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by hinaseno
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延び延びになっている話の一つ。このCDの話。

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大瀧さんが作詞作曲した「夢で逢えたら」をカバーも含めて86曲収録したもの。発売されてすでに2ヶ月ってことで、さすがにターンテーブルには載らなくなりました。みなさん(といいつつこのブログを読んでいる人でこのCDを買われた方がどれだけいるかわからないけど)も同じでしょうか。

というわけでネタとしてはちょっと古くなっているかもしれませんが、「夢で逢えたら」のカバーのベスト10を紹介しておきます。

その前に改めて言うまでもありませんが「夢で逢えたら」のオリジナルはこの4枚組のCDのDISC1の1曲目に収録された吉田美奈子さんの1976年のバージョン。それからシリア・ポールさんの歌ったものも限りなくオリジナルに近いので今回のベスト10から外しました。それから大瀧さんが歌ったものは別格なので除外。


さて、選んだ曲を並べてみるとジャズやボサノヴァ・テイストの曲が多いですね。そして10曲中9曲は女性アーティストで男性アーティストはただ一人。やはりこの曲は(大瀧さんは例外として)女性が歌った方が似合います。

では曲順はCDに収録されている順に紹介します。YouTubeに音源があれば貼っておきます。

1曲目はアン・ルイス。




英語で歌われていて「Dreams」という英語のタイトルがつけられています。アレンジは大瀧さんの『ロンバケ』でも弦アレンジをしている前田憲男。

収録されているのは『Cheek II』というアルバム。このアルバムは大好きで、といってもレンタルで借りたものをカセット・テープに録音していたものしか持っていなかったんですが、昔は本当によく聴きました。このアルバムには「DREAMS(夢で逢えたら)」にそっくりな「DREAM BOY」という曲を大瀧さんが提供しています。

ところでちょっとチェックしたらタワー・レコードでこのアルバムを含むアン.ルイスのアルバムが昨年再発されていて、それについている応募券を送ったらA面に「DREAM BOY」、B面に「DREAMS」を収録したシングルが当たるということになっていたみたいですね。ただ、応募の締め切りは先月。すでに当選した人には送られているみたいです。ほしかったな。


2曲目は平野文。『Call me Funny Minx』というアルバムの最後に収録されています。平野文ってだれだろうと調べたら声優。『うる星やつら』のラムちゃんの声をやっている人のようです。この平野さんのバージョンで歌われているのは曲の最初の部分だけ。でも、アレンジも含めてなかないい雰囲気。ちなみにアレンジはナイアガラ・レッキング・クルーの村松邦男さん。


3曲目はビビ(Vie Vie)。フランス語で歌われてるんですが、これもかなりいいです。


4曲目は石川ひとみ。




これは以前紹介したことがありますね。ボサノヴァ調のアレンジが心地いいです。ちなみにアレンジャーの山田直毅は石川ひとみさんのご主人だそうです。


5曲目は土岐麻子。




選んだ10曲の中では最も明るい「夢で逢えたら」ですね。この曲が収録された『WEEKEND SHUFFLE』は持っていました(過去形になっているのは手放してしまったから)。アレンジもいいし、声もいいし、「夢で逢えたら」以外にもいいカバーが多かったな。

たぶんこのアルバムが出た頃に土岐麻子さんのライブにも行きました。背が高くってびっくりでした。


6曲目は村上ゆき。




基本的にピアノひとつで演奏されていますが、これもすごく気に入っています。村上ゆきという人はジャズ・ピアニスト・ボーカリストということなのでこれは彼女の弾き語りなんでしょうか。


7曲目は南佳孝。先日紹介したように今回の数あるカバーの中で一番のお気入り。佳孝さんの声ってたまらないですね。日本人の男性ボーカリストの中では大瀧さんの次に好きかもしれません。ギターも佳孝さんのはずだけど、ジャジーでかっこいいですね。


8曲目は、たなかりか。




たなかりかというアーティストも知らなかったんですが、ジャズ畑の人のようです。というわけでこの曲、最高にジャジーな感じに仕上がっています。


で、9曲目は太田裕美さんのこのライブからとられた音源。




1981年6月1日に行われた『大滝詠一 ALONG VACATION コンサート』にゲストとして太田裕美さんが出演して、大瀧さんのバンドをバックに歌ったものですね。出だしを間違え、さらに歌詞を間違えちゃってるんですが、でも太田裕美さんの声は大瀧さんの曲との相性抜群。歌った後で裕美さんが「アガりますね~。歌詞間違えちゃった最初。出だしも間違えたけど」と大瀧さんに言っているのがなんとも可愛いです。

できればきちんとした形でレコーディングしておいてほしかったですね。


そして最後は吉田美奈子さんがこのCDのために新しく録音したバージョンですがこれが最高に素晴らしいんです。こんなの目の前で聴いたら号泣しますね。


さて、おまけとしてちょっと興味深いバージョンを2つ。

一つは岩崎宏美さんが歌ったもの。1981年11月発売の『すみれ色の涙から…』というアルバムに収録されています。




もう一つは北原佐和子さんが歌ったもの。1984年1月にシングルCDとして発売されています。残念ながらYouTubeにはありませんでした。


この2曲、なぜ興味深いかといえばいずれもアレンジが萩田光雄さんなんですね。萩田光雄さんといえば太田裕美さんのほとんどの曲のアレンジをしている人。2年余りの時を隔てて同じ曲を2度アレンジしているわけです。で、どちらもいいんですね。

僕は個人的に「夢で逢えたら」のアレンジのキモは、オリジナルの吉田美奈子やシリア・ポールで浜口茂外也が吹いているフルートのあのフレーズだと思っているのですが、萩田光雄さんはそれを上手に活かしています。さすがだなと。

その萩田さんの本がまもなく発売されます。タイトルは『ヒット曲の料理人 編曲家・萩田光雄の時代』。ようやく萩田さんにもスポットが当たる時代が来たんですね。おそすぎだけど。


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by hinaseno | 2018-05-31 12:15 | ナイアガラ | Comments(0)

松村圭一郎さんの寺子屋で題材にしている石牟礼道子の『苦海浄土』を”ひとり寺子屋”で読み始めましたが、1章の途中で中断。

実は石牟礼さんの本は一冊も読んだことがなく、亡くなられたときにいくらか目にした情報と平川さんと松村さんの対談で語られたこと以外はほとんど何も知らなかったので、とりあえず『苦海浄土』が書かれた背景を知った方がいいと思い、本の最後に収められている池澤夏樹の解説、さらに月報に書いた文章を読むことにしました。

