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by hinaseno

アメリカン・ポップス伝パート2第5夜(3)


彼(アル・カイオラ)は(「ダイアナ」で弾いた)このフレーズ、♫ドンドコランカンタンカンタンカン♫を他のシンガーのセッションでもじゃんじゃん弾いたんです。

BOBBY DARIN / Dream Lover


この曲でピアノを弾いていた人もこの同じタイプの曲を出しました。

NEIL SEDAKA / Oh! Carol


このキャロルはキャロル・キングのことだというのはもう有名な話になっていますけれども、このキャロル・キングもポール・アンカの「ダイアナ」に感激して すぐにドン・コスタのもとに走ったんですね。そして彼のアレンジでデビュー曲を発表しました。

CAROLE KING / Under the Stars


さて、この♫ドンドコランカンタンカンタンカン♫のギター・フレーズの話を続けましょう。アル・カイオラはじゃんじゃんこのフレーズをあちらこちらのセッションで弾きました。

JACKIE WILSON / Lonely Teardrops


この曲を作ったベリー・ゴーディー(Berry Gordy)は後にモータウン・レコードを作るんですけれどもね。これまたみなさんご承知のことですけれども、このときはまだ作曲家でした。

ドゥーワップのクレスツも、

CRESTS / The Angels Listened In


日本では九ちゃんでお馴染みの、

JIMMY JONES / Good Timin'


ブライアン・ハイランドも、

BRIAN HYLAND / Four Little Heels


そして極め付きは、

BILLY VAUGHN / Wheels


ここまで脇役であったこのギター・スタイルがついにメインとなったヒット曲が出たということになるんですね。まあこれやってますと番組が終わりますのでこのへんにしますけれども、このサウンドが60年代ポップスとなったんですね。原点は「ダイアナ」でドン・コスタでアル・カイオラだったというわけです。


さて、ここまできますとさしものロックンローラーも抵抗しきれなくなったんですね。♫トレインケプトアローレンオーナイロ〜ン(The train kept a-rollin all night long)♫と歌っていたジョニー・バーネットも、

JOHNNY BURNETTE / Dreamin'



♫ビーバッパルーラ(Be-Bop-A-Lula)♫のジーン・ビンセントも、

GENE VINCENT / Mister Loneliness


「サマータイム・ブルース」のエディ・コクランも、

EDDIE COCHRAN / Cherished Memories


なんとこの邦題は「コクランのズンタ・タッタ」でした(笑)。

60年代ポップスのサウンドの原点は「ダイアナ」でドン・コスタでアル・カイオラ_a0285828_14173302.png

さて、ニューオーリンズで素朴な♫ローディローディローディミスクローディ(lawdy, lawdy, lawdy, Miss Clawdy)♫を歌っていたロイド・プライスまでも、

LLOYD PRICE / I'm Gonna Get Married


ニューオーリンズの匂いが残ってますけれどもアレンジはドン・コスタでした。ドン・コスタという人はあのニューオーリンズ・サウンドもこのような都会的なサウンドに仕立て上げるんですね。

バディ・ホリーも結婚した58年の秋頃にはニューヨークに移り住んでいたんですね。で、クリケッツのメンバーはテキサスのラボックを離れたくないということで残ったんです。ですからバディ・ホリーとクリケッツはもう別れ別れになっていたんですね。で、ホリーはすでにソロの道を歩んでいたんです。58年10月ニューヨークで録音された曲です。

BUDDY HOLLY / It Doesn't Matter Anymore


言っておきますがこれは悪くないんですね。これはこれでバディ・ホリーの特徴が出ていますよね。作曲は「ダイアナ」のポール・アンカでした。

で、よく「バディ・ホリーが死んでロックンロールが死んだ」と言われますけれども、もう58年暮れにホリー自身も多少の路線変更の兆しがあったんですね。ただ59年に音楽キャリアを閉じなければいけなかったので、ジョニー・バーネットやジーン・ヴィンセント、エディ・コクランのように如実な変化が感じられる曲が存在していないというわけですね。これが神話として存在できる要因なのではないかというふうに(笑)皮肉屋である私は見ております。

1956年に始まったロックンロール時代は59年に幕を閉じたというわけです。


# by hinaseno | 2016-11-18 12:23 | ナイアガラ | Comments(0)

アメリカン・ポップス伝パート2第5夜(2)

