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by hinaseno
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海辺の荷風(5)


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『断腸亭日乗』の昭和20年6月10日に書かれている「ウエルレーヌ」。
以前に何度か明石の日々を描いた部分を読んでいた時は、「ウエルレーヌ」がだれなのかを考えることもなく、読み流していました。でも、今回、荷風の明石の日々を一日一日パソコンに打ち込む作業(写経に似ています)をしていて、あっと気がつきました。
これは荷風の最も好きなフランスの詩人のひとりであるヴェルレーヌ。

実は先日、岡山の小さな古書店で荷風の『珊瑚集』の復刻版を見つけて、ヴェルレーヌの”ある詩”を探していたばかりでした。『珊瑚集』は荷風が自分の好きなフランスの詩人の詩を翻訳したものを集めた詩集。それを見ると荷風がどの詩人を好きなのかがよくわかります。一番多いのはレニエ(『珊瑚集』ではレニエエと表記)の10篇、次に続くのがボードレール(ボオドレエルと表記)とヴェルレーヌ(ヴエルレエンと表記)の7篇。本に載っている順序としては最初がボードレール、次がランボー(ただしランボーは「そぞろあるき」と題された1篇だけ。「そぞろあるき」とは散歩のことですね)、そして三番目がヴェルレーヌ。

僕が探していたヴェルレーヌの詩というのは「秋の歌」と題された詩。先日、小津の話のときにふれた林芙美子も実は荷風の大ファンで、彼女の本の中に荷風の翻訳したヴェルレーヌの「秋の歌」という詩が引用されていることを川本さんの本で知って、それが『珊瑚集』に収められていると書かれていたので探したんですね。でも、載っていなかった! 川本さんのミス? でも、よく読み返してみたら、林芙美子の小説(『雨』)の女主人公の夫が荷風の『珊瑚集』を読んで、荷風の訳の素晴らしさを話して聞かせる中で「秋の歌」が出てくるんですね。別に『珊瑚集』に「秋の歌」が載っていると書かれているわけではないんですね。
実際に荷風の翻訳した「秋の歌」が載っているのは荷風の『あめりか物語』。『ふらんす物語』ではなくて『あめりか物語』にスランスの詩人であるヴェルレーヌの詩が出てくるというのも面白いですね。

ところで、荷風はヴェルレーヌをいろんな形で表記しています。おそらく最初期は『珊瑚集』に見られるヴエルレエン、それ以降はヴエルレーン、ヴエルレーヌ。最近出た文庫本ではさらに出版社の判断でいろいろな形に表記し直されています。例えばヴェルレーン、ベルレーン...。わかる人にはわかるんでしょうけど、わからない人にはだれがだれだか、ですね。
ただ、ウエルレーヌと書かれているのは調べた限り、この6月10日の『日乗』だけ。荷風が濁点を落としていたとは考えにくいので、最初にそれを活字に直した人が見落としてそのままになってしまっているのかもしれませんね。ただ、面白いことに僕の持っている『断腸亭日乗』の全集の索引には「ヴェルレーヌ」の項目に、この日の記述も含まれていました。でも、かなり正しい表記が横に付されている2002年に出た新版の『断腸亭日乗』でも「ウエルレーヌ」のまま。

さて、ウエルレーヌがヴェルレーヌだとわかって、改めて荷風の『珊瑚集』を手にしました。最初に訳されたヴェルレーヌの詩の題名が「ぴあの」、次が「ましろの月」。
この題名を見て、ある作曲家のことがぱっと頭に浮かびました。

クロード・ドビュッシー。
僕の最も好きなフランスの作曲家(この人の場合は優れた作詞家でもありますね)。

ドビュッシーのことはつい先日、この日のブログでも触れました。
「牧神の午後」の話でした。
その日(ほんの4日前ですが)、僕はまだ何も気がついていなくて、こんなふうに書いています。
荷風はこの風景を見てマラルメの「牧神の午後」を想起します。
マラルメの「牧神の午後」といえば、僕はドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」という曲を大好きになって、その流れでその曲のイメージの元となったマラルメの詩の存在を知りました。詩集も買いました。でも、きっと荷風はフランス語の原詩を思い浮かべたんでしょうね。