いずれもかなりの長文。「日本文学全集」ではなく「世界文学全集」の中に唯一日本人の作品として入れた池澤さんの強い思いが記されています。

それを読みながら思ったのは、公害という病気のことを別にすれば、母親の生まれ育った土地の物語にひどく似ているなと。かつて幸福な海があった場所が高度成長期に行政と企業によってなされた事業によって汚され消されてしまう。漁民たちをはじめ海に関わる仕事を生業にしていた人々は生活の場を失い、あるいは村民同士の対立から村を去り、過疎化が急速に進み、そして村が死んでいく。

そういえばスロウな本屋の小倉さんから、寺子屋では『苦海浄土』の前にまず石牟礼さんの『椿の海の記』から読むことを始めたと聞きましたが、池澤さんの解説を読んでなるほどと。そこには水俣がまだ幸福な土地であったときの石牟礼さんの幼時の記憶が書かれているようです。ということで『苦海浄土』はちょっと後に回して僕も『椿の海の記』から読むことにしました。きっと母の記憶とかなり重なっているはず。


もしも僕の母方のファミリーヒストリーを書くとしたら、やはり最初は母が幼少期を過ごした町の前に広がっていた美しい海のことから書き始めることになるだろうと思います。浜辺で遊び、夏になれば泳ぎ、さまざまな貝や海藻などを獲っていた幸福な日々のことから。

で、そこから時代は300年くらい遡って、江戸時代の阿波国の吉野川上流の山間の町にあった問屋を営んでいた家の、たぶん次男であると勝手に思っている元良という人物の話になります。彼は医学の勉強をしていて、特にお灸を研究していました。時には治療のようなことをして。

ある日その家に備前の国の港町に住む商人が海を渡って船でやってくる。元良が医学に詳しいことを知り、その商人は自分の村に医者がいないので、元良にぜひ村にやってきてほしいと頼む。彼は元良に彼の住む村やその前に広がる海の素晴らしさを語る。悩んでいる元良に、では一度村にやってきてその海を見て欲しいと言う。もし気に入らなければ仕方がないと。

元良は父に相談する。父は、暇があれば本ばかり読んでいた元良が商いに向かないことはよくわかっていたので備前の地に行くことを許可する。

そして元良は商人の船に乗って吉野川を下り、瀬戸内海を渡って備前の地に入る。ちょうど船が村のある湾に入ったときに日が沈むかけて、海はその名の通り錦色に輝いていて、それを目にした元良はその素晴らしさに感動し、その地に住むことを決心する…

そして時代は再び下る。母親が結婚してその村を去ったまさにその年、湾の入り口を堤防で締め切ったところで物語は終わる。


ここまでの話であれば物語のタイトルは「もうひとつの苦海浄土」ではなく「錦の海の記」のほうがふさわしいようです。

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by hinaseno | 2018-05-29 12:53 | 文学 | Comments(0)

先日、NHKドキュメンタリー、ファミリーヒストリー「細野晴臣~タイタニックの宿命 音楽家の原点~」が再放送されたので久しぶりに見たんですが(坂本龍一さんの回は残念ながら見逃してしまいました)、ああいう番組は第三者的には面白くても、当事者にとってはきっと知るのが怖い部分も多々あるはず。知りたくないような事実にぶつかる可能性もあるはずなので。

物事や人のルーツを調べるのが好きな僕にしても、母のルーツに関してはなんとなく遠ざけていました。船で渡ってきたという”言い伝え”の話も、”呼ばれて岡山に迎えられた”ということになっているけど、実は何かよからぬことがあったために出た/逃げてきた可能性も否定できなかったので。母の祖母から母が聞いていた”言い伝え”というのは母の祖母が捏造した話ではないかと思う部分もあったんですね。


でも、母はその”言い伝え”を信じ続け、先祖が徳島にいた自分のルーツの場所を探し続けました。手掛かりになるのは母の旧姓と最初に岡山に渡ってきたとされる先祖の名前、先祖がいた本家が徳島で営んでいたという問屋の名前、そして本家がいた村にあるという名字の名のついた神社。


今のインターネットの時代なら、これだけの材料があれば先祖が住んでいた町を特定できそうな気がします。でも、実際にはかなり困難であることがわかりました。

母の旧姓は全国どこにでもある名前。その姓がついた神社も全国にあって、同じ徳島にもいくつかある。先祖の家が営んでいた問屋も戦前までは存在していたようですが、母が探し始めた頃にはすでに問屋はなく、その屋号もよくある名前。

ということで今、僕が母から調べてと頼まれても相当に手間取って、もしかしたら特定できずに母が母の祖母から聞いたという”言い伝え”は作り話だったと判断したかもしれません。


ということで家事と父の家業の手伝いの合間(1日のうちでその時間はあまりにも少なかったはず)に母は先祖の地を探し求める努力をし続けます。基本的には徳島のいろんな町の役場に電話をかけて訊いてみるという、ちょっと気の遠くなるような作業。


で、ある日、徳島のある小さな町の役場に電話をしたとき、応対した人が母親の質問に困り、そういえば役場に同じ名字の人がいますのでその人に訊いてみますということで、母の旧姓の同じ名字の人に電話を代わってもらいます。母親が本家の屋号を告げると、その人は「ああ、その家は私の家のすぐそばにありました」と答えたんですね。

その町にはその名字が家がかなりあるので、違う村に住んでいる人であればたぶんわからなかったはず。それからその人は昭和12年生まれだったので、戦前のことも覚えていた。さらに幸運なことに、本家の問屋が大阪に移った後、その人がまさに母の一族の会長をしていることもわかったんですね。たまたまとはいえ奇跡のような話。

母は事情を父に話し、すぐに父と一緒に徳島に行きます。


それから約20年後、先日のゴールデンウィークに”一代に一度は”という言い伝えに従って、かなり足の悪くなった母と一緒に徳島に行ってきました。四国に行くのも本当に久しぶりで、瀬戸大橋線に乗ったのも初めて。ずっと以前、何度か四国に行っていたときはいつも宇高連絡船に乗っていました。結論から言えば、宇高連絡船のほうが10000万倍いいですね。甲板をあっちに行ったりこっちに行ったりしながら眺めていた島々の風景の素晴らしさは橋の上から見たそれとは比べ物になりません。僕の船好きはそれがきっかけでした。いや、江戸時代にはるばる四国から船で渡って来た先祖の血が流れているからなのかもしれません。