さて、58年になってようやくニューヨーク生まれのロックンロール・サウンドが登場したわけですけれども、それ以前のニューヨークはドゥーワップ・グループの花盛りだったんですね。パート1の1回目で聴いていただきましたけれども、54年のこの曲がブームの火種になったと一般的なロックの歴史本では言われております。

THE CREW-CUTS / Sh-Boom

アトランティック・レコードのコーズ(The Chords)の曲を白人グループがカバーしてPopチャートの1位になったんですね、このクリュー・カッツですけれども。
この1位というのがキーポイントなんです。というのもここまで大ヒットしますと業界は無視できないんですね。そこで続々と白人のR&Bのカバーが登場したということですね。フォンテイン・シスターズ(The Fontane Sisters / Hearts of Stone)もマクガイア・シスターズ(The McGuire Sisters / Sincerely)も聴いてもらいました。
そうしますと白人シンガーでもドゥーワップ・スタイルでデビューを飾るという人が出てきます。

NEIL SEDAKA / While I Dream

歌っているのはニール・セダカですね。彼も56年がデビューなんですね。初ヒットが出るのが58年の12月ですから、彼も2、3年間の潜伏期間があったということですね。
で、このドゥーワップの流れに新星が登場します。これがなんとチャートに登場したのが「ハートブレイク・ホテル」と同じ56年の1月のことでした。

FRANKIE LYMON & THE TEENAGERS / Why Do Fools Fall in Love

R&Bでは当然のごとく1位だったんですけれどもPopでも6位を記録しましたね。R&Bチャートでは「ハートブレイク・ホテル」は3位でしたから、ニューヨークではこちらの方に人気が集まっていたということですね。リード・シンガーのフランキー・ライモンはこのときなんと13歳です。まあ実際は14だったと自分では言っているようですけど。まさにティーンネイジャーズ(The Teenagers)だったわけですね。
このドゥーワップ人気というのはアラン・フリードなどの有名DJの力が大きいんですね。白人家庭の子供たちもこのような音楽を知ってしまったので、大人が聴いているようなのんびりした歌はもう聴いていられなくなったということですね。
で、このようなブームの中に単にコーラスだけでなくドゥーワップにラテン・フレーバーを入れた楽曲が登場します。すでにペレス・プラードの「マンボ」なんかが大流行してましたからね。頭にターバンを巻いたターバンズというグループがあるんですけれども、ラテン・フレーバーを入れた大ヒット曲を出しました。55年のことでした。

THE TURBANS / When You Dance

この曲、R&Bチャートでは3位と大ヒットして、Popでは33位だったんですけれども21週間もチャートされました。ですから5ヶ月間もチャートされたということですね。根強い人気があってこのタイプのサウンドが流行し始めました。
56年になりましてフォー・ラヴァーズがこのタイプに挑戦しました。

THE FOUR LOVERS / You're the Apple of My Eye

「冷たくしないで」のオーティス・ブラックウェルの曲なんですけれども、Popで62位にチャートされました。リード・ヴォーカルはフランキー・ヴァリ。彼の声がついにチャート上で聴けたのは、ここから6年後の1962年のことでしたね。グループ名はフォー・ラヴァーズからフォー・シーズンズと変わっておりましたけどね、そのときは。
次もまた同じタイプの楽曲です。グループ名はグラジオラス。

THE GLADIOLAS / Little Darlin'

「リトル・ダーリン」ですね。グラジオラスでした。このグループのリーダーのモーリス・ウィリアムス(Maurice Williams)が作った曲です。この曲をカナダ出身のコーラス・グループがカバーしました。

THE DIAMONDS / Little Darlin’

クリュー・カッツと同じカナダ出身のダイアモンズ。Pop、R&Bともに2位になりました。このサウンドのラインを受け継いでダイアモンズと同じくカナダ出身の若者が自作の曲でデビューします。57年7月に登場したときに、この若者は当時14歳でした。

