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by hinaseno
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カテゴリ:雑記( 349 )



尾道のことを書きながら、尾道と同じくらいに大好きな海街のことを考えていました。


牛窓、そして塩屋。


牛窓といえば、僕が2年前の春に何十年ぶりかで尾道を訪れてみようと思ったきっかけはミルクという名の白い猫に会うためでした。正しくいえば牛窓を舞台にした想田和弘監督の映画『牡蠣工場』を尾道の映画館で観るという目的。『牡蠣工場』の主人公(?)が「ミルク」だったんですね。

想田さんが牛窓を撮っていたことはリアルタイムで知っていたので、それが作品となって公開されるのを心待ちにしていたんですが、ところがいろんな事情から岡山での上映が先延ばしになっていたんですね。これ以上待てないってことで、土曜日に観に行ったら上映は前日の金曜日が最終日だったと。


その『牡蠣工場』が公開される前、ミシマ社から出版された想田さんの『観察する男』を読んでいたら興味深いことが書かれていたんですね。牛窓で撮影したものがあまりにも多くて、とても一つの作品には収まりそうもないので、『牡蠣工場』とは別にもう一つ作品が作れると。

その「もう一つの作品」(正直に言えばそちらの方を)を『牡蠣工場』を観る前から待ち望んでいたんですが、それがようやく完成したんですね。タイトルは『港町』。


こちらはその『港町』の公式サイト。予告編の映像を観ても僕のよく知っている風景ばかり。このシーンに映っている猫は、昨年の6月にようやく出会うことができた「ミルク」ですね。

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それから一瞬映るこのシーン。

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『東京物語』の福善寺で撮られたこのシーンとそっくり(この墓を見つけるのは大変でした)。

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このサイト、下の方に並んでいるコメントを見たら平川克美さんと内田樹先生の名が。これもうれしいですね。お二人らしい語り口でたまらないです。

一応それぞれのコメントを。まずは平川さん。


ここでは、ひとは海からの贈与で生活し、猫は人からの贈与で生きている。過疎と老いが忍び寄る港町で、ひとびとは黙々と働き、墓参し、ときに笑う。水上で、路上で、山間で、彼らが語り始めたとき、わたしは、人生の深淵を覗きこんでいるような気持ちになった。

それから内田先生のコメント。


出て来る人たちはみんなカメラに向かってよく話す。多くが笑顔で、同意を求めて、感情をこめて話す。無言の時さえ表情は饒舌だ。でも、その笑顔の下にはどこかしら「私の思いが伝わるはずがない」という絶望に似たものが感じられる。私自身でさえ自分が何を考えているのかわからないのに、あなたにわかるはずがない。人間はみなその孤独に耐えて生きているのだとあらためて知らされた。

この映画、岡山でも上映が決まっているみたいですが、前回のリベンジというわけではなけれど尾道の映画館で観てみたいと思っています。


さて、塩屋のこと。僕の住んでいるところからは尾道とほぼ同じくらいで、真反対の方角にある海街です。

余白珈琲さん、塩屋に住む場所が見つかって、来月引越しをすることが決まったんですね。懸案だった煙問題も一石二鳥というような感じで解決できたみたいです。いや、彼らに「一石二鳥」って言葉はふさわしくないか。たまたま縁があった、というか縁の尻尾をつかんだだけという感じです。

場所はかなり急な坂を上ったところにあるようです。彼らが落ち着いた頃に訪ねることができたらと思っています。ちなみに焙煎の部屋からは海が見えるとのこと。いいですねえ。潜水艦の暖簾と合いそうです。


ところで僕は余白珈琲さんから毎月20日に焙煎した珈琲豆を送って(贈って)もらっているんですが、一昨日届いた豆の焙煎日である2月20日は彼らが引っ越すことになった家が建てられた日だそうです。いや、これも縁ですね。

ちなみに建てられたのは1969年。

1969年の2月というと、はっぴいえんどの人たち、とりわけ大瀧さんと細野さんが不思議な縁でつながり始めた頃。面白いものですね。


そういえば次回珈琲豆が送られてくるのは3月21日ということになりそうですが、その日はもちろんナイアガラ・デイ。

僕はたぶん前日に届くかもしれないシリア・ポールの『夢で逢えたらVOX』の、とりわけ「香り’77」をなんどもリピートしているだろうと思います。


「香り」といえば、一昨日、余白珈琲さんの包みを届けてくれた郵便配達の人が「コーヒー豆のいい匂いがしますね」と言ってくれたんですね。マスクをしていたのにもかかわらず、いい香りが届いたんですね。

「とても美味しいんですよ。よかったら注文してみてください」と言ったらにっこり。ちょっとだけ楕円が膨らんだ感じがしました。


楕円といえば、平川克美さんの『21世紀の楕円幻想論』の重版が決まったそうです。おめでとうございます。でも、もっともっといろんな人に届いてほしいです。

その平川さんの本の発売記念イベントが2月26日にアゲインで行われるんですね。行きたいなあ、と思っていたらなんと、翌月の20日と21日に平川さんと松村圭一郎さんのトークイベントの告知が。

隣町珈琲で対談が行われるのはナイアガラ・デイの3月21日。これ、たまたまなんでしょうか。ああ、行きたい。


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by hinaseno | 2018-02-23 14:57 | 雑記 | Comments(0)

一杯の珈琲の物語@尾道


前々回、時宗の話になったので、時宗つながりで。

時宗といえば、この常称寺という寺。

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場所は尾道。この寺の写真、以前貼っていたような気がしたんですが、調べたら貼っていなかったですね。


ここを訪れたのは2年前の2016年9月10日。

その日、僕は日が暮れるまで『東京物語』のロケ地(探していたのは「とみ」と「しょうじ」の墓でした)を歩いて、で、夕方から始める世田谷ピンポンズさんのライブが始まるまでどこかで時間潰しをしようとライブ会場である弐拾dBという古本屋さんの近くをぶらぶらしていたらいい感じの寺が見つかったので、そこで腹ごしらえをすることにしたんですね。小さな境内の観音堂の廊下に座っておにぎりを食べながら本堂を眺めていたら「時宗」というのが目に入ったわけです。