上林暁の『晩春日記』の最後に収録された「四国路」でも、主人公の「私」の娘さんは宇高連絡船に乗って四国に渡り、高松から土讃線で高知に向かいます。僕たちは池田駅で徳島線に乗り換えて、先祖のいた土地に向かいました。

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最寄りの駅に着くと一族の代表者の3人が出迎えてくれました。初めて会うのに懐かしいような気持ちになるから不思議。子供の頃から僕は父よりも母の資質を多く受け継いでいると思っていたので、まさに思い描いていたような自分に近しい人たちがそこにいました。中には学者肌の人がいて、きちんと資料を作って延々と一族の歴史を語ってくれたり。そういう人、父方の親族にはひとりもいない。


この四国行きをきっかけに改めて岡山に渡ってきた先祖のことを調べているのですが、いろいろと出てくるものです。

たとえば先祖の一人は華岡青洲という江戸時代の著名な外科医(世界で初めて全身麻酔手術に成功した人だそうです)の門人であったとか、母の祖父(僕の曽祖父)は戦前に本を出していたとか。

それから先祖が”呼ばれて岡山に迎えられた”可能性がかなり高いことを推察させる史料も見つかりました。呼んだのはかなりの豪商。どうやらその豪商の屋敷を譲り受けたようで、その屋敷が描かれた江戸時代の古地図も見つかりました。


われながらワクワクすることの連続なんですが、このファミリーヒストリー、いつか誰かに語る日がくるんでしょうか。

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by hinaseno | 2018-05-26 16:48 | 雑記 | Comments(0)

先週から岡山のスロウな本屋さんで、松村圭一郎さんが小さな勉強会を始められました。題して「寺子屋スータ」。

「スータ」というのは松村さんがフィールドワークをされているエチオピアの最大の民族オロモ人の言語であるオロモ語で「ゆっくり」を意味しているとのこと。英語で言えばスロウ。

寺子屋スータでは、一冊の本をゆっくりと読んでいくそうですが、最初に取り上げた本は先頃亡くなった石牟礼道子さんの『苦海浄土』。

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僕ももちろん買いました。でも、池澤夏樹=個人文学全集から出ているこの本は、なんと800ページ近い大書。読むの大変です。ちなみに石牟礼道子さんは熊本の人。実は松村先生の出身も熊本なんですね。


それにしても古い民家をそのまま使っているスロウな本屋は寺子屋をするにはぴったりですね。この企画を知ったときには絶対に参加するつもりでいたんですが、残念ながら時間の都合がつきませんでした。でも、定員に対してその何倍もの希望者がいたそうなので、希望しても無理だったかもしれません。かなり遠方からの参加者もいるとか。松村先生の人気、すごいです。とりあえず寺子屋への参加はできなかったけど、一緒に勉強するつもりでゆっくり読んでいこうと思います。


ところで寺子屋といえば、実は僕の母親の祖先は江戸時代に寺子屋をやっていました。それを知ったのは10年ほど前のこと。初めて母から聞いたときには本当にびっくり。ほんまかいなと。

びっくりはしたものの、その話は半信半疑のまま調べることもなく放置していたんですが、5年ほど前に急に思い立って母の生まれ育った町の町史やら郡史などをいろいろと調べていたら「〇〇家が寺子屋を経営」と書かれているのを発見。その翌年くらいに先祖の名前がきちんと記載された文献を見せてもらって、間違いがなかったことを確認しました。


その寺子屋があったのは牛窓からそう遠くない小さな海町。今では完全にさびれてしまっていますが、江戸時代には海運業が盛んで牛窓よりも栄えていた町でした。目の前にはこの上なく美しい海。寺子屋のある丘の上からもその海を望むことができました。


四国の徳島にいた母の祖先は、江戸時代の初め頃にその地に”呼ばれる形で”船でやって来て、で、その美しい湾を魅せられてそこに住む決心をします。最初は医者として。でも、江戸の後期になって、これからは学問が必要ということになって、ある民家を借りて寺子屋を始めたと。

ただ、その地に住み着いてからも一代に一度は必ず徳島に戻り、母方の名字のある神社にお参りしていた。


…という言い伝えを母は母の祖母にあたる人から幼い頃に何度も何度も聞かされていたそうです。


ちなみに長く続いた戦争と戦後の混乱の中で母の一家は母の言葉を使えば”没落”。海沿いの一番いい場所にあった大きな屋敷は没収されて山あいの小さな家で母と母の祖父母といっしょに暮らすようになります。

学校の校長も勤めた母の祖父は戦争中に死亡、祖母も戦後しばらくして亡くなり、幼くして母は血縁がひとりもいない状態になりました。


身寄りがなくなったとはいえ母は、母の祖父が校長を勤めていた小学校(母の祖先が作った寺子屋のそばに作られた学校)の校長や先生たちからいろんな形で手助けをされながら何人もの祖先と同じく教師になることを目指しました。そして岡山にあった女子師範学校に合格。でも経済的な理由から最終的にそこに通うことを断念して岡山にあった工場で働くようになります。毎日、あの西大寺鉄道の軽便に乗って通ったそうです。


ところで岡山の女子師範学校(正しい名称は岡山師範学校女子部)は永井荷風が滞在して空襲に見舞われた弓之町の松月のすぐ近くにあったので、荷風はそのそばを何度も通っていました。で、『断腸亭日乗』昭和20年6月23日の記述の中に岡山師範学校女子部のことが出てきます。その日、荷風は講堂の中まで入っていってるんですね。この日の日記は『断腸亭日乗』よりも『罹災日録』の方が詳しく書かれていて、そこにはこんな記述があります。