PAUL ANKA / Diana

この「ダイアナ」はPopでもR&Bでも1位になったんですね。当時日本にポール・アンカ・ファンクラブというのがありまして、そのメンバーだった朝妻一郎さんはこのサウンドが自分の青春の音だと語っておられますが。
フランキー・ライモンが13歳、ポール・アンカは14歳と、1年前のエルヴィスが21歳ということで業界は驚いたばかりだったんですが、13と14が出てきたんですね。
56年のエルヴィスの21歳というのが驚異的だったということは他のベテラン勢の年齢を見るとわかるんですね。シナトラが当時41、ペリー・コモ44、ビング・クロスビーに至っては55ですから、チャートNo.1獲得者としてはエルヴィスの21歳というのは驚異的だったんです。そこへ今度は一気に13、14ですからね。でまた11歳になっていたブレンダ・リーもこの頃にチャートに登場していますから、まさにここからティーンネイジャーの時代が始まりました。
ポール・アンカのサウンドを作ったのはドン・コスタ(Don Costa)です。ベースとバリトン・サックスのユニゾンというのが特徴と言われてるんですね。♫ボン・ツ・トン・ボ・ボ・ボ・ボン♫というのをベースとバリトンがユニゾンでやると。
さらにこれまで打楽器が♫トントコランカントンコンタンタン♫とやっていたんですけれども、ユニークだったのはギターがそのリズムを担当してメロディを付けていたんです。ギターでね。♫ドンドコランカンタンカンタンカン♫っていうやつ。で、これを弾いていたのがアル・カイオラなんですね。

(注)この日のブログでも書いたように、ポール・アンカの「ダイアナ」でアル・カイオラが弾いたギターフレーズがいかにアメリカン・ポップスにおいて重要であったかはこの後大瀧さんによって示されることになるのですが、偶然にも今夜BS-TBSで放送される「SONG TO SOUL〜永遠の一曲〜」という番組で取り上げられるのがまさにポール・アンカの「ダイアナ」。1週間前に亡くなったアル・カイオラの話が出るかどうか楽しみです。
# by hinaseno | 2016-11-16 12:10 | ナイアガラ | Comments(0)

アメリカン・ポップス伝パート2第5夜(1)

アメリカン・ポップス伝パート2、本日は今シリーズの最終回。引き続きましてニューヨークのお話からですが、1956年エルヴィスが「ハート・ブレイク・ホテル」で登場したときと全く同じ時期にニューヨークのデッカ・レコードから新人がデビューしておりました。

BOBBY DARIN / Silly Willy
(注)「Silly Willy」は例のフォーク・ソングをカバーした「Rock Island Line」に続く2枚目のシングル。

歌っているのはボビー・ダーリンです。作詞がドン・カーシュナー、作曲がボビー・ダーリンの自作の歌なんですが、デビューの頃はフォークソングとかカリプソを歌っていたようですね。ボビー・ダーリンはレコードのデビュー前はCMのジングル制作などを行なっていて、そこで同じ仕事をしていたコニー・フランシスと知り合いました。そしてカーシュナー、ダーリンのコンビが彼女に曲を贈りました。

My First Real Love / CONNIE FRANCIS

これはコニー・フランシス4枚目のシングルとして発売されたんですけども、バックコーラスがずいぶん♬ワワワ♬と言ってましたが、これはどうやらボビー・ダーリンが一人で歌っていたそうです。
で、この後、アトランティック・レコードとボビー・ダーリンは契約するんですが、とにかく器用な歌手なんですね、ボビー・ダーリンというのは。なんでも歌える。それでアトランティックとしてはどの路線で売り出そうかということで、最初はやはりエルヴィス路線を考えたようなんですね。というのが最初のレコーディングはナッシュビルのブラッドリー・スタジオで行われていたんです。

BOBBY DARIN / I Found a Million Dollar Baby
(注)「I Found a Million Dollar Baby」の作曲はハリー・ウォーレン。1931年に発表されています。その年に録音されたこれが大ヒットしたとのこと。

ロックンロール・タイプの曲ではなくて、古いポピュラーソングの新しい解釈というのがいかにもアトランティックらしいけれども。
スタジオはナッシュビルのブラッドリーで、さらにジョーダネアーズがバック・コーラスなんですね。ですからやはりここはエルヴィス路線を考えていたんだと思います。このジャズ路線は後にボビー・ダーリンの新境地を開拓することになるんですけれども、まあ、これはあとのことです。
(注)ボビー・ダーリンのジャズ路線の話が出てくるのが半年後に放送された「アメリカン・ポップス伝パート3 第2夜」。

ということで、アトランティック内部でボビー・ダーリンはジャズでいくのかロックでいくのかという分裂がありました。アトコ・レーベルの責任者ハーブ・アブラムソンとプロデューサーのジェリー・ウェクスラーはロックンロール路線に大反対でした。それを押し切ったのは社長のアーメット・アーティガンで「天の声で振り切った」というふうに言われています。それがロックンローラー、ボビー・ダーリンを誕生させました。