で、この言葉の後にドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」を貼りました。

実は荷風の明石の日々を書きはじめたときからパソコンでずっと流し続けているのはドビュッシーの音楽でした。まだ何も気づく前から。

パソコンには僕の好きなドビュッシーの曲がいくつも入っています。
「牧神の午後への前奏曲」、「亜麻色の髪の乙女」、「アラベスク第1番ホ長調」、「夢」、「水に映る影」、「版画」(「塔」「グラナダの夕暮れ」「雨の庭」の3曲)、...、そして何よりも好きな「月の光」。
もちろん明石の日々を書き進めながら、荷風が訳したヴェルレーンの詩から頭の中で結びついたのはドビュッシーの「月の光」でした。そしてその結びつきは間違いではなかったんですね。

明石の海辺で過ごしていたとき、ひとりになった荷風の頭の中に流れ続けていたのは、まぎれもなくドビュッシーの音楽だったんです。おそらく陽のあるときに海を見ているときには「牧神の午後への前奏曲」、そして陽が沈んだあとには「月の光」。

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# by hinaseno | 2013-05-10 09:34 | 文学 | Comments(0)

海辺の荷風(4)


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6月9日にまたしても空襲を受け、明石を去る決心をした荷風。明石を発つのは6月11日(正確には12日未明)。
その前日、6月10日の日記。
午後人々皆外出したる折を窺ひ行李を解き日記と毛筆とを取出し、去月二十五日再度罹災後日〻の事を記す、駒場なる宅氏の家に寓せし時は硯なく筆とることを得ざりしに明石の寺には其便あり、明日をも知らぬ身にありながら今に至つて猶用なき文字の戯れをなす、笑ふべく憐む可し、日誌しるし終りて後晩飯の煮ゆるを待つ間、夕陽の縁先に坐して過日菅原氏が大坂の友より借来りしウエルレーヌの選集を読む

人がいなくなって静かになった西林寺のお堂の中で、久しぶりに『断腸亭日乗』を浄書する荷風。それを書き終えた後、夕陽が差し込んでくる、明石の海が見える縁側でフランス語の詩集を読む荷風。
明石で過ごした荷風の日々の中で、海辺の砂浜の上で海を眺める荷風とともに最も好きな風景のひとつ。このとき荷風の頭の中によぎっていたはずの様々な想い想像するだけで、ちょっとたまらない気持ちになります。

昨日僕はこの日の荷風の日記を写しながら(日記を写すのはだいたい前日)、ふとあることに気がつきました。調べてみたらやはり。僕にとっては奇跡的なつながり。またしても、というべきなんでしょうね。個人的な、ちょっと切ない思い出にもつながっているのですが、それがわかってから胸がいっぱいになり、言葉を失ってしまいました。
キーワードは「月」でした。

数日前に紹介しましたが、成島柳北が明石の海辺に停泊して一夜を明かした日、柳北はこんな歌を詠んでいます。
舟人も心ありてや舟とめて一夜あかしの月をこそ見れ

この歌の「舟人も心ありてや」の部分。舟人(岡山の船頭たちですね)も明石の月の美しさをよくわかっているということですね。柳北が明石に到着した頃、たまたま空にきれいな月が出ていて詠まれただけの歌のように思っていましたが、何度かこの歌を読み返しているうちに、この地に初めて来たはずの柳北が明石の月のすばらしさを知っているかのような言葉が気になってきました。実際、柳北の「航薇日記」で詠まれた歌には地名の前に「名にし負う」とか「名に高き」という言葉が含まれています。柳北はいろんな本とともに歌集などもたくさん読んでいて、歌に詠まれている言葉として地名を知っているんですね。
ということは明石も昔の歌にいろいろと歌われているのではないかと考えました。さらに言えば、月照寺という名前のお寺もあるように、きっと明石は「月」につなげられた形で歌に詠まれているのではないかと。

たまたま柳北に関する別のことを調べるために図書館で借りていた『播磨古歌集』(姫路文学館、1995年)という本を調べてみたら、予想通り明石はたくさん歌に詠まれています。
やはり「明石の海」「明石の浜」「明石の浦」「明石の瀬戸」と海に関する歌が多く載っていますが、それ以上に圧倒的に多いのが「明石の月」に関して詠まれている歌。ざっと50首くらい。有名な人では西行法師とか法然上人とか本居宣長とか。「明石」を月の「明し」と一夜の「明かし」に掛けた歌もいくつも。 柳北はその全部までを知らなくても、いくつかは知っていたんでしょうね。