あっ、時宗だと。


一遍、時宗、踊念仏好きで、お寺巡りをするのも好きだったんですが、時宗の寺を訪れたのはたぶん初めて。しかも例によって”たまたま”。

家に戻って調べたら尾道には時宗の寺がたくさんあることがわかって、なかでも『東京物語』の中で香川京子さんが歩くシーンとして使われた場所のすぐそばに西郷寺というあまりにも素晴らしい時宗の寺があることがわかって、どうしても見たくなってひと月後に訪ねたんですね。その時のことはこの日のブログに書いています。あいかわらず「縁」って言葉を使っています。

僕にとってはいろいろと縁がありすぎる大好きな海街、尾道で、「無縁」の原理を身につけている時宗の寺に出会ったというのもなんとも楕円的というか楕縁的な話。


楕縁的な話といえば、余白珈琲さんたちは備前の福岡にある長船駅で別れた2日後、旅の最後に尾道に立ち寄ったようです。そのときのことが少しInstagramに書かれていましたが、これがとびっきり素敵な話だったんですね。


もともと余白珈琲さんたち2人は岡山で一泊、今治で一泊して大阪に戻る予定だったらしいんですが、ふと思いついて予定を変更して尾道に一泊することにしたようです。もしかしたら立ち寄るかもしれませんとは言っていたけど。

そう、彼らは尾道の弐拾dBに行ったんですね。ただその日は平日。弐拾dBさんの平日の営業時間は深夜の23:00から27:00。ということで余白珈琲さんたちが弐拾dBに行ったのは深夜。

確かその日はすごい寒波が日本を襲ってきていて、元病院をそのまま使っている弐拾dBさんは普通でも冬は寒そうだけど、その日はとんでもなく寒かったはず。でも、だからこその暖かい物語というのが生まれたようです。


店内にいたのは弐拾dBの店長さんと余白珈琲さん2人とたぶん数人の客。みんなでストーブを囲んで小さな声で話をする。それぞれの現在のこと、将来のこと。もしかしたら世田谷ピンポンズさんの話も出たのかもしれません。

ふと、大石くんはカバンの中にほんの少しだけ珈琲豆が残っていることを思い出します。たぶん旅に出る前にはきっとカバン一杯に珈琲豆を入れていたはずですが、あちこちでいろんな形で”贈与”したり(僕もいただきました)、ときには自分たちで飲んでいるうちにほとんどなくなってしまったんですね。でも、ちょうど一杯分だけ残っていた。残していたのか、たまたま残っていたのかはわからないけど。

その一杯分の珈琲豆を挽いて、ストーブの上のやかんの湯を注いで一杯の珈琲を入れて、ストーブを囲んだ人たちみんなで回し飲み。そしてまたそれぞれの”答えのない”話を続ける。


いや、うらやましくなるような物語です。

いくつもの「たまたま」や、ふとした思いつきのようなことで生まれた物語だとは思いますが、こういう素敵な時を作れるというのもやっぱり「縁」なんでしょうね。

そういえば弐拾dBさんがこのときの写真をツイートしていたのでちょっとお借りします。

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よく見ると大石くんの着ているのはビートルズのトレーナー。

ドリッパーもテーブルも真円ですが、なんとも楕縁的な風景。一遍さんもきっとニコニコしていることでしょう。


楕円的というか楕縁的といえば、昨日、松村圭一郎さんがミシマ社の三島さんと対談されたそうなんですが、場所がなんと福岡だったんですね。岡山(備前)の福岡ではなく九州の福岡。

タモリさんもブラタモリで言っていたように九州の福岡の地名の由来は備前福岡。松村さん、岡山の福岡のこと、話されたでしょうか。


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by hinaseno | 2018-02-10 13:18 | 雑記 | Comments(0)

平川克美さんの『21世紀の楕円幻想論』に書かれていた「市とは、「無縁」の原理によって貫徹されている場所」という言葉を見て、パッと思い浮かべたのがこの絵でした。だれもが絶対に見たことがあるはず。

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鎌倉時代の市として、小学校から高校に至るほぼすべての歴史の教科書に昔からずっと載り続けています。例えば現在使われている中学校の2種類の教科書にもカラーでこのように大きく。

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この絵は教科書だけでなく、日本中世の歴史書の表紙にもたくさん使われていて、平川さんの本でも紹介されている日本の中世研究の第一人者である網野善彦の本の表紙にもこのように数種類。

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描かれた場所は備前福岡。

そう、まさにあのうどん屋さんがある場所なんですね。絵に描かれている吉井川との距離を考えると、うどん屋さんはこの絵の風景の中に入っていることになります。気づかなかった。


明治時代のこの辺りの地図で確認すると、市があったのは赤丸で記したところと考えられます。

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近くに一日市とか八日市とかの今も残る地名があることからもわかるようにこの辺りにはあちこちに定期市がつくられていましたが、中世においては福岡の市が最も栄えていたようです。


地図には福岡の市につながる道に渡しの船が描かれていますね。今からちょうど740年前の1278年(元寇の2つの役の間の時期です)の冬、一人の遊行・遍歴する僧侶が、船を渡ってこの福岡の市のあった場所にやってきました。

その名は一遍。

そう、あの踊念仏を始めた人。時宗の開祖ですね。


上に紹介した絵は『一遍上人絵伝』(または『一遍聖絵』)の一場面。絵の中に一遍がいると知ったのはわりと最近のことですが、それ以来この絵に興味が俄然増してきて、で、一遍のことをいろいろと調べているうちにいつの間にか一遍ファンになってしまったんですね。特に踊り念仏というのがなんともロックンロール的。


さて、上の絵の中のどこに一遍がいるかというと、ここです。

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かなり粗末な服を着て、日焼けのためか顔が黒くなっているのが一遍。

その一遍を今にも斬りつけようと刀を抜きかけている男が目の前に立っています。向こう側には履物や布を売っている店が並んでいて客と商談らしきことをしていて一遍たちの方には目もくれない。それに対して手前にはそれを心配そうに見つめている人が並んでいます。さらに手前には一遍か、一遍を切りつけようとしている男が乗ってきたと思われる川船が川岸に泊まっています。流れている川はもちろん吉井川。