「女先生ピアノを弾じ女生徒吠ゆるが如く軍歌を唱ふるなるべし」

荷風はもちろんこの様子にあきれ返るわけですが、もし母が願い通りにこの師範学校に入っていれば、このとき荷風が見ていた女生徒の中にいたのかもしれなかったんですね。

ちなみに同じ弓之町に住んでいた父親も、ときどきは彼女たちの歌声を聞いていたのかもしれない。このすれ違いのことは父も母ももちろん知らない。


さて、母が幼い頃ずっと祖母から聞かされていた”言い伝え”のこと。

母はおそらく30年ほど前から僕たち家族には内緒でその”言い伝え”を確かめる努力をし始めました。今であれば確かめる手段はいくつもありますが、30年ほど前の母にとって手段は電話と手紙しかありませんでした。ちょっと気の遠くなるような手間のかかることをしていたんですね。で、ある日、ついに...。


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by hinaseno | 2018-05-25 15:41 | 雑記 | Comments(0)

「晩春」と「初夏」は五月下旬のちょうど今頃の時期を表す言葉なのにずいぶん肌触りが違う。明るさも、湿り気も、風の吹き具合も違う感じがします。いうまでもないけど「晩春」の方が少し暗くて湿度もある。


10の短編からなる上林暁の『晩春日記』は1月ごろに数編読んで中断、4月下旬、つまり晩春に入って読むのを再開しました。そのときには吉田篤弘さんの『神様のいる街』に『晩春日記』のことが出てくるなんて知る由もなし。


上林暁の『晩春日記』が出版されたのは終戦翌年の昭和21年9月。ということなので10の短編すべてに戦争が深く入り込んでいます。さらに奥さんも回復する見込みのない病に陥っていて、その意味では暗い作品が多い。

でも、だからこその明るさや幸福が上林さんの作品にはあるんですね。とりわけ7編目の「風船競争」はかなり笑えます。たぶん本当にあった話だとは思いますが上林さんらしさが炸裂。


読みながら、おっ、おっ、となったのが次の「嶺光書房」。「嶺光書房」なんて出版社が知らないなと思いながら読み始めたら、おっと思うことがいくつも出てきました。

戦争が続く中、「嶺光書房」から上林さんの作品が出る話が進んでいたんですね。少しでもお金が必要な上林さんにとってはぜひ出版してほしい。でも、空襲によって出版社とあった建物が被災して預けていた原稿が失われたりする。おっと思ったのはこの部分。


書下ろしの原稿で、草稿も何もないのが一つあつた。私は一旦は落膽したが、本の題名もその作品から採つてあるし、その作品が無くては、一冊の本の主柱が失はれることになるので、私は勇気を揮つて筆を動かし、改めて稿を起すことに肚を決めた。そして、朧げな記憶を頼りに、思ひ浮ぶ断片を綴り合せてゐるうちに、漸くもとの形に近いものに纏めあげることが出来た。

これ「夏暦」のことじゃん、でした。『夏暦』が出版されたのは1945年11月。発行所は筑摩書房。

そうか、上林さんは筑摩書房を嶺光書房と名前に変えて作品を書いていたんだなと。とすると登場人物も。

実はその嶺光書房から本を出す予定になっている作家で気になっていた人がいたんですね。その作家の名前は永濱高風。こんな話が出てきます。


「永濱氏もやられましてね。」と由利氏は附け加えた。
「さうですか。焼けたんですか。」
「書き溜めの原稿の入つた箱だけ提げて、身を以て脱れたんださうです。今写してゐるのも、その一部なんです。」
「さうですか。」と私は唸るやうな気持で聞いた。つづいて私は、「さうですか。」と二度繰り返し、「あの名高い麒麟館も焼けたんですかね。」と溜息を洩した。
 私達は、「麒麟館主人」として永濱高風氏を知つてゐた。高風氏の住むといふ街を歩きながら、麒麟館はどのあたりかなと思ひながら、頭を回らしたこともあつた。さう思つてみると、街の空気も自ら他と異つて、高風氏の作品の醸し出す雅酵な情緒がそこらにたゆたつてゐるとしか思はれなかつた。その麒麟館も今は焼け失せて無くなつて了つたかと思ふと、文学上の聖地を喪つたやうな寂しさが湧いた。

永濱高風はもちろん永井荷風。麒麟館というのは偏奇館のこと。「嶺光書房」という作品ではその後も荷風の消息についての話が何度か出てきます。東中野に移ったこと。で、作品の最後はこんな形で終わります。


「永濱高風氏の原稿はどうなりました?」
「あれは、企画届が通らなくて、駄目になりました。例の情緒的なところが、いまの時勢にいけないんでせう。私は原稿を読んでみましたが、面白いものですがね。」
「闇から闇に葬るのは、惜しいなァ。」
「いつになつたら、世に出されることでせうかね。先生もまた東中野をやられましてね、今は中国筋の知人のところに身を寄せてるんださうです。」
 私は温かくなつた懐ろに触つてみながら、「これで空襲さへなかつたらなァ」と夕暮じみた空を見上げながら、御茶ノ水驛指して、歩いて行つた」

ということで、上林さんはどうやら荷風が岡山に疎開していたことを知っていたようです。ちなみに荷風は筑摩書房から同じ昭和21年に『来訪者』を出しています。


さて、その岡山という地名が出てくるのが『晩春日記』の最後に収録された「四国路」。岡山を通って郷里の高知に帰省する話。

実はこのゴールデンウィークに、本当に久しぶりに四国に行きました。行ったのは徳島だったんですが、土讃線に乗ったとき、このまま乗り換えせずにまっすぐ行けば上林さんの郷里の高知だなと、まだ一度も行ったことのない高知のことを考えていました。で、四国から戻った翌日に読んだのがその「四国路」だったんですね。

ということで次回はちょっと四国の話を。


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by hinaseno | 2018-05-23 15:18 | 文学 | Comments(0)

今日はあまりゆっくりブログを書く時間がないので短い話を。

昨日は21日。

余白珈琲さんから焙煎したての珈琲豆が届く日です。いつも朝10時半頃に配達されるんですが、昨日はその前にちょっと外出していてタッチの差で不在連絡票が郵便ポストに。

仕方なく再配達をお願い。昼食後に飲めなかったのが残念。ちょっと予定が狂いました。でも、物事が思い通りにいかないときに何か別の「たまたま」を用意してくれているのが余白珈琲さんの不思議なところ。


午後の2時半頃、いつものとても感じのいい郵便配達の人がやってきて、珈琲豆が入った箱を受け取ったら、「あっ、これも」とレターパックを渡されました。見ると武蔵小山のペットサウンズからのもの。昨日注文した相川理沙さんの『唄うように伝えられたなら』のCDがもう届いたんですね。