では荷風というと、荷風が明石にやって来た6月3日の日記にこう書かれています。西林寺の縁側から初めて明石の海を眺めたときに書かれた言葉ですね。
書院の縁先より淡路を望む。海波様〻マラルメが牧神の午後の一詩を思起せしむ、江湾一帯の風景古来人の絶賞する処に背かず

「江湾一帯の風景古来人の絶賞する処に背かず」と書かれています。荷風ももちろん、明石の風景を詠んだ歌をいくつも知っているんですね。もちろん間違いなく「月」が詠まれた歌のことも。

そういえばこのときの風景は「縁先」から眺めたもの。6月10日の日記にも「縁先」で荷風は物思いにふけりながら菅原明朗から借りた一冊の本を読んでいます。
フランスの詩人「ウエルレーヌ」の詩集。

「マラルメ」、「牧神の午後」、「ウエルレーヌ」、そして「月」。もしかしたら荷風の頭の中には...。まちがいなく、きっと...。
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# by hinaseno | 2013-05-09 09:52 | 文学 | Comments(0)

海辺の荷風(3)


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昨日のブログでは、6月9日の明石に空襲があった日まで話を進めてしまいましたが、今日はその前日、6月8日の話になります。実は明石の日々を記した『断腸亭日乗』の中では、この日のものが最も多く書かれています。
この日、僕の知る限りわりと午後から(晡下ですね)散歩することが多い荷風が朝から菅原明朗に連れられて、明石の名所を見て回ります。でも、そんなに広くはない町ですからお昼には滞在していた西林寺に戻っています。
この日歩いたコースは少しだけ海から離れています。でも、小高い場所からは当然海を眺めることができ、荷風も海を見ながらの散策。天気も晴れ。きっと遠くの方まで気色が広がっていただろうと思います。

というわけで、僕もこの日荷風が歩いたコースを歩いてきました。その辺りを歩いたのは初めて。荷風も書いている通り、かなり上り下りの激しいルートでした。神戸のあたりが坂のある町であることはよく知っていますが、明石もこんなに坂のある町だということを初めて知りました。しかも、神戸のあたりは基本的に北に向かって坂が徐々に高くなっているのですが、明石の坂はかなり複雑。経路的には西から東に向かっただけなのですが、上がったり下がったりの連続。中々面白かったです。
そういえば荷風が住んでいた偏奇館があったあたり、あるいは幼少期を過ごした小石川のあたりも坂が多く、坂は荷風にとって近しいもの。『日和下駄』にも「坂」という一節もありますね。ということなので、荷風はこの日、あちこちに寺や神社のある明石の坂を歩みながら、なお一層、明石の町が気に入ったにちがいありません。
この日、寺に戻ってくるまでの『日乗』を引用しておきます。
朝食を食して後菅原君と共に町を歩み、理髪店に入りしが五分刈りならでは出来ずと言ふ、省線停車場附近稍繁華なる町に至らばよき店もあるべしと思ひて赴きしがいづこも客多く休むべく椅子もなし、乃ち去つて城内の公園を歩む、老松の枯るゝもの昨夕歩みたりし遊園地の如し、されど他の樹木は繁茂し欝然として深山の趣をなす、池塘の風致殊に愛すべし、石級を昇るに往時の城楼石墻猶存在す、眺望最も佳きところに一茶亭あり、名所写真入の土産物を売る、床几に休みて茶を命ずるに一老翁茶と共に甘いものもありますとて一碗を勧む、味ふに麦こがしに似たり、粉末にしたる干柿の皮を煮たるものなりと云、天主台の跡に立ち眼下に市街及び江湾を臨む、明石の市街は近年西の方に延長し工場の烟突林立せり、これが為既に一二回空襲を蒙りたりと云、余の宿泊する西林寺は旧市街の東端に在るなり、漫歩明石神社を拝し林間の石径を上りまた下りて人丸神社に至る、石燈の麓に亀齢井(かめのゐ)と称する霊泉あり、掬するに清冷水の如し 神社に鄰して月照寺といふ寺あり、山門甚古雅なり、庭に名高き八房の梅あり、海湾の眺望城址に劣らず、石級を下り、電車通に至る間路傍の人家の庭に芥子矢車草庚申薔薇の花爛漫たるを見る、麦もまた熟したり、正午過寺に帰る