ちなみにここからは少し離れた場所にはたぶん商売とは関係のなさそうな男が琵琶を弾いていたりするんですね。

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男の身なりはかなりきちんとしていて、盲目の琵琶法師ではありません。彼は一体どんな音楽を奏でていたんだろう。そして彼のほうを向いている人物が彼のすぐ後ろに二人いますが、この二人はどうやら乞食のよう。


ところで一遍はなぜ切りつけられようとしているのか、あるいは一遍はこの後どうなるのかを説明すると話は長くなるので詳しくは割愛しますが、一遍を切りつけようとしているのはあの吉備津神社の神主の息子。その人物はなんと次の場面ではこのように一遍に頭髪を切られているんですね。

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そう、この男は一遍を殺すのをやめたばかりか、出家して時宗の信徒になったんですね。さらにはこの様子を見て300人近くの人がこの地で出家したそうです。

でも、以前も書いたようにこの地ばかりか岡山には現在一つも時宗の寺はありません。


さて、平川さんが『有縁』社会と『無縁』社会」の章で引用していた網野善彦の『無縁・公界・楽』には、時宗は「無縁」の原理を身につけた人だと書いています。さらにこんな言葉も。


こうした遍歴・遊行する時宗が、「宿」「市」などの「無縁」の場を布教活動の舞台としていたことは、乞食・非人を伴い、備前の福岡市(中略)を遍歴した祖師一遍の行動によって明らかであろう。

そう、僕が縁でつながった人たちと会った場所は、かつて中世の市があり、一遍も訪れたまさに「無縁」の地だったわけです。これはあまりにも興味深い発見でした。


ところで、うどん屋さんの近くには「福岡の市跡 一遍上人錫の地」と書かれた石碑が建っています。

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看板にはもちろんあの絵が。この向こうの土手の上にうどん屋さんがあります(店の幟が立ててあるのが見える、かな)。

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そのうどん屋さんの店主が中心になって2006年から毎月第4日曜に定期市「備前福岡の市」を開催しているんですね。目的は地域のつながり作り。つまり「有縁」的な試みと言ってもいいんでしょうね。ちなみに先月末に開かれた市が第143回目。すごいですね。この市、行こう行こうと思いながらまだ行けていません。


さて、直接的には松村さんの縁がきっかけでつながった余白珈琲さんたちですが、たまたまとはいえ、一遍がちょうど740年目にやってきた場所で、しらさぎうどんを始めてちょうど20年目になるうどん屋さんで松村さんと一緒にうどんを食べることになるなんて、思いもよらなかったでしょうね。

でも、これも縁ですね。「無縁」の地で生まれた縁です。

ああ、縁といえばこの前日が余白珈琲の大石くんの誕生日。なんと太田裕美さんも誕生日。これも縁です。


ということで長い話になりましたが、一遍といえば踊念仏なので、最後にレキシの「踊念仏」をと考えましたが、YouTubeになかったので、ちょっと考えてビートルズとビーチ・ボーイズの踊りの曲を最後に貼っておきます。

まずはビートルズの「I'm Happy Just To Dance With You(すてきなダンス)」。

これもやはりジョン・レノンの曲。




それからビーチ・ボーイズの「ダンス・ダンス・ダンス」。曲を書いたのはもちろんブライアン・ウィルソン。こっちのほうが踊念仏できそうです。




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by hinaseno | 2018-02-08 15:01 | 雑記 | Comments(0)

改めて平川克美さんの『21世紀の楕円幻想論』の表紙に描かれた絵を。

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平川さんが楕円と真円についてイメージされたものがここに描かれているんだと思いますが、一つ一つがいろんなことを考えさせられる絵になっていますね。真円の世界の絵には顔が見えない、とか。

一番のお気に入りは右下の「その日暮らし」と書かれた絵。楕円の形をしたベッドだかちゃぶ台の上に横に寝転んだ人。そばには小鳥が止まっています。

このポーズを見るとどうしてもくまくまちゃんのこの絵を思い浮かべてしまいます。

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くまくまちゃんは楕円のベッドだかちゃぶ台の上には載っていませんが、くまくまちゃんの体が楕円になっていますね。くまくまちゃんもやっぱりその日暮らしのはず。まあ、冬眠(?)のために食料をため込むことくらいはするかもしれないけど。


それはさておき、当初、僕が人と人との縁のことを考えたときにイメージしていたのはこの絵のような感じのものでした。

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興味深いのはAとBという二人の人間を取り巻く世界も楕円だけれども、その中にA、Bそれぞれを囲むように点線が描かれていて、よく見るとそれも楕円。そこが結構重要なんですね。


重要といえばこの絵もそうですね。




ここに描かれている「場」は松村さんの『うしろめたさの人類学』で表現されているスキマのような場と考えることができるかもしれません。

そして贈与し合う人の周りには楕円が描かれています。やはりポイントはそこですね。

で、この絵。

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有縁と無縁が重なったところが楕円になっています。一人の人間が自分自身の中に有縁と無縁の両方を楕円的に持っていることが大切なんですね。

縁のことばかり考えていた僕ですが、平川さんの本を読んで「無縁」のことをきちんと理解しておく必要性を考えていたときに見つけたのが『有縁』社会と『無縁』社会」の章に書かれていた言葉でした。

歴史家、網野善彦の『無縁・公界・楽』に書かれた「無縁」を紹介しながら「市(いち)の始まり」について説明した後でこんな言葉が出てきたんですね。


 市とは、「無縁」の原理によって貫徹されている場所であり、それは、今日の市場の原理と同じ発想だろうと思います。


これを読んで僕は、

おおおおおおおおおおっ!

