は1903年生まれと書かれていましたが実際には木山さんと同じ1904(明治37)年生まれのようです。そして野長瀬正夫は1906年生まれ。
ちなみに小津安二郎は1903(明治36)年生まれ。木山さんの一つ上。でも木山さんは3月生れなので学年は同じはず。で、小津は大正10年から12年にかけて三重県の山奥の小学校で代用教師をしていました。

ところで先日、木山さんは村井武生の名を、野長瀬正夫と同様に『教育文芸』という雑誌で知ったはず、と書きましたが、もしかしたらもう少し前だったかもしれません。
木山さんは大正11年頃に木山宵平とか樹山宵平とかといった変名で短歌や詩、エッセイ(散文詩?)をいろんな雑誌に投稿していました。その一つ『文章倶楽部』という雑誌に村井武生が詩をいくつか投稿していたんですね。
それから村井武生の第一詩集『樹蔭の椅子』や木山さんの第一詩集『野』を出版した抒情詩社が出していた『抒情詩』という雑誌にもかなり多くの詩が掲載されています。どれも質が高いものばかり。

抒情詩社を作り『抒情詩』を発行していた内藤鋠策は『抒情詩』の大正14年4月発行号でこんなことを書いています。

 百年目二百年目に一人だけうまれる詩人、その一人が自分であると北原白秋君たちは気づいてくれなければならない。渡辺渡、岡村二一、村井武生たちは、陶山篤太郎、赤松月船、岡本潤君たちと次の時代を築上げなければならない。佐藤惣之助、尾崎喜八、金子光晴たちは、目附役をつとめるだらう。
 それから、高村光太郎、萩原朔太郎、室生犀星、日夏耿之介、千家元磨君の惑星たち……

これを読むと内藤の村井武生に対する期待が相当高かったかがわかります。木山さんからすれば、きっと村井武生は憧れの存在だったはず。

というわけで、その『抒情詩』に掲載された村井武生の作品を一つ紹介しておきます。タイトルは「林檎」。最後にあのフレーズがやはり出てきます。
 林檎

果物屋の前を通つたとき
私の暗い生活は
その明るさに がくりとざせつした
そこで私は
煙草をあきらめて 林檎を買つて帰つた
と 私の部屋は
急に電燈のついたやうに明るく
こんなうすぐらい夕ぐれでさへ
はればれと私のひとみを洗つてくれた

ちなみに木山さんにも「林檎」と題された詩があります。小説家として歩み始めた昭和10年に書かれた未発表詩篇。何かの小説の一場面に使われていたような気がします。
  林檎

先生。「十の林檎を二つに分けるといくつですか」
或る生徒。「はい、九つと一つであります。」

もうひとつ、「林檎」が出てきませんが「果物屋」が出てくる詩を。タイトルは「別れ路」。こちらは大正14年。雑司ヶ谷に住んでいたときに書かれたもの。雑司ヶ谷にあった墓地も出てきます。いかにも大正14年らしい作品です。
 別れ路

ひとりは果物屋のやうに明るく
ひとりは青物屋のやうにみづみづしい
少女が二人――
墓地裏の別れ路まで来ると
につこりと微笑して
さやうならと言つて別れた。

さびしい
しかもなつかしいあの別れ路よ
私は今日も
午後の三時が来たので
ひとりであそこへ行つて見た。


さて、村井武生も雑司ヶ谷を舞台にした詩とエッセイをいくつか書いていました。そのとき村井の家にやって来ていた「友」の話も。
# by hinaseno | 2016-03-05 14:18 | 木山捷平 | Comments(0)

「島田清次郎を憶ふ」


ウィキペディアで、村井武生の出身地である石川県美川町(現在は白山市)を調べてみると、出身有名人の名前が4人。でも、村井武生の名前はありませんでした。
1番目に載っているのが島田清次郎。彼はある時期、まさに時代の寵児としてもてはらされたようです。ただ、ある事件によってその後の人生は一転。結局31歳で亡くなることになります。

ちなみに2番目に載っていたのはミュージシャンの浅川マキ。彼女のレコードやCDはもっていませんが、パソコンの中にはこの「夜が明けたら」という曲が1曲収められています。



この曲、昔、小西康陽さんの『これからの人生。』でかかって、ちょっと惹かれるものがあったので入れておいたんですね。独特の世界をもっているミュージシャンであることは確かです。浅川マキさんは同郷の島田清次郎や村井武生のことは知っていたんでしょうか。

さて、村井武生はやはり同郷の島田清次郎のことを書いた文章を残していました。「島田清次郎を憶ふ」と題されたエッセイ。
エッセイでは「彼」と表現したまま話が進み、最後の方でようやくこんな言葉が出てきます。
私はこの不幸な彼を、同郷の友人島田清次郎のことを、暗く憶ひ記してみたいと思ふ。

島田清次郎は村井武生よりも4歳年上。でも、友人だったんですね。
実際には彼の家とはもっとつながりがあったようです。島田清次郎の父は村井武生の家の船(漁師船)の船長をしていたとのこと。ところが、ある嵐の日に海の犠牲になったと。
残念ながらこのエッセイがいつ、何という雑誌に掲載されたのかは不明。ただ、1924(大正13)年に精神病院に入れられたことが書かれていて、1930(昭和5)年に亡くなったことには触れられていないので、内容から察するに精神病院に入れられたあとの大正14年から昭和2年あたりに書かれたのではないかと思います。

僕が島田清次郎の名前を知ったのは、木山さんが大西重利の手を借りて姫路で発行していた『野人』の最後の号である第五輯(昭和2年12月25日印刷、昭和3年1月1日発行)でした。後に「大西重利へ」の言葉が添えられることになる「秋」が収録されたものですね。その「消息」と題されたあとがきの最後に彼の名前が出てきたんですね。
島田清次郎なんか今年あたり復活してくれると文壇も覇気をもたらすかも知れない。

友人でもなければ、詩人でもない島田清次郎という作家の名前がなんでこんなところに唐突に出てくるんだろうとずっと考えていましたが、どうやらその答えは村井武生とのつながりにあったようです。
大正14年に木山さんが上京したときに同じ雑司ヶ谷に住んでいた二人は何度も会って交誼を深めたはず。そして木山さんが東京を離れても、村井武生は自分の作品が載った雑誌を木山さんに送り続けただろうと思います。
木山さんが姫路で発行した『野人』を村井武生に送ったのはいうまでもありません。

『野人』の第五輯の最後に添えられたあの言葉は、その前に村井武生から送られて来たはずの雑誌に載っていた「島田清次郎を憶ふ」というエッセイを読んだことの木山さんなりのメッセージだったんですね。
# by hinaseno | 2016-03-04 12:57 | 木山捷平 | Comments(0)