BOBBY DARIN / Splish Splash

(ジェリー・リー・ルイスの)「Great Balls of Fire」ですよね、これね。
お聴きの通りステレオなんですね。これはロックンロール・レコードとして初めてステレオ盤で売り出された曲だとも言われています。やはりこれはトム・ダウドが8チャンネル・レコーダーを持っていたからだと思うんですけどね。ヒット曲のタイトルが織り込まれていたこの曲はPop3位でしたがR&Bではナンバー1でした。やはりアトランティックはこの分野での販売力が強かったということなんですかね。
アトランティック・レコードがエルヴィスを買い損なったということは何度も申し上げましたけれども、それの答えがこれだったのではないかと思いますね。アトランティック初の白人ロックンローラーとなったわけですね、ボビー・ダーリンは。
で、彼はニューヨーク初のロックンローラーになったと言ってもいいと思うんですね。ニューヨークの音楽産業というのは巨大ですから、エルヴィスが登場して続々ロックンローラーが出てきてもニューヨークから見ればごく一部なんですね。ニューヨークのルーレット・レコードとかケイデンス・レコードがありますけども、原盤は地方で作っていたもので、ニューヨーク製作のロックンロール・レコードというのはほとんどないわけです。またさらにこの頃はニューヨークにいいロックンロールのギタリストがいなかったということもありましたね。それからエルヴィスから解放されたリーバー&ストラーが58年にニューヨークにやってきたということもニューヨークのロックンロール・シーンにとっては大きかったのではないかというふうに思います。コースターズとこのボビー・ダーリンのミュージシャンは似たような人たちがやっておりました。
さて、ボビー・ダーリンの次の曲がロックンローラーとして決定づける曲となりました。ギターを弾いていたのはアル・カイオラです。

BOBBY DARIN / Queen of the Hop

サックスはキング・カーティス。左で聴こえていたのがアル・カイオラでした。
これは58年10月、Popでは9位でしたがR&Bでは6位でした。あいかわらずR&Bの方が受けがよかったんですね。
アル・カイオラはホリー(バディ・ホリー)の名作「Rave On」のギターも弾いてるんですね。バディ・ホリーがニューヨークで録音したものです。ですからアル・カイオラはニューヨークにおける最初のロックンロール・ギタリストと言っていいでしょうね。
# by hinaseno | 2016-11-15 12:52 | ナイアガラ | Comments(0)

ボビー・ダーリン、そしてアル・カイオラのこと_a0285828_14211970.png

大好きなギタリストのアル・カイオラが今月の9日に亡くなったということを昨日知りました。96歳だったとのこと。というわけで急遽予定を変更。ペリー・ボトキン・ジュニアのことやロビン・ワードの『ワンダフル・サマー』のことはまた後日に。先日亡くなったボビー・ヴィーのことも書けないままでいるけど。

アル・カイオラのことはこのブログでも何度も書いてきました。改めて自分のブログを確認したら、なんとブログを始めて5日目に彼のことを書いていたことがわかりました。その翌日も。
そのときのブログで書いているように、アル・カイオラのことを強く意識するきっかけとなったのは今から4年前の2012年に放送された大瀧さんの「アメリカン・ポップス伝パート2 第5夜」でした。この日のプログラムは8月31日深夜(正確には9月1日午前0時)の放送予定でしたが、放送直前にフィリピン近海で大きな地震が起きたために1週間延期されることになったんですね。実際には大事には至らなかった地震でしたが、まだ東日本大震災の津波の記憶も新しかったので、放送が中止になってしまったのも仕方がないことだったかもしれません。
で、放送されたのが1週間後の9月7日(9月8日午前0時)。この日の放送ではいろんな人が登場したのですが、とにかくアル・カイオラがあまりにも衝撃(笑撃)だったのでそれを書いたんですね。
僕のブログは2012年の9月4日に始めたので、もし予定通りの日に放送されていればアル・カイオラのことは書かなかった可能性があります。その意味でもアル・カイオラに対してはどこか運命的なものを感じています。