この日荷風がまず最初に向かったのは、明石駅のすぐ北にある明石城。天守閣はなく(作られなかったんですね)、正面から見ると2つの櫓が特徴的ですね。この写真は向かって右側(東側)にある櫓です。
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で、その櫓の近くから荷風は「眼下に市街及び江湾を臨」みます。実は僕もここに登ったのは初めてですが、思ったよりいい眺めでした。ただ、いうまでもなく荷風が来たときにはなかったビル群が邪魔をして、瀬戸内海の風景はほとんど見ることができません。
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ただ、荷風が宿泊していたあたりは何とか眺めることができました。荷風もきっと見たはずですね。
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さて、ここから荷風は明石神社に向かいます。名は明石の地名をとっているのですが、実はこの神社、見つけるのが大変で(歩いていた近所に住んでいるはずの人も知らなかった)、行って見てびっくり。つい最近作られたような近代的な(悪い意味ですが)コンクリート製の鳥居と拝殿(?)。空襲で焼けたのかどうかはわかりません。まあ、鳥居の写真だけを貼っておきます。
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次に荷風が行ったのは人丸神社の石燈のそばにある「亀齢井(かめのゐ)と称する霊泉」。これは残っていました。「亀の水」と呼ばれる名水。案内板もありました。ただここまで行くのに、まさに坂を上ったり下ったり。
なんで亀の水かというと、水がこんなふうに石で作られた亀の口から出ているんですね。
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名水ということなので、近所の人がぽろぽろとやってきては水をポリタンクやペットボトルに入れて持ち帰っています。「普通に飲んでも大丈夫ですか?」と訊いたら、「うちは煮沸してから飲んでいます」との答え。でも荷風が「掬するに清冷水の如し」と書いているので、一口だけ飲んでみました。おいしいかどうかはよくわかりませんでしたが、お腹は今のところ大丈夫です。

荷風はこの後、人丸神社の横の月照寺に行きます。ところで、この人丸神社、実際の名前は柿本神社。柿本人麻呂を祀っていることからその名が来ていて、どうやら「人麻呂」から「人丸」になって、一般的には人丸神社と呼ばれるみたいですね。柿本神社はかなり大きかったのですが写真をとり忘れました。
前にも書いたような気もしますが、この日の日記を読むだけでも荷風は神社に対してはほとんど関心を払っていないのがわかります。そばを通り過ぎているだけで境内には入っていません。
境内に入るのは月照寺。山号は一麿山。成島柳北が明石で作った和歌にもありましたが、明石は月と関係が深いんですね。そのあたりのことはまた後日。
荷風は「山門甚古雅なり」と書いています。これがそうですね。確かにこの寺の建物の中では最も雰囲気がありました。
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それから次に書かれているのが「庭に名高き八房の梅あり」との言葉。ありました。ただ3代目と書かれてはいたのですが。荷風が見たものと同じかどうかはわかりません。この写真の右に生えている木ですね。もちろん荷風が来たときにもそうだったでしょうけど、花が咲く時期は終わっています。
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で、ここから荷風は海を見下ろします。「海湾の眺望城址に劣らず」と書いていますね。でも、今は、この月照寺の前には、眺望を遮る巨大な建物が建っています。明石天文科学館ですね。現在の明石のシンボルとなっている建物。明石は日本の標準時子午線の通っている町。まさにその線上にこの建物が建てられています。月照寺も柿本神社もまさに標準時子午線上にあるんですね。というわけで荷風が海を眺めた場所の風景はこうなります。
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でも、ここをもう少しだけ横に行くと、風景が広がる場所があります。
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このあたりは城のあたりよりも高層のビルが少ない分、海も見ることができます。明石海峡大橋もよく見えますね。『海辺のカフカ』のナカタさんは、この橋を渡って四国へ行きました。ちなみにカフカ君は岡山にかかっている瀬戸大橋を渡って四国に渡りました。二人の主人公を違う橋を使って四国に渡らせているのが興味深いですね。