となったわけです。ポイントは「市」でした。


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by hinaseno | 2018-02-05 12:52 | 雑記 | Comments(0)

今日は立春。春立ちぬ、ですね。

ということでこの日は必ず大瀧さんの「恋するふたり」を聴きます。「恋するふたり」は松田聖子の「風立ちぬ」を下敷きにして春に始まる番組用に作ったため当初は「春立ちぬ」というタイトルだったんですね。

ってことで、せっかくなので「恋するふたり」を貼ろうかと思ってYouTubeを検索したら変なカバーばかり。

と思ったら、これがありました。ビートルズの「I Should Have Known Better」。邦題は「恋する二人」。




これも大好きな曲。曲を書いたのはやっぱりジョン・レノン。ということでジョンさんがリード・ボーカルです。ちなみに大瀧さんの「恋するふたり」はこの曲とは(たぶん)なんの関係もなし。でも、大瀧さんのことだから何かちょこっと取り入れているかもしれませんね。


ところで先日、YouTubeで、例の「イエロー・サブマリン音頭」の謎を解き明かした「メイキング・オブ・イエロー・サブマリン音頭」(1984年6月放送)の最後の部分を聴いていたら(↓これ)、




なんと正解者には「イエロー・サブマリン・バッジ」をプレゼントと言っていて、思わず、え~っとなってしまったのですが、昨日、MDに録音していた再放送のもの(2008年1月に放送された「大瀧詠一リマスタースペシャル」)を聴いたら、1984年6月に放送されたものを流した後にアシスタントの女性とのやりとりがあって、「正解者は?」という質問に対しての大瀧さんの答えを聴いて、思わず、ええええええええええっとなってしまいました。いかにも大瀧さんらしいというかなんというか。


さて「え」ではなく「お」が10個くらい並んだ話。

でもその前にもしかしたら「お」が20個くらい並んだかもしれない話の方を先に。

平川克美さんの『21世紀の楕円幻想論』の最終章「21世紀の楕円幻想論 ーー 生きるための経済」を読み始めてすぐに出てきたのが太田裕美さんの「木綿のハンカチーフ」の話でした。

楕円幻想と「木綿のハンカチーフ」のつながりは平川さんの『路地裏の民主主義』を読み返したときに気がついたのですが、あの本を読んでいなければ、あるいは読み返していなければ、きっと、おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっとなったはずでした。


それにしても僕が松村さんの『うしろめたさの人類学』をきっかけにして珈琲豆的な楕円(楕縁)イメージを膨らませていたときに、たまたまそのときに聴いていた太田裕美さんのいくつもの曲の中に『うしろめたさの人類学』のキーワードである「スキマ」という言葉が歌詞のキーワードのように使われているのを発見し、さらにそのあと平川さんの『路地裏の民主主義』を再読したときに楕円幻想の話の中に「木綿のハンカチーフ」の話が書かれているのを知ってとにかく驚いたわけですが、今回、『21世紀の楕円幻想論』を読み進めていて「木綿のハンカチーフ」が出てきたときには、やはり、おおおおおっ!てなりました。


その前に。

以前、スロウな本屋さんで撮った写真で気がついた楕円形のPOP。お願いしたらミシマ社さんから贈っていただきました。これ最高です。

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AとBという2つに分かれた円の真ん中で「OR」という服を着た平川さんが「どっちか、じゃねえんだよな。」と言っています。そう、まさにどっちかじゃない、というのが楕円的な思考なんですね。


「木綿のハンカチーフ」の話は、楕円とは違った真円的な思考は二項対立的な思考で、どちらを選ぶのかを迫るものだという話のあと、こんな形で登場します。


 選べない現実の前で、立ち止まり、戸惑うことの中から、思ってもいなかった風景が目の前に風景が目の前に開けるということもある。選べない理由の意味は、ためらい、逡巡しなければ見えてこないのです。
 現代の楕円幻想は、思わぬところに顔をだしますよ。
 たとえば、それは作詞家松本隆が描き出した「木綿のハンカチーフ」。

おそらく『路地裏の民主主義』を書かれたときには楕円幻想のイメージを固めている段階でのことだったはずなので「木綿のハンカチーフ」についてはさらっと触れられているだけでしたが、今回はよりくわしく。平川さんの説明を読みながら、僕もより深く理解することができました。


平川さんが書かれているように「木綿のハンカチーフ」は田舎と都会、情とお金、生産と消費という相矛盾する二つの項を対比させています。平川さんんの楕円幻想に当てはめてみれば「田舎」「情」「生産」は有縁の世界に、そして「都会」「お金」「消費」は無縁の世界に入ることになります。これに関しては例のNHKで放送された番組で松本さん自身もテーマを都会vs田舎で展開したと語っていましたね。

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「都会vs田舎」ということで言えば、松本さんが作詞した太田裕美さんの曲には「都会vs田舎」がいろんな形で入り込んでいます。そう、太田裕美さんの多くの曲には「有縁」と「無縁」が含まれているんですね。

そういえば同じ松本隆さんが作詞した松田聖子さんの曲は「田舎」はなく「都会」だけ。ときどき海沿いの町や高原にも行ったりしますが、そこはあくまで「都会」の延長線にあるリゾート地。

今、僕が松田聖子さんの曲の詞にはそれほどゆさぶられることがなくなってしまったのはたぶん「無縁」の世界だけの話になっているからなんでしょうね。


ところで平川さんも少し触れられていますが「木綿のハンカチーフ」の詞の最大のポイントは、平川さんの『21世紀の楕円幻想論』でも松村さんの『うしろめたさの人類学』でも最も重要なキーワードになっている「贈与」、つまり「贈りもの」のこと。


都会に出た男の子は「はなやいだ街できみへの贈りもの」を探すつもりだという。でも女の子は「ほしいものはない」と。ただ「都会の絵の具に染まらないで帰」ってくれることを願う。

半年後、田舎に帰らないままでおそらく都会の絵の具に染まってしまった男の子は「都会で流行の指輪を送るよ」という。でも、女の子はそんなものはいらないという。願うのはやはり帰ってきてくれることだけ。


で、次に彼が送るのは完全に都会に染まった姿の写真。女の子はおそらく自分のところには彼が戻ってこないことを確信して、でも、彼女は田舎の風景の中で草にねころんだ姿の方が好きだったと記した返事を書く。体に気をつけてとの言葉を添えて。で、「ぼくは帰れない」という手紙をもらった女の子は「最後のわがまま」として「贈りもの」を願う。それが涙を拭くための「木綿のハンカチーフ」。


『21世紀の楕円幻想論』では平川さんがカラオケで「木綿のハンカチーフ」を歌ったときにそばで聴いていた空手の師匠が涙ぐんだというエピソードが紹介されていました。その人は田舎出身なんですね。