で、この日の放送は本当に何度も聴いたのですが、つい先日も聴き返したばかりでした。
きっかけはボビー・ダーリン。
先日文字起こしした「アメリカン・ポップス伝パート4 第3夜」にボビー・ダーリンが唐突に登場したので、それ以前の放送で彼について語られたものを聞き返したくなったんですね。それが「アメリカン・ポップス伝パート2 第5夜」でした。興味深いのはアル・カイオラの話はボビー・ダーリンがらみで出てきたこと。ボビー・ダーリンがいなければ、というかアル・カイオラがいなければアメリカン・ポップスは生まれていなかったかもしれないと思ってしまうほどです。
大瀧さんのアメリカン・ポップス伝の中心にいたのは言うまでもなくエルヴィス・プレスリーでしたが、ボビー・ダーリンこそが陰の中心人物と言ってもいいような気がしました。
ちなみにボビー・ダーリンは「アメリカン・ポップス伝パート3 第2夜」にもこの日のプログラムの主役の一人として登場します。
本当は「アメリカン・ポップス伝パート2 第5夜」の流れで1960年代ポップスへと入ってほしいのに、大瀧さんは何度も後戻りしているんですね。彼には重要な繋がりがいくつもあって、それを確認しておかなければいけないと思わせる存在だったことがわかります。
先日文字起こしした、アメリカのマッカーシズムに触れられた「アメリカン・ポップス伝パート4 第3夜」のプログラムを作るきっかけはいろいろとあっただろうとは思いますが、もともとにあったのはなぜボビー・ダーリンのデビュー曲がフォークソングだったのかという疑問から始まったのかもしれません。

というわけで、次回から「アメリカン・ポップス伝パート2 第5夜」と「アメリカン・ポップス伝パート3 第2夜」のボビー・ダーリンとアル・カイオラに触れた話の文字起こしをしようかと思います。
文字起こしはもちろん大変ですが、大瀧さんの声を聴きながら文字に直していくと言う作業はまるで写経をしているような感じで、心を鎮めてくれる効果があることもわかりました。

アル・カイオラが昨年1月に演奏している映像がありました。


# by hinaseno | 2016-11-14 12:47 | ナイアガラ | Comments(0)

ちょっと間が空いてしまいました。
原因はトランプ・ショック。
というのは嘘、と言えないのが悲しいです。

それにしてもとんでもない人が大統領になったものです。オバマのような、人間として信頼できる人があの国にいたからこそ、わが国にどんなにとんでもない人たちが登場しても最終的には安心できる部分があったのですが。
日本は、世界はどうなってしまうんでしょう。世界はこれから極寒の時代に入っていきそうです。

そういえばオバマという人は音楽に対してもとても優れた耳を持っているようで、今年の夏に紹介されたこの「President Obama's Summer Playlist」の曲の素晴らしさといったら本当に驚いてしまいました。
知らないミュージシャンも何人もいますが、ビーチ・ボーイズからジャズ、ソウルまで様々なジャンルの音楽が並んでいて、彼がいかに優れた感性の持ち主かがわかります。個人的に特に嬉しかったのは大好きなCorinne Bailey Raeのこの曲が入っていたこと。



それに比べて、と言ってはなんですが、トランプさんというのはたぶん死ぬほどに退屈なレベルのカントリー・ミュージック(村上春樹が中西部を車で走っていた時に、ラジオのどの局からも同じようなものが流れてきていて頭が痛くなってしまったというような音楽)を一日中、あるいは一生聴いても平気なような人で、絶対に黒人の音楽なんかは聴かないはず。
いや、ただ聴かないだけならいいんだけど、あの方には気に入らないものは排除しようとする傾向があるので困ったものです。
前回マッカーシズムのことを書きましたが、それに似たようなこと、あるいはそれ以上のことをやってしまう可能性が十分あります。いったいこれからの4年間、何が起こるやら。明るい未来を想像することができなくなりました。

というようなことを考えながらここ数日ずっとやっていたのはペリー・ボトキン・ジュニア(Perry Botkin Jr.)という人がアレンジした曲を調べる作業。なにやってんだかですが、ずいぶんはまってしまって今もその作業は続いています。こういうの本当に楽しいですね。
きっかけは待望のこのロビン・ワードの『ワンダフル・サマー』がついに再発されたことですね。
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このアルバムのアレンジとタイトル曲の「Wonderful Summer」はじめいくつかの曲を作曲していたのがペリー・ボトキン・ジュニアでした。