荷風はこの後石段を降りて(かなり急な石段)、西林寺に戻ります。途中の風景がこんなふうに書かれています。
電車通に至る間路傍の人家の庭に芥子矢車草庚申薔薇の花爛漫たるを見る、麦もまた熟したり

残念ながらそんな風景はありませんでした。でも、電車通りの旧山陽道から西林寺に向かう道は昔の町並みが残っていていました。

おそらく荷風はこの日歩いた風景を見て、明石にしばらくは住んでみようと思ったはず。でも、その気持ちは翌日の空襲で断ち切られてしまいます。
翌6月9日の日記。
午前九時比警報あり、寺に避難せる人々と共に玄関の階段に腰かけてラヂオの放送をきく、忽にして爆音轟然家屋を震動し砂塵を巻く、狼狽して菜園の墻中にかくれ纔(わづか)に恙(つつが)なきを得たり、家に入るに戸障子倒れ砂土狼藉たり、爆弾は西方の工場地及び余が昨日杖を曳きし城跡の公園に落ちたりなりと云

爆風が荷風の住んでいた寺まで来たことにも恐怖したとは思いますが、何よりも前日に歩いた場所に爆弾が落とされたことがショックだったに違いありません。で、荷風は一刻も早く明石を立ち去り、岡山に行く決心をします。このあとの岡山での、僕にとっては奇跡のような日々がそこから始まることになるのですが、でも、荷風にもう少しだけ明石に住まわせて、もう少しだけ海辺の日々を過ごしてもらいたかった気がしないでもありません。
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# by hinaseno | 2013-05-08 10:41 | 文学 | Comments(0)

海辺の荷風(2)


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昨日、6月7日に、黄昏どきに菅原明朗といっしょに海岸の遊園地を歩いたことを書きました。実はその日はもう少し足をのばしています。新しい場所にやって来て3日くらい経つと、荷風はちょっとずつ遠くの場所まで足をのばし始めますね。
その日向かったのは明石の港。成島柳北が停泊して一夜を過ごした場所ですね。荷風の滞在した寺からゆっくり歩いても30分もかからなかっただろうと思います。
これが現在の明石港の風景。
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この日の『断腸亭日乗』にこんな記述があります。
一条の掘割あり帆船貨物船輻湊す

おそらくこの辺りの風景。
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で、日記はこう続きます。
岸上に娼家十余軒あり、店かゞり東京風なり、絃歌の声を聞く

下の写真はさっきの堀の対岸から娼家の建ち並んでいた場所をとらえたものです。
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今は高層マンションが所狭しと建ち並んでいますね。でも、なんとこのマンションの建ち並ぶ中に、たった一軒だけ当時の娼家が残っていたんです。この写真の正面の外装工事をしているマンションの向こう側にあります。

荷風が来た当時はここに「娼家十余軒」が建ち並んでいたんですね。黄昏時、家からは「絃歌の声」が聴こえてくる。戦時中、しかも日本のあちこちで連日空爆が続いているのをわすれさせるような光景。

実際、荷風が明石に来ても、この日の3日前には空襲警報が鳴って「黒烟忽ち須磨海辺の彼方に昇る」のを見ています。神戸、阪神間を壊滅させた空襲。絨毯爆撃といわれるんですね。そして翌日も、その次の日も空襲警報はなり続けています。
実際には6月9日には明石の市街地にも空襲があり、荷風は明石を去る決心をし、岡山に向かいます。

でも、その空襲のあった日、荷風は先に岡山に下見に向かった永井智子を明石駅で見送った後、再び明石港の船着き場周辺を散歩します。このあたりは空襲を受けていなかったんですね。
岸には荷物持ちたる人多く蹲踞し弁当の飯くらひつゝ淡路通ひの小汽船の解纜するを待てり、水を隔る娼家の裏窓より娼女等の舩の出るを見る、あたりの風景頗情趣に富む、故もなく竹久夢二の素描画を想起せしむ、是亦旅中の慰籍なり