ちなみに僕はこの曲を聴いてもいい曲だなと思う以上のことはなかったんですが、昨日、車の中で詞をじっくりと聴いていたら涙ぐんでしまいました。


そして「木綿のハンカチーフ」の話の後で「うしろめたさ」というキーワードが出てきます。「うしろめたさ」も楕円幻想の世界では欠かせない感情なんですね。なんでも平気で割り切れてしまう人間には楕円を作ることはできません。


平川さんは「木綿のハンカチーフ」の男の側に「うしろめたさ」という感情を見ていますが、女性の側にもやはり「うしろめたさ」があったと思っています。贈りものをあげると何度も言われたのにずっと「いらない」と断り続けたことへのうしろめたさ。

もしも無縁的世界にいる(つまり都会の絵の具に染まりきった)女の子ならば「いらない」と言っても簡単に割り切れる。でも、有縁的世界にいるこの女の子は「いらない」と拒否し続けたことに、何か後味の悪いものを持ち続けるんですね。

で、結局彼女は最後の贈り物としてねだったのは無縁的世界では金銭にほとんど価値のない「木綿のハンカチーフ」。「涙拭く」ためのという言葉を添えて。もちろん男の子は彼女に「木綿のハンカチーフ」を贈らなかったはず。


平川さんの本を読んで、そして改めてこの曲をじっくりと聴いて強く思ったことは、「どっちか、じゃねえんだよな。」ということ。縁のことをずっと考えてきましたが「無縁」の世界のことを対立的なものとして排除してはダメなんですね。

ってことを思い知らされたのが次回書く予定の「おおおおおおおおおおっ」の話です。


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by hinaseno | 2018-02-04 14:24 | 雑記 | Comments(0)

今朝は久しぶりにビーチ・ボーイズを聴いています。聴いているのはネット配信のみの『Keep an Eye On Summer: The Beach Boys Sessions 1964』をCDに落としたもの。「Let's Live Before We Die (Instrumental)」にしびれます。しばらくビートルズばかり聴いていたので自分の中でバランスを取っているのかもしれません。あるいは有縁の世界に少し飽きて無縁の世界に向かいたくなったのかもしれません。


そういえば、昨夜Instagramにこんな写真が投稿されていました。

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熱狂している彼女たちの視線の先にいるのはきっとビートルズだろうなと思ったらやはり。コメントを見たらちょうど1964年の今日(2月1日)にビートルズの曲として初めて「抱きしめたい」が全米No.1になったと。この写真はその10日後の2月11日にビートルズがアメリカで最初に行ったコンサートの時のものだそうです。

アメリカン・ポップスばかり聴いていた当時中学3年生だった(高校受験を間近に控えていた)大瀧少年は突如チャートに登場したイギリスのグループにノックアウトされて、それ以降、つまり高校に入ってからはイギリスのポップスを聴き続けるようになります。


ところで同じ投稿者の次の写真はこれ。

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女の子たちの胸には「I LOVE BEATLES」と書かれた大きなバッジ。その日、ビートルズは「I LOVE BEATLES」というバッジをつけた女の子たちに囲まれてステージで歌っていたわけです。

「I LOVE BEATLES」といえばこの年に「We Love You Beatles」なんて曲も作られています。




歌っているのはCarefreesというグループ。実は大瀧さんは例の「イエロー・サブマリン音頭」の中にこの「We Love You Beatles」を取り入れているんですね。バック・コーラスの女性がこぶしをきかせて「ウイ・ラ~ビュ~・ビ~トルズ~」って歌ってます。歌っているのは聖子ちゃんの「一千一秒物語」でとびっきりロマンチックなローラスをしている人たちと同じはず。大瀧さん、人にもいろんなことをやらせるんだ。自分だけでなく、他人にも楕円的な膨らみを持たせるために。


さて、話は先日の(といってもずいぶん日が経ってしまいました)うどん屋さんでんのこと。その日、胸に潜水艦バッジをつけた6人がテーブルを囲んでいました。

僕と余白珈琲の大石くんとユイちゃん、そして松村さんと2人の娘さん。

テーブルの形は長方形でしたが、縁でつながった楕円がそこにはありました…。

ってところで今回の話は終える予定でいたんですが、平川さんの『21世紀の楕円幻想論』を読んで予定変更。

そう、例の「『有縁』社会と『無縁』社会」の章で見つけた「おおおおおおおおおおっと、『お』を10個くらい並べたくなるような部分」の話のことです。


「『有縁』社会と『無縁』社会」はこの本の中核というべき章(この章の最後に松村先生の本のキーワードでもある「うしろめたさ」という言葉が出てくるのも重要)で、個人的には目から鱗の連続だったんですが、そこにはこんな言葉が記されていました。


わたしたちの社会は、どこまでいっても、「有縁」性だけでは貫徹できないし、「無縁」性だけでやっていくこともできないんです。

さらに、


ひとりの人間のなかにも、「無縁」性に向かう気持ちと、「有縁」性に向かう気持ちというものが同時に存在しているわけです。


あるいは次の章にはこんな言葉も。


大切なことは、自らの中にある「有縁性」と「無縁性」を自覚することです。そして、そのどちらにも行き過ぎないように制御すること。

ビーチ・ボーイズとビートルズのことを思い浮かべながらこんな言葉に線を引き、で、先のページに進まずに、改めてもう一度「『有縁』社会と『無縁』社会」の章を読み返すことにしました。その時に「それ」を発見したんですね。

おおおおおおおおおおっ!、と。


それについてはまた次回ということになりますが、それは『21世紀の楕円幻想論』の表紙の絵に描かれた、このイラストのような状況をつきつけられるものでした。

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by hinaseno | 2018-02-02 15:24 | 雑記 | Comments(0)

平川克美さんの『21世紀の楕円幻想論』、読了。

最後の方ではちょっと目が潤みそうになったところもありました。平川さんという焙煎機によって、最後には温かな膨らみをもった楕円が心の中にできあがった感じです。


ところで読み終えた後、なぜか聴きたくなったのがこの曲でした。




ジェシー・ヒルの「Ooh Poo Pah Doo Part 1」。

R&Bの、なんとも泥くさい曲です。この曲を知ったのは1985年1月24日に放送された新春放談でした。この日の2曲目にかかったのがこの曲。大瀧さんの趣味を考えて達郎さんがかけたんですね。新春放談では通常の放送ではかけられないような曲を大瀧さんにかこつけてかけていました。