ということで理沙さんのCDをセットして、関口直人さんが詞を書かれた1曲目の「船は行く」を聴きながら箱から珈琲豆の入ったパックを取り出し、豆を缶に移す作業をしました。

続けて流れてきた2曲目も海の曲。タイトルは「海が見えたら」。こちらは理沙さんが作詞作曲した曲ですがとてもいい曲。ギターも理沙さんの歌もいうことありません。

というわけで、海に関係のある曲を聴きながら作業をしていたら、不思議なことに実際には自動車で運ばれたはずなのに、まるで船で海を渡って届けられた気分になりました。


で、ふと思ったことですが、理沙さん、塩屋の旧グッゲンハイム邸でライブをしてくれないかなと。あの風景に曲がぴったり合っているような気がしました。そしてそこでは余白珈琲さんが珈琲を淹れていて。

そんな新しい縁が生まれそうな予感を感じた瞬間でした。

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by hinaseno | 2018-05-22 08:13 | 音楽 | Comments(0)

今日は久しぶりに荷風がらみのことを書くつもりでいたんですが、やはりこれを書いておかないと。


今の日本で最も好きな映画監督の一人で、映画以外の活動でも敬意を払い続けている是枝裕和監督の最新作『万引き家族』がカンヌ映画祭の最高賞であるパルムドールを受賞されました。本当に素晴らしい。

このブログでも『海街diary』と『空気人形』の2つの作品のこと(ほかにも『歩いても 歩いても』とか『奇跡』とか『そして大人になる』とか好きな作品はいくつも)、『東京人』という雑誌での松本隆さんとの対談のこと、ミシマ社から出版された『映画を撮りながら考えたこと』という本のこと、そして最近では牛窓を舞台にした想田和弘監督の『港町』のパンフレットに寄稿されていることなど何度も是枝監督のことを取り上げてきただけに自分のことのようにうれしいです。

せっかくなので『港町』に寄せた是枝監督のコメントを載せておきます。いいコメントです。


想田監督自身が名付けた「観察」とは、対象に関与せず、客観的に傍観する、ということとは明らかに違う。そこには、発見しようとする眼と、聴き分けようとする耳と、待とうとする態度が、自覚的に選びとられているからだ。そのことが、一見偶然起きたかのように見える出来事を、作品内において必然に変えてしまうのである。この変成こそがドキュメンタリーにおける最も優れた「演出」だと、この『港町』を観て改めて気付かされた。

ところで『万引き家族』は映画自体もそうですが、音楽もいいんですね。実はその音楽を担当していたのが細野晴臣さん。ネットに上がっている予告編で少し流れる音楽を聴きましたが、とてもいい感じ。サウンドトラックも絶対に買わなくちゃ。




そういえば是枝監督と想田監督は先日対談をされたんですが、その対談が来月、日本映画専門チャンネルで放送されるのでこちらも楽しみです。

それにしても2年前、ほぼ同時期にミシマ社から出たそれぞれの監督のこの2冊の本を読んでいたときには、まさかこんな日(『港町』が公開され『万引き家族』がパルムドールを受賞する)がやって来るなんて想像だにできませんでした。

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ところで是枝監督といえば、僕は是枝監督のことを考えるとなぜだかよくわからないけどこのあたりの風景を思い浮かべてしまうんですね。その理由が気になって仕方がないけどどう考えてもわからない。

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場所は岡山の万成と呼ばれるあたり。歩いたのは2年前の8月。

ブログを確認したら、この日のこと、書いていないですね。書かない方がいいと判断したのかな。

その日、僕は荷風が岡山に疎開していたときに荷風の世話をした人のことを調べに荷風の疎開地である三門のあたりを歩いていました。あの妙林寺に車をとめて。

で、いろいろ探し歩いて、『断腸亭日乗』に登場するその人の息子さんに出会うことができたんです。話を聞くと、その人は子供の時に荷風と一緒に何度も散歩していたそうです。その歩いていったところが『断腸亭日乗』に書かれている万成のあたり。『日乗』では荷風一人で歩いたように書かれているけど、実はそうではなかったと。この話、川本三郎さんにお伝えしたいなあと思いながら、いまだその機会がありません。


ということで2人が歩いたという道を聞いて、そこを歩き始めたら急に雲行きが怪しくなってきて、雨がぽろぽろ降り出しました。困ったなと民家の軒下で雨宿りをしていたら、なんとその息子さん(といってももちろん今はかなりの高齢)が単車に乗って追いかけてきてくれて傘を貸してくれたんですね。その傘、実は今も借りたまま。返しに行かなくてはと思いつつ、もう2年も経ってしまいました。


ということでその傘をさしながら歩いたのが万成。考えていたのは荷風のことだったはずなのに、なぜか是枝監督の名前を見ると万成あたりの風景が頭に浮かんできます。不思議としか言いようがない。何かあの辺りに是枝監督がらみのポスターが貼られていたのかな。


ちなみに今日書こうと思っていた荷風の話というのはこのことではなく、上林暁がらみのことです。

ってことでそれはまた次回に。


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by hinaseno | 2018-05-21 14:31 | Comments(0)

「船は行く」


塩屋の話、といきたいところですが、実は書きたい話がたまっているので少し後回し。とりあえず夏葉社つながりの話で。


もう10日以上前になりますが、アゲインの石川さんに2枚のDVDを送って(贈って)いただきました。実はその1枚は僕がこのブログでちらっとおねだりするようなことを書いたので、いつものように超速攻で送ってくださったんですね。先にそっちの話をと思ったんですが、今日書くのはそれに添えられたもう1枚のDVDのことを。

それは4月の末にアゲインで行われた相川理沙さんのライブを録画したものでした。ただ収録されていたのはいくつかの曲をピックアップしたもの。MCなどはカットされていました。

その最初にこの曲のカバーが収録されていたんですね。




曲のタイトルは「The Water Is Wide」。

歌っているのはカーラ・ボノフ。1979年に発売された『Restless Nights』の最後に収録されています。これが本当に素晴らしい曲で、昔はよく(人に聴かれないようにこっそりと)弾き語りをしていました。

「The Water Is Wide」はいかにもカーラ・ボノフが作るような曲だったので、最初に聴いたときはきっと彼女が作った曲だと思っていたんですが、クレジットを見たらTraditional。もとはスコットランドの民謡だったんですね。