空襲があって淡路島に逃げようと船を待っている人たちがたくさんいる一方で、荷風は娼家の風景を眺め、「竹久夢二の素描画を想起」しています。竹久夢二のこともここでは何度も書きました。僕の母親と同じ岡山の邑久郡邑久町(現瀬戸内市)出身、古関裕而の「福島夜曲」のイメージのもとになった絵を描いた人ですね。

調べたら荷風は大正14年(9月23日)に玉川まで開通したばかりの電車(都電)に乗って、高井戸という場所に行っているのですが、その辺り(まだ武蔵野の原野が広がっている辺りでしょうか)を散策していたときに、門に「竹久」という表札をかかげた家を発見しています。当時夢二がアトリエ兼自宅にしていた家がそこにあったんですね。荷風は立ち寄ることもなく立ち去っていますが、荷風と夢二の小さなつながりの発見でした。夢二の絵のことも荷風はよく知っていたんですね。

さて、その一軒だけ残っている娼家。まわりは高層マンションだらけ。そのマンションに囲まれたこの2軒だけが昔のままの建物で、向こう側にみえるのが当時の娼家だと思います。なかなか見事な建物。一匹のかなり貧相な猫がやってきてちょうどいい場所で立ち止ってくれました。
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正面からの写真も貼っておきます。荷風は「店かゞり東京風なり」と書いていますが、そのあたりは詳しくないのでわかりません。
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# by hinaseno | 2013-05-07 09:46 | 文学 | Comments(3)

海辺の荷風(1)


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荷風に似合う風景といえば「下町」「路地」「墓地」「川」...。荷風と「海辺」はイメージとしてどこかつながりにくい気がします。実際荷風は海辺に行くことはほとんどありませんでした。でも、荷風が明石にやってきたとき、そこで久しぶりに見た海辺の風景に心を奪われ、ほぼ毎日明石の海辺を歩き、その風景を見続けました。実際にはそれはほんの10日間のことだったのですが。

荷風が明石にやって来たのは昭和20年6月3日。岡山にやってくる10日前のことです。
『断腸亭日乗』に書かれたこの日の日記。
明石行き電車に乗換へ大坂神戸の諸市を過ぎ明石に下車す、菅原君に導かれ歩みて大蔵町八丁目なる其邸に至り母堂に謁す、邸内には既に罹災者の家族の来り寓するもの多く空室なしとの事に、三四丁隔りたる真宗の一寺院西林寺といふに至り当分こゝに宿泊することになれり、西林寺は海岸に櫛比する漁家の間に在り、書院の縁先より淡路を望む。海波洋〻マラルメが牧神の午後の一詩を思起せしむ、江湾一帯の風景古来人の絶賞する処に背かず、殊に余の目をよろこばすものは西林寺の墓地の波打寄する石垣の上に在ることなり、墓地につゞき数項の菜園崩れたる土墻をめぐらしたるものあり、蔬菜の青々と茂りたる間に夏菊芥子の花の咲けるを見る、これ亦海を背景となしたる好個の静物画ならずや、余明治四十四年湘南逗子の別墅を人に譲りてより三四十年の間、一たびも風光明媚なる海辺に来り遊ぶの機会を得ず、然るに今図らずもこの明石に来り其清閑なること雨声の如き濤声をきゝ、心耳を澄すことを得たり、何等の至福ぞや

度重なる空襲で東京を離れた荷風は菅原明朗夫婦とともに、菅原明朗の母の実家がある明石にやって来ます。ただ、母親の家には罹災者でいっぱいで空いた部屋もなかったので、その近くの西林寺に滞在することになります。

大蔵町の西林寺のある場所は明石から海沿いに1kmほど東に行ったところにあります。といってもこのあたり、近くには行ったことはありましたが、一度も歩いたことがなかったので、昨日天気もよかったので行ってきました。まあ、そんなに遠いわけではないのでいつでも行けたのですが、話の流れとしてはいい機会かなと思いました。荷風が明石に滞在していたのは6月の初旬で、それよりはひと月くらい早かったのですが、初夏のような陽気でしたから、気候的にはほぼ同じと言ってもいいのではないかと思います。