曲がかかった後、大瀧さんはこんなことを言っていました。


”呼べば応える山のこだま”というあれもありますけどね、これがコミュニケーションの基本のような気がしますね。

そう、この曲の最大の魅力は最初の部分(大瀧さんはその部分を「呆阿津怒哀声音頭」という曲に取り入れています)。

一人が「ヨ~」と呼びかけると何人かが同じことばで応える。次にちょっと音程を変えて「ヨ~」と呼びかけると同じ音程で応える。で、次は「オー・イエ~」というとやはり同じように「オー・イエ~」と返す。言葉の通じないもの同士の原初的なコミュニケーションを見るような感じですね。でも、これは1960年にアメリカのニューオーリンズで生まれたアメリカン・ポップス。

なんでこれを聴きたくなったかと言えば『21世紀の楕円幻想論』に「呼びかけ」と「応答」の話が出てきたからです。いい話なんだ。


そういえば昨夜は月食。気づくのが遅れて見ることができなかったんですが、なんと『21世紀の楕円幻想論』の最後の方で月食の話も出てきてびっくり。こんな話。


 日蝕、あるいは月蝕のように、二つの焦点が重なってしまい、「贈与のモラル」が「等価交換のモラル」の背後に隠されてしまって見えなくなっているということに過ぎません。隠されているだけであって、「贈与のモラル」は現代社会においても存在しており、それが時折、顔を覗かせているということは、まえに書いたとおりです。
(中略)
 わたしたち現代人が陥っている陥穽は、こうした楕円的で両義的な構造をもつ、異なる経済・社会システムや、モラルの体系というものを、二者択一の問題であるかのように、錯覚してしまうということです。現代社会を覆っているのは、むしろ、この「これだけしかない」という見方の硬直性であると言えるかもしれません。それは、一種の強迫神経症のようなものかもしれません。わたしは、もう一度、日蝕の裏側に隠されている太陽の光を取り戻す必要があります。あるいは、月蝕の後ろにある闇の暗さを取り戻す必要があります。現代社会のなかに、もう一つのやり方、全体給付のモラルを取り戻すということです。

昨夜は月食を見ていた人はかなり寒い思いをしていたようですが、平川さんのこういう文章を読むとじわ~っとあったかくなってくるんですね。


さて、今朝、本を読んで温かい気持ちでいたときに郵便配達の人が到着。余白珈琲さんたちからの手紙入りの封筒が入っていました。大石くんとユイちゃんそれぞれの手紙を読んでさらに暖かい気持ちに。

手紙って最高の贈り物の一つです。


封筒の中には出来たばかりの「余白通信」第2号が入っていました。


コーヒー豆は、不揃いだけれど温かな膨らみをもった楕円形をしています。

っていう一文を見てにっこり。最後には「〆の無駄話」として「イエロー・サブマリン」の話が書かれていました。潜水艦のロゴマークが生まれるきっかけになったエピソードなど興味深い話ばかり。

最後に書かれていたビートルズの「イエロー・サブマリン」が入ったレコードを手に入れた神戸のレコード屋というのはハックル・ベリーなんでしょうか。


さて、余白珈琲さんが岡山のはずれのうどん屋さんに来たときに密かに一番期待していたことというのは、実は大石くんができればビートルズのイラストの入ったトレーナーを着て来てくれて、で、うどん屋さんの席に着いたときに店のスピーカーから「イエロー・サブマリン」が流れてくるということでした。

ほんとはあらかじめ大石くんに連絡してビートルズのトレーナー着て来てね、って言おうかとも思ったんですが、まあ、これはたまたまの方が面白そうだったんで、言わないでおきました。

結果的な話をすれば、大石くんは今回の旅にビートルズのトレーナー(『HELP』のもの)を持って来ていたみたいですが、そのときは残念ながら着てなかったんですね。

それからうどん屋さんのスピーカーからも、この日はその後のイベントの準備の必要からかビートルズが流れていませんでした。

残念。

まあ、物事はそんなには上手くいくものではありません。

でも、やっぱりビートルズが呼んだんですね。この場所に。それに応えることができたのは余白珈琲さんの才能というか運というか、やはり「縁」というしかないのですが。


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by hinaseno | 2018-02-01 16:07 | 雑記 | Comments(0)

平川克美さんの『21世紀の楕円幻想論』は、6章のうちの5章まで読み終えました。その5章の最後に、ついに「楕円幻想」という言葉が登場。


 わたしたちの生きている世界には、「有縁」と「無縁」、お金と信用、欲得と慈愛という相反する焦点があって、それがいつも綱引きをしている、ということを理解していただければいいのかと思います。
 いつも、焦点が二つあり、それらは反発しながら、相互に依存している。
 楕円幻想ですね。花田清輝が出てきちゃった、ここで。

ということで「21世紀の楕円幻想論 ーー 生きるための経済」と題された最終章を今日読むことになります。わくわく、どきどき。


ところで「有縁」と「無縁」に関する話を読んでいたときに、なぜか僕がずっと考え続けていたのはビートルズとビーチ・ボーイズのことだったんですね。最初に出会ったのはもちろんビートルズで、出会ったのはたぶん小学校3年か4年。わすれもしない「抱きしめたい」。♫アオニャホーニョハ~♫って歌ってました。

で、大学時代にビーチ・ボーイズに出会ってそこからは延々とビーチ・ボーイズを聴き続けるようになります。ビートルズ派かビーチ・ボーイズ派かと問われれば(こういう問いをする人が今どれくらいいるのかわからないけど)即座に迷うことなくビーチ・ボーイズ派だと答えます。でも、もしビートルズ派かローリング・ストーンズ派かと問われればやはり迷うことなくビートルズ派だと答えます。じゃあ、ジョン・レノン派かポール・マッカートニー派かと問われれば、う~んと一呼吸おいてジョン・レノン派と答えることになりそうです。ビートルズに出会った頃はずっとポール・マッカートニー派でしたが。