で、相川理沙さんはこれを日本語の詞で歌っていました。そして曲が終わった後、カメラがターンしてある人の後ろ姿をとらえます。僕はもちろんそれがだれだかすぐにわかりました。


関口直人さん。

関口さんは相川理沙さんをずっと応援されていることはよく知っているので、ああやっぱり関口さん、そこにいらっしゃってたんだなと思って、そのときはそれで終わっていたんですが、今朝、関口さんのことを書こうと思って、ふと、あのシーンのことを思い出して、もしかしたらと思って調べたらやはり、でした。相川理沙さんが歌っていた「The Water Is Wide」の日本語詞を書かれていたのは関口直人さんだったんですね。曲を歌う前のMCでおそらく紹介をしてたんでしょう。


関口さんが付けた曲のタイトルは「船は行く」。

「The Water Is Wide」という曲は、邦題としては「広い河の岸辺」とか「悲しみの水辺」とか、あるいは直訳に近い「流れは広く」などがあるみたいですが、関口さんはそれらとは違ったタイトルで、訳詞ではない形の詞を書かれています。以前紹介した西海孝さんの『空を走る風のように、海を渡る波のように』に収録された曲と同様のスタイル。ちなみに「The Water Is Wide」のオリジナルの歌詞では船(ボート)が行くのは広い川ですが、関口さんが書かれた詞では海のようです。

「船は行く」は相川さんの今年出た新しいアルバムの1曲目に収録されていることがわかりました。これは手に入れないといけないですね。

ところで関口さんのことをことをブログに書こうと思っていたのは、あるサイトに関口さんが投稿された記事を紹介したかったから。それは僕が毎朝チェックしている「週刊てりとりぃ」というサイトの5月11日に投稿された記事の3つめに書かれた「青山で出会った紳士」という文章。先日亡くなられた大森昭男さんを追悼する記事なんですが、大森さんとの出会いから始まるこの文章がたまらなくいいんですね。

これを読んだときに確信のように思ったのは関口さんにぜひ本を出してもらいたいということでした。東京でお会いしたとき、短い時間の中で伺ったのは知られないのがもったいないほどの貴重な話、面白い話の連続でした。いっしょにいた石川さんもぜひアゲインでトークイベントをやりたいとおっしゃっていました。「マスターの自由自在」では必ず関口さんを呼び込んでいくらか話をされていましたが、まだまだ聞きたいことを山ほどあります。

もし、関口さんの本を出すのであれば、やはり夏葉社しかないだろうなと。本のタイトルは『船は行く』で決まりです。山高登さんの船を描いた版画がつけば最高。そして本が出たら出版記念のトークイベントをもちろんアゲインで。

来年ぐらいに実現しないかな。絶対に行きます。


なんてことを考えながら、先日の5月12日に、その夏葉社から出た吉田篤弘さんの『神様のいる街』を買いにおひさまゆうびん舎に行ったら窪田さんから関口さんの話が。

なんと関口さん、Facebookを通じて世田谷ピンポンズさんに誕生日メッセージ(おひさまに行った前日の5月11日がピンポンズさんの誕生日)を送られていたんですね。僕はFacebookをやっていないので窪田さんにそのメッセージを見せてもらいました。これです。

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関口さんの書かれた短歌の最後にも「船」が出てきていますね。本のタイトルは『昔日の客』にかけて『船上の客』もありかな。


実は最近、ずっと「船」のことを考えています。江戸時代に僕の母親の先祖が四国から瀬戸内海を渡って牛窓近くの港町にやってきた船、真っ白な帆を張って希望をめざしていた船のことを。

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by hinaseno | 2018-05-20 14:51 | 雑記 | Comments(0)

吉田篤弘さんの『神様のいる街』はこんな一節から始まります。これ以上ない書き出し。もうこれだけで、この本が僕にとって最高の本であることがわかりました。


 周波数を探っていた。日曜日の深夜だった。その時間帯だけ空気がきれいになる。壊れかけたラジカセのチューニング・ダイヤルを1ミリずつ動かし、東京から五百キロ離れた神戸のラジオ局の電波をとらえようとしていた。聴きたい番組があったわけではない。ただ、神戸の時間や空気とつながれば、それでよかった。

深夜であれば神戸のラジオ局の放送を東京で聴くことができたんですね。そういえば大瀧さんの『ゴー!ゴー!ナイアガラ』はラジオ関東という東京でもかなり小さな放送局で電波も弱かったはずなのに、ときどき神戸や、あるいは四国の徳島のリスナーからのハガキが届いたりしていて、大瀧さんもびっくりされていました。

深夜の電波ってすごいですね。それはさておき、この初めの一節から共感を覚える話の連続。

ということで、いくつか激しく共感を覚えた言葉を並べておきます。


 この街には無数の物語があった。小さな箱におさまった物語が街の至るところに並びーーそれはつまり小さな街に小さな店がひしめいている様そのものでもあったがーー本棚に並ぶ書物のように、ページをめくれば、そこに尽きせぬ物語が隠されていた。
 街の人たちは、そのいくつもの物語をそれとなく知っていて、物語を引き継いだり、ときには、物語に突き動かされたりしながら毎日を生きている。僕は勝手にそのページをめくって読みとろうとしていた。


 思えば、子供のころから偶然や運命といったものに特別な思いを抱いてきた。偶然と運命は正反対の言葉のように思われるが、何かちょっとした偶然を見つけたとき、それがそのまま自分の運命だと受けとってきた。


 異人館には行かない。ポートタワーにものぼらない。高いところから夜景を眺めることにも興味がなかった。
 海と山がすぐそこにあることが、この街の素晴らしさを際立たせているのは間違いない。でも、それはあくまで海と山が街とひとつになっているからで、重要なのは、なにより街だ。


で、『夏暦』の話。


 初めて働いたお金で本を買ったとき、嬉しくもあったが、ひどく哀しい思いにもなった。件の古本屋に、あと四冊のこっていたはずの上林暁の本はすでに売れてしまい、わずかに一冊だけ売れ残っていた。残された一冊ーー『夏暦』という本であるーーを迷わず買い、夜中にページをひらいて、心静かに哀しい気持ちで読んだ。
 素晴しい本だった。何をさしおいても、読むべき本だった。きれいに整えられた全集を図書館から借りて読むのではなく、戦後の貧しさが染みついた、そのぼろぼろの本を自分の右手と左手でページを繰りながら読んでいくーー。
 本に戦争が染みついていた。そこに時間が流れていた。本の中の時間が右手と左手からステレオで伝わってくる。ざらざらした紙に触れることは、そのまま時間に触れることで、古本を買うということーー手に入れるというのは、こういうことなのだと、ようやく理解しつつあった。