ロビン・ワードの『ワンダフル・サマー』のことはこのブログでも何度も何度も書いてきましたが、今回最高に満足する形で再発してもらうことができました。関係者の方々には心から感謝です。
『ワンダフル・サマー』全曲のステレオ・バージョンとモノラル・バージョン、さらにボーナス・トラックとして「Wonderful Summer」のシングル・バージョン、それに続くシングル「Winter’s Here」とそのB面の「Bobby」、さらに「In His Car」(タイトルも曲もビーチ・ボーイズっぽい)。そして何よりも嬉しかったのがこの日のブログでお願いしていた「In His Car」のB面の「Wishing」も収録されたこと。全部で29曲。
すばらしい。

そして解説も希望していた通り長門芳郎さん。言うことなしですね。
今から約30年前の1985年に日本で初めてロビン・ワードの『ワンダフル・サマー』が日本で発売された時(ジャケットは大瀧さんが持っていたLPを写したもの)、長門さんはロビン・ワードについても『ワンダフル・サマー』についてもほとんど情報がない中で書かれていたのですが(それでもすごいエピソードが書かれていました)、現在はネット上にも彼女の情報はあふれていて、その情報を基にして新たに解説を書かれています。ラリー・レヴィンさんが施した究極の”魔法”の話も。

ところでペリー・ボトキン・ジュニアがアレンジしたものを調べていて知ったのがこのレターメンの『Warm』というアルバム。
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このアレンジ&指揮をしていたのがペリー・ボトキン・ジュニアだったんですね。
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これは冬になったら聴きたくなるアルバムなのですが、これを買うきっかけになったのがA面の1曲目に入っているこの「Our Winter Love」という曲。



この曲はクリスマスのオムニバスのCDに入っていて知りました。実際にはクリスマスの曲というわけではありませんが、とにかくこれ以上ないロマンチックな曲で僕にとっては極上のクリスマスソングになりました。それがペリー・ボトキン・ジュニアのアレンジだったと知って驚きと納得。

ペリー・ボトキン・ジュニアのアレンジした曲といえば、やはりヴァリアント・レコードのカタログにすばらしいものがありすぎます。まだ未CDの曲も多い。この日のブログでも書きましたが、宮治淳一さんにぜひヴァリアント・レコードのボックスを出してもらいたいです。
そういえばそのヴァリアントから出ていたペリー・ボトキン・ジュニアのアレンジしたインガーズ・インクの『ボサ・ノバ』というアルバムが昨年に暮れにCD化されていたことを今頃になって知りました。すでに品切れ。ショック。

ところでその宮治さんが昨日アゲインでイベントをされていたんですね。今日の石川さんのブログでこの曲が紹介されていてびっくり。



ザ・ピーナッツの「情熱の花」のオリジナルですが、この「Passion Flower」という曲を書いたのがまさに「Wonderful Summer」を書いたペリー・ボトキン・ジュニアとギル・ガーフィールド。といってもメロディはもろ「エリーゼのために」ですが。アメリカでは全然売れなかったみたいですが、イタリアではヒットしたようです。
この曲の存在は先日知ったばかりだったんですがこんな映像があったとは。
びっくりしたのはこれを歌っているThe Fraternity Brothersというグループのこと。この3人はまさにヴァリアント・レコードの中心人物のバリー・デヴォーゾンとペリー・ボトキン・ジュニアとギル・ガーフィールドなんですね。たぶんリード・シンガーがバリー・デヴォーゾンのはず。後ろで歌っているバックコーラスのどちらかがペリー・ボトキン・ジュニアですね。いや、びっくりでした。

ということでロビン・ワードの『ワンダフル・サマー』の話を書くつもりでいましたが、次回もペリー・ボトキン・ジュニアがアレンジした曲の話をしようかと思います。
僕の個人的な感覚をいえば、ペリー・ボトキン・ジュニアのアレンジした曲というのは秋から冬にかけて聴くのに似合っているような気がします。
というわけで今回のロビン・ワードのCDにも収録されている「Winter's Here」を。曲は「Wonderful Summer」と同じくペリー・ボトキン・ジュニアとギル・ガーフィールドの共作。



もう1曲、同じような風の音が聞こえるカスケーズの「The Last Leaf」を。邦題は「悲しき北風」。



ペリー・ボトキン・ジュニアがアレンジした曲で一番有名なのはおそらくカスケーズの「悲しき雨音」だと思いますが、これはその次のシングル。実はこのシングルにはアレンジャーの名前がなぜかクレジットされていないのですが、まずまちがいなくペリー・ボトキン・ジュニアのアレンジのはず。

うちの庭にも少しずつ冬がやってきています。
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# by hinaseno | 2016-11-12 14:39 | 音楽 | Comments(0)