そういえばもしアゲインの石川さんに「あなたはジョン・レノン派ですか、それともポール・マッカートニー派ですか」と尋ねたら、きっと石川さんはやや腹を立てた声でこう答えられるでしょう。

「おれはリンゴ・スター派だ!」と。


ちなみに「イエロー・サブマリン」はポール・マッカートニーが書いた曲。リード・ボーカルはリンゴ・スター。ビートルズを知った頃からリンゴ・スターをかなり低く見ていたので(石川さん、すみません)、正直、「イエロー・サブマリン」は全然好きではありませんでした。リンゴの「イン・ザ・タ~ン」という脱力感に満ちた声が出てきただけでシャッターが降りてしまう感じ。

ってことで当然のことながら『イエロー・サブマリン』のレコードは持っていなくて、2009年に出たビートルズのボックスではじめて『イエロー・サブマリン』を手に入れたものの、ほとんど聴かないままでいました。変な話ですがビートルズの「イエロー・サブマリン」よりも大瀧さんがプロデュースした金沢明子の「イエロー・サブマリン音頭」のほうをはるかに多く聴いていました。そっちがオリジなりじゃないかと思うくらい。なので最後は必ず♫イエロー・サブマリン 潜水艦♫となっちゃいます。


平川さんの本を読みながら改めて自分の人生を振り返ってみたときに、ビーチ・ボーイズを聴くようになった頃から僕は「有縁」というものにわずらわしさを強く感じるようになって「無縁」を志向するようになったように思います。ビートルズは一部の限られた曲(おもにジョン・レノンが作った曲。ポールが作ったのは「フール・オン・ザ・ヒル」と「ペニー・レイン」くらい)を除いて全く聴かなくなりました。

嫌ってた時期もあったかな。「イエスタデイ」なんて死ぬほど嫌いでした。修学旅行のバスの中で歌ったのに。

ただ、そういえば、ある時期からビートルズをカバーした曲をいろいろと聴くようになりました。いろいろと集めてプレイリストも作ったりして。ビートルズのカバーをいくつも収めたGeorge Van Epsの『My Guitar』は超愛聴盤。

2009年に出たビートルズのボックスはモノも含めて2種類買って、しばらくは聴きましたが長続きはしませんでした。『イエロー・サブマリン』に関して言えばディスクを取り出したのはパソコンに取り込む時だけだったはず。


ということでその『イエロー・サブマリン』のCDを初めてターンテーブルにのせるきっかけを与えてくれたのが余白珈琲さんでした。

松村さんの本がきっかけで余白珈琲さんの珈琲豆を買うようになり、やはり松村先生がきっかけで関心を持った塩屋で初めて会ったときに大石くんが着ていたトレーナーの胸にビートルズ(『アビー・ロード』をデザインしたものですね)のイラストが描かれているのに気づいて「あっ、ビートルズ」って言ったら「潜水艦といえば『イエロー・サブマリン』なので」となったんですね。これがきっかけで、家に戻って、早速『イエロー・サブマリン』を聴きました。それ以来、何度も。


きっかけといえば、今回の岡山のうどん屋さんに来てもらったことのきっかけはいずれもたまたま生まれた会話の端っぽの方がつながっているんですね。

縁は尻尾だなと改めて思います。


勝山に行ったときに、帰りの電車に乗るまで時間が少し空いたのでもう一度タルマーリーさんに立ち寄ったらちょうど渡邊さんが戻って来られて少し話をすることができて、そこで、うどん屋さんの話になった。一方、塩屋でも煙の話になって、その話の流れでなぜかそのうどん屋さんの話になっちゃったんですね。でもこれだけでは縁はつながらない。

まあ、つながったのはやはりたまたまというしかないけれど、でも、その「たまたま」の中にある必然性のようなもののことをついつい考えてみたくなるんですね。天使なのか「ハウ」なのかわからないけど、どんな仕掛けをしたんだろうかと。


で、あるとき、ふと浮かんだのがビートルズ。

実は僕がタルマーリーの渡邊さんに聞いたうどん屋を訪ねたときに、店でかかり続けていたのがビートルズだったんですね。延々ビートルズだなと。で、次に行ったときにも、その次に行ったときにもビートルズの曲が流れ続けていることに気がつきました。きっと店主の方がビートルズを大好きなんだろうと。

余白珈琲さんたちに会った数日後にそのうどん屋さんに行ったときにももちろんビートルズの曲が流れ続けていました。それを聴きながら美味しいうどんを食べた後で店の人とちょっと話をしていたときに、店を知ったきっかけを聞かれたのでタルマーリーの渡邊さんから聞いたんですと言ったらちょっとびっくりされて、実はその渡邊さんの講演会を開くことがちょうど決まったところだったんですと言われたんですね。

いやびっくり。

すぐに”一番目の”予約をして、で、これは余白珈琲さんを絶対に呼ばなくてはと思いました。こんな縁もそうないだろうと。すぐに行きますと返事をくれました。

そして余白珈琲さんには最初は内緒にしていましたが、余白珈琲さんとの縁がつながるきっかけを与えてくれた松村先生にも来てもらうことができたら素敵なんじゃないかと考えたんですね。講演会の前日が余白珈琲の大石くんの誕生日だったので(これも縁、ですね)、これ以上ない誕生日プレゼントになると思ったので。

そしてそれが実現することになりました。

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by hinaseno | 2018-01-31 15:26 | 雑記 | Comments(0)

今朝はパンを買いにランニング&ウォーキング。いつもは世田谷ピンポンズさんを聴くけど今日はビートルズ。世田谷ピンポンズさんを聴く時と同様にシャッフルにして。その方が新鮮味があるんですね。

今日聴いた中で一番グッときたのは「I Feel Fine」。サビの部分のメロディとジョン・レノンの歌いっぷり。たまらないですね。

で、その次が「Eleanor Rigby」。こちらはポールの曲。途中で「ハザマケンジ」が出てきてにっこり。「イエロー・サブマリン音頭」で杉真理さんが叫んでいたのが「ハザマケンジ」。本当は「Father McKenzie」だけど、杉さんははっきりと「ハザマケンジ」と言ってます。