そして海文堂。そのあとハックルベリーも出てきます。このあたりは涙なくして読めない。あのあたりの店を歩いていたときの僕の気持ちをこれ以上ないほど見事に表現してくれています。


 本を一冊買うのもまた同じで、古本は神保町で購めたが、新刊書店に並んでいる現役の本は神戸で買うことにしていた。具体的に云うと、東京でも買える本を、元町の〈海文堂書店〉で買っていた。それは、そうした決まりを自分に課していたのではなく、ひとえに〈海文堂書店〉が、どこか古本屋のような新刊書店だったからである。
 本の並びの妙だった。二十四色の色鉛筆を、どんな順番で並べていくかという話である。新刊書店の本の並びは、たいてい赤から始まって紫に至る。著者がアイウエオ順で並んでいている教科書どおりのグラデーションになっている。便宜をはかってそうなっているのだろうか。背表紙を追っていくこちらの目を驚かさない。
 一方、古本屋の棚では、思いがけないものが隣り合わせていた。その並びが、巧まざる「奇異」や「妙」を生む。
 古本屋の棚は街の中のシュールレアリズムだった。
 本棚が生きもののような力を持つのは、この「奇異」と「妙」が自然に生まれ、そのうえ、一見、ランダムに見える並びが、隠された暗号やパズルを解く楽しみを孕んでいる場合である。誰かの目にはでたらめに映っても、またとない脈絡が見える。
 そうした絶妙さを小さな店構えの棚に見つけたのではなく、〈海文堂書店〉という、それなりの広さを持った二階建ての新刊書店の棚から感じとった。稀有なことだった。海にほど近い場所の力もあったかもしれない。海の近くの本屋で、刷り上がったばかりのあたらしい本や、見過ごしていた本を手に入れる喜びーー。
 これは、通い詰めた店々に共通して云えることで、中古レコードの〈ハックルベリー〉も、古本の〈後藤書店〉も、〈元町ケーキ〉も〈エビアン〉も〈明治屋神戸中央亭〉も、いずれも「海側」にあった。それらの店から海が見えるわけではないが、外国の船が停泊する穏やかに晴れた海がすぐそこにあるということが、本やレコードに触れる時間や、気軽に食事をする時間を独特なものにしていた。
 そこにあって見えないがゆえに、視覚ではなく、体の中のどことも云えないところに、海が快く働きかけていた。

もうただただうなずくばかり。

ところで、この本を読みながら、吉田さんはいったいどういうきっかけで神戸に惹かれるようになったのかと考えていたら、僕自身のきっかけを思い出しました。

That reminds me of a story.

きっかけは、牛窓。


それは牛窓がギリシャのミティリニという街と姉妹都市提携をした1982年の数年後、たぶん大瀧さんの『EACH TIME』が出た翌年の1985年くらいの夏のことだと思うけど、牛窓でミティリニと姉妹都市提携を祝うイベントのようなものがあって、それに行ったんですね。確か僕のよく知ったギリシャ関係の研究者の講演会のようなものがあったはず。だれだったんだろう。牛窓へ一人で行ったのはその時が初めて。


当時牛窓にはあちこちにペンションやおしゃれなレストランが作られていて、町には各地から来た観光客であふれていました。とりわけ、夏休みということもあって若い人たちがいっぱい。

で、あるレストラン(今はもうない)に入って食事をしようとした時、やはりテーブルはどこもいっぱいで相席にということになりました。目の前にいたのは2人の20歳前後の女の子。

そのひとりから声をかけられたんですね。それはちょっとした人違い。でも、それをきっかけにして食事をする間、いろいろと話をしました。当時僕は広島に住んでいて、帰省ついでに牛窓へ行ってたんですが、彼女たちは僕の知る岡山や広島の女の子たちとは全然違う雰囲気を持っていました。どこから来たのと訊いたら神戸だと。

食事の後も、その二人(当時、短大生)といっしょにそのあたりをぶらぶらして、で、いっしょに写真を撮ったりしました。そしてその写真を送るということで、二人のうちの最初に話しかけられた人の住所を聞きました。


ここからがまたちょっと長い話になってしまうのだけど、僕は実はもうひとりの、どちらかといえば控えめだったもう一人の女の子の方に惹かれてしまったんですね。いくつかの、やや手間取った過程を経て、僕はそのもう一人の女の子と手紙のやり取り、ときどきは電話で話をするようになりました。彼女の電話や手紙の言葉を通じて僕は神戸の空気を感じ取っていました。ああ、神戸に行きたいと。でも、広島と神戸では、当時の意識としてはあまりにも遠かった。

いずれにしてもそれがきっかけで僕の頭は神戸一色。牛窓も、広島への行き帰りに通っていた尾道もすっかり色をなくしてしまって、僕は機会をみては遠く離れた神戸の情報を拾い集めるようになりました。

『神様のいる街』で「僕は『神戸』という街の名前を口にするだけで、あるいは、その文字の並びを目にするだけで嬉しくなってしまう」と書いていますが、全く同じ。


で、翌年のたぶん5月のある日、神戸大学で行われた、ちょっと大きな会に参加することになりました。ついに神戸へ。

その日は快晴。

考えてみるとその日以来、何度も神戸には行きましたが、僕の印象ではいつも神戸は晴れていました。『神様のいる街』の帯に書かれていた言葉どおりに。

で、その素晴らしく晴れた天気を見て、彼女に会いたくなったんですね。”大きな会”はすっぽかそうと。電話したら運よく家にいて、三ノ宮の駅まで来てくれることになりました。で、一緒に行ったのがポートアイランド。『神様のいる街』に出てくる「無人電車」、ポートアイライナーに乗って…。


あれからもう30年。

昨日、久しぶりに神戸に行ってきました。神戸といっても、神戸の西の方の小さな海街、塩屋。この話はまた後日。


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by hinaseno | 2018-05-19 12:35 | 文学 | Comments(0)