いろんなところに立ち寄りながら西林寺まで行ったのですが、普通に明石駅からまっすぐに行けば20分くらいで行ける距離ではないかとおもいます。
さて、その西林寺。ここが参道の入口ですね。
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寺のまわりには荷風好みの路地が今も残っていました。
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そしてこれが寺の境内。
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そんなに広くはなく、新しい建物もいくつか建てられていましたが、写真の正面の本堂は屋根以外は当時のままとのこと。荷風がどこに寝泊まりしたのか聞くのを忘れてしまいましたが、たぶんこの本堂のどこかの部屋ではないかと思います。

『日乗』ではこの建物の縁側から海と、その向こうの淡路島が見えたと書かれていますが、現在はその方向に家が建てられていて見るのは無理でした。
で、その新しく建てられた家の裏手に墓地がひろがっていました。
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ただ、荷風が来たときには墓地の向こうがすぐに海になっていたようですが、現在はその間に国道28号が、墓地と海を遮断するように通っています。
その道を越えると海、そして正面には淡路島が見えます。
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海辺はかなり整備されて公園のようになっていて、ゴールデンウィークということもあって人が大勢いました。
目を左に転じれば明石海峡大橋を間近に見ることも出来ます。もちろん荷風がここに来たときにはなかったものですが。
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いくつもの新しく作られたものを除けば、淡路島が向こうに見える瀬戸内海の風景は荷風が見たものと同じではないかと思います。ここに来るのは初めてでしたがすっかり気に入ってしまいました。

荷風はこの風景を見てマラルメの「牧神の午後」を想起します。
マラルメの「牧神の午後」といえば、僕はドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」という曲を大好きになって、その流れでその曲のイメージの元となったマラルメの詩の存在を知りました。詩集も買いました。でも、きっと荷風はフランス語の原詩を思い浮かべたんでしょうね。
というわけで、ドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」を貼っておきます。

これはカラヤン指揮のものですが、僕がずっと聴いてきたのはピエール・ブーレーズ指揮クリーヴランド管弦楽団の演奏したものですが。

さて、荷風は『日乗』でこんなことを書いています。
余明治四十四年湘南逗子の別墅を人に譲りてより三四十年の間、一たびも風光明媚なる海辺に来り遊ぶの機会を得ず、然るに今図らずもこの明石に来り其清閑なること雨声の如き濤声をきゝ、心耳を澄すことを得たり、何等の至福ぞや

荷風は湘南に別荘を持っていたんですね。お父さんが持っていたものでしょうか。それを明治44年に人に譲ったとのこと。ただ、僕の持ってる2002年に出版された新版の『断腸亭日乗』では、この「明治四十四」の1けた目の「四」のそばに(ニ)と添えられているので、正しくは明治42年ということなんでしょうね。
明治42年といえば、荷風はその前年に5年にわたるアメリカ、フランス滞在から帰国しています。明治41年に『あめりか物語』、明治42年に『ふらんす物語』を出版。フランスから帰国して少しは湘南に滞在したんでしょうか。でも、すぐに人に譲っています。湘南の風景が荷風には合わなかったのかもしれませんが、それよりも東京の、下町に惹かれるものを強く感じ始めていたんでしょうね。興味深いのはその湘南の別荘を売却したまさにその年に下町を舞台にした「深川の唄」を書いています。すでに荷風の目は湘南の海辺よりも東京の下町に向いていたことがわかります。

そんな荷風が、40年近くの後、明石の海辺で波音を耳にしながら「至福」を感じています。
で、荷風はほぼ連日、海辺に行きます。
6月4日 午後墓地の石段を下り渚を歩す、防波堤に児童の集まりて糸を垂るゝを見る、海風の清和なること春の如く、亦塩気を含まざれば、久しく砂上に座して風景を賞するも房総湘南の海辺に於けるが如く肌身のねばつくことなし
6月6日 晡下墓地を逍遥す、石墻に倚りて海を見る
6月7日 黄昏菅原君に導かれて海岸の遊園地を歩む

あるときはそ海辺を散歩し、あるときには砂の上に座って、この明石に立ち寄っていた成島柳北を思い浮かべることもなく、ただのんびりと海を眺めています。

浜辺に座って海を眺める荷風。
ちょっと想像できない光景。でも、そこはそんな気持ちにさせてしまう場所だったんですね。
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# by hinaseno | 2013-05-06 11:18 | 文学 | Comments(0)