「イエロー・サブマリン音頭」といえば、ここ数日「イエロー・サブマリン音頭」の最後の隠された謎の解明を試みていたんですがダメですね。この曲の中に大瀧さんがどういう形で入り込んでいるかが最大の謎なんですが、多分明らかにされていないはず。大瀧さんが意識したのはヒッチコック。ヒッチコックは自作の中にちょこっと顔を出していて、ヒッチコックマニアはそれを見つけるのも同時に楽しんでいるんですね。

大瀧さんが何かを叫んでいるのは曲の最後(チャン、チャン直後)だというのは間違いないはずですが、ほんの一声なので何度繰り返して聞いても何を言っているかさっぱりわからない。「お~きに」って聞こえなくもないけど、大阪弁でそんな言葉を叫ぶ必然性はなんにもありません。

ってことで何を言っているか、という方向で聞いてもらちがあきそうにないので、大瀧さんなら何を言うだろうかというふうに考え直して、とするならば原曲の「イエロー・サブマリン」、あるいはなにか潜水艦に関すること(たとえば有名な潜水艦映画のワンシーンとか)ではないかと狙いを定めていろいろ調べてみたけどやはりダメ。難しすぎる。誰か解明したのかなあ。あるいはどこかで大瀧さんは答えを発表したのかなあ。


ところでここのところゆっくりとパソコンに向かう時間が取れない日々が続いています。本当は3回くらいで終えられるだろうと思っていたこの話も、延び延びになっている間に平川さんの新刊が出て、その話も書かずにはいられなくなって、さらに話が膨らんでいきそうです。

でも、世の中というのは予定通りに進まないところに面白い出会いがあるんですね。その平川さんの『21世紀の楕円幻想論』、昨日読んでいた第4章の「『有縁』社会と『無縁』社会」で、おおおおおおおおおおっと、「お」を10個くらい並べたくなるような部分に出くわしたんです。

今書いている話に直結すること。話を早く切り上げていなくてよかった。

でも、ちょっと調べなくてはならないこともあったので、別の本をパラパラと。さらにまた別の本を。ってことで『楕円幻想論』のほうも中断中。また改めて書きます。

でも、考えてみたらすごすぎるなあと、我ながら感心しています。平川さんの本には必ずそういうのがあるんですね。


それはそうと、スロウな本屋さんから本が入荷したと連絡があったので取りに行ってきました。僕は午後に行ったんですが、午前中に松村先生が来られていたようです。

さて、店内に入ってまず最初に眺めるこの棚。

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一番上の段の端には入荷したばかりの平川さんの『21世紀の楕円幻想論』が2冊、そしてその横には松村さんの『うしろめたさの人類学』。いやあ、最高ですね。

で、下には同じミシマ社から出た『ちゃぶ台3』。この本にはタルマーリーの渡邊格さんが寄稿されてるんですね。横には内田樹先生がらみの本が2冊。いや、たまらないですね。

そういえば写真を撮るときには気がつかなかったのですが、平川さんの本の上には多分ミシマ社の方が作られたはずの楕円形のポップが貼られていました。これ、平川さんのイラストも描かれていてとってもかわいいんですね。気づいていればきちんと写したのに。

また今度きちんと見させてもらおう。


ああ、また本題に戻れませんでした。

まあ、こんなふうに、だれにとっても何の役にも立たないことをだらだらと書き続けて行くのが僕のブログではあるのですが。


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by hinaseno | 2018-01-30 15:29 | 雑記 | Comments(0)

「イエロー・サブマリン」を聴きながらビートルズのことを書いていたら郵便配達の人がやってきたのでポストを見ると、なんと! 超がつくほどうれしい贈り物が。

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ポストに入っていたのはこのブログで何度も書いていた平川克美さんの新刊『21世紀の楕円幻想論』(ミシマ社)。

ついについに、です。この本が出るのをどれほど待ちわびていたことだろう。とはいっても実はまだ発売はされていません。ありがたいことに一足早く平川さんから贈っていただいたんですね。


この本、今月に出ることが決まってすぐに注文していました。しかも2冊。

注文したのはもちろんスロウな本屋さん。

1冊はだれかに贈与を、って考えていたのですが、2冊贈与できることになりました。でも、同じ本を3冊並べておくというのも悪くないですね。僕にとって最も大切な本の一つになることは間違いないので。


さて、まず興味があったのは帯(帯文は内田樹先生!)を取った表紙に描かれているイラスト(装丁は文学銀座)。

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楕円のいろんなイメージが図示されています。真円と真円では対立が起こるというのもイメージとしてよくわかります。

それから目次を見ると、こんな章題が目に止まりました。


文化の異名は、「ためらい」「うしろめたさ」

一体どんなことが書かれているのかわくわくしますね。

いずれにしても今年のキーワードは「楕円」。いや、個人的には「楕縁」。ふぞろいではあるけれど、珈琲豆のような温かな膨らみのある楕円の形をした縁。


そういえば2日前にある方から贈っていただいたものがあって、まさにそれは珈琲豆でした。といっても余白珈琲さんからのものではなく、余白珈琲さんとの縁をつないでくれた『うしろめたさの人類学』の著者である松村さんから贈られたものでした。

贈られたのは松村さんがフィールドワークされているエチオピアの珈琲豆。珈琲豆は2つの袋に分けられていて、そのうちの1つは松村さんがエチオピアに行かれた時に必ず滞在されるアッバ・オリさんの家族(『うしろめたさの人類学』)が摘み取って炒たものとのことでした。

豆の大きさもふぞろい。焼け方もふぞろい。でも、そこになんとも言えない愛着を感じてしまいました。


実は先日、余白珈琲さんたちが岡山に来た時に、松村さんにもお忙しい中、お越しいただいたんですね。場所は僕の家からそう遠くない場所にあるうどん屋さん。そして、そこにはタルマーリーの渡邊格さんもいらしていて。

いくつもの「たまたま」の連鎖のおかげでとても素敵な1日を過ごすことができました。

不思議な縁にただただ感謝。


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by hinaseno | 2018-01-26 14:44 | 雑記 | Comments(0)