『おかしな本棚』に載っている比較的新しい本で、クラフト・エヴィング商會の人たちがかなり自分と趣味が合うことを確認して、クラフト・エヴィング商會や吉田篤弘さんの本を買い集める一方で、次第に”美しく年老いた”本、つまりブックオフなんかには並ばないような古い本に興味を持つようになります。まあ、もともと古いもの好きではあったわけですが、この本がきっかけとなって僕の古本屋巡りが始まったんですね。

ブックオフのような新刊に近い古書を扱う店にはよく行っていましたが、そこには置かれないようなかなり古い本を扱う店、ということで最初はやはり神戸でした。海文堂書店にも古本を扱うコーナーもありましたね。『おかしな本棚』に載っている本を見つけたときにもうれしかったけど、次第にそれ以外の古本にも興味を持つようになりました。


で、古本集めを始めたときに一つのルールを作ったんですね。

本は絶対にネットで買わないぞ、と。


このルールを最初に崩したのが上林暁の『夏暦』でした。

前にも書きましたが、僕はタイトルに「夏」と付いているだけで強く反応する傾向があります。もちろん使われ方によっては、ただダサいなと思うだけですが、例えば池澤夏樹の『夏の朝の成層圏』との出会いも、何よりもそのタイトルに惹かれました。そして『夏暦』という言葉もありそうでない、魅力的な響きを持っていました。これはぜひ手に入れたいと。


ところで『おかしな本棚』には上林暁の本が『夏暦』以外にもう2冊紹介されていました。

『晩春日記』、そして『星を撒いた街』。

『夏暦』とは別の本棚に入っていましたが、いずれも”美しく年老いた”、しかも魅力的なタイトルの本でした。


偶然というか、縁というか。上林暁という人に関心を持ち始めていたときに『レンブラントの帽子』で知った夏葉社から、まさにその上林暁の本が出ることを知ります。タイトルは『星を撒いた街』。

発売されたのは2011年6月25日となっていますが、僕が知ったのは夏の終わりか秋近くだったかもしれません。

どこで売っているんだろうかと調べたら、今はなき岡山の万歩書店の平井店に置かれていることを知り(実は海文堂書店にも置かれていたのに気づかなかった)、そこで購入。

で、そのときに一緒に置かれていたのが、その前年に出ていた『昔日の客』。この話、何度書いているかわからないけど、まさに運命の1日ですね。ということで『おかしな本棚』がなければ、夏葉社との出会い、というか再会(僕の場合は本当の出会いはほとんどが再会という形になっています)はありませんでした。


ところでその万歩書店平井店には”美しく年老いた”本がいっぱい置かれていたので、そこに毎月1回くらい行くのが本当に楽しかった。『おかしな本棚』に載っている本をたくさん買ったな。


そして、これも何度も書いたように、2011年の暮れのある日、姫路の、商店街からちょっとはずれた路地を歩いていたときに見つけたのが、ツリーハウスとおひさまゆうびん舎という古本屋でした。

そのおひさまゆうびん舎で夏葉社の本を取り扱ってもらうようになり、そしておひさまで買えるようになった最初の夏葉社の本が上林暁の『故郷の本棚』。これも不思議な縁。


そういえば僕がおひさまに出会った頃に、一番探していたのが小沼丹の本で、それがきっかけでYさんと知り合い、そのYさんに教えてもらったのが木山捷平。そうしたら上林暁の『故郷の本棚』に「木山君の死」という随筆があって、2人が親友だったことを知るんですね。もう何もかもが運命的なことだらけでした。


おひさまゆうびん舎の窪田さんとはいろんな本の話をする中でクラフト・エヴィング商會や吉田篤弘さんの話もしました。でも、最初は知らなかったようで、ときどきはこれはクラフト・エヴィング商會が装幀した本だよとか言って、クラフト・エヴィング商會が装幀した本を並べてフェアしたら面白いかもと言ったりしていました。

ある日、僕の持っていたクラフト・エヴィング商會関係の本を、『おかしな本棚』だけを残してどっさりとおひさまゆうびん舎に売ったんですね。早い段階で全部売れちゃったみたいだけど。


ところで夏葉社から『星を撒いた街』が出たことにきっと吉田さんが反応するだろうなと思ったらやはり。『本の雑誌』の2012年1月号に載った「私のベスト3」という特集で、吉田篤弘さんが夏葉社の『星を撒いた街』を選んだんですね。これもうれしかったな。

どうやらこれがきっかけで夏葉社の島田さんと吉田さんとのつながりができたようで、2012年の暮れに夏葉社から出た『冬の本』に吉田篤弘さんの文章が掲載されることになります。今回の本への道は少しずつ作られていたようです。


ところで『夏暦』のこと。おひさまゆうびん舎で島田さんに初めてお会いしたときだったか2度目だったか忘れましたが、僕が上林暁の『夏暦』を探していることを話したんですね。そうしたら島田さんが「『夏暦』は古書価格ではそんなに高くないですよ」って言われて初めて日本の古本屋というサイトを覗きました。調べたら確かにそんなに高くない。ってことで、日本の古本屋を利用して初めて古本を買いました。


ってことで、夏葉社から吉田篤弘さんの本が出て、おひさまゆうびん舎でそのフェアが開かれて、そして僕の『夏暦』が飾られているというのは、この上なくうれしい、というか改めて考えれば夢のような話。しかもその本が、神戸についての話、そして上林暁の話が出てくるわけですから、もうたまらないですね。


ところで、おひさまに展示された本には『夏暦』以外に上林さんの本が2冊飾られていました。『晩春日記』と『文と本と旅と』。

この2冊、去年だったか岡山で開かれた古書市に出品されていて購入希望を出したんですがダメだったもの。で、『晩春日記』はそんなに高くないものがネットで見つかったので買いました。今、読んでいるところです。


そういえば展示されていた本には、それぞれが『神様のいる街』に出てきた文が横に貼られていたんですが、それに気がついて読むのやめました。せっかく苦労して作られたのにね。

というわけで家に戻って、果たしてどんな形で上林暁の『夏暦』が登場するのか、わくわくしながら『神様のいる街』を読み進めました。こんなにわくわくしながら本を一気読みしたのは久しぶり。

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by hinaseno | 2018-05-16 13:16 | 文学 | Comments(0)