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Talks About Music, Books, Cinema ... and Niagara


by hinaseno
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2013年 11月 20日 ( 1 )



いろんなものを調べたりしていると、ときどきびっくりするようなつながりを発見をすることがあります。ほとんどが”たまたま”なのですが。

本題に入る前に、4日前に書いた平賀元義の話を少し。木山さんが「われわれ岡山人は近き古典に、兎も角もすぐれた一人のうたびとを持つてゐる」として、正岡子規の『墨汁一滴』を引き合いに出して紹介した人ですね。
正岡子規の『墨汁一滴』には、平賀元義の数多くの歌を紹介しながら、彼のことをかなりくわしく書かれています。文庫本で16ページ余り、2週間(明治34年2月14日から27日まで)に渡って書き続けています。その際に子規が参考にしたのが「羽生某によりて岡山の新聞紙上に現され」た文。これは岡山の山陽新聞社から『平賀元義』というタイトルで本になっています。作者は羽生永明。この復刻された本も古書五車堂さんにあったのですが、手にとっただけにしました。
で、子規はこの本からいろいろと抜き書きしています(相当変わった人だ)。
脱藩の者は藩中に住むを許さざりしが元義は黙許の姿にて備前の田舎に住みきといふ。
元義の足跡は山陰山陽四国の外に出でず。京にも上りし事なし。
元義には師匠なく弟子なしといふ。

などなど。

いろいろ読むと元義という人は相当変わった人みたいですが、子規は元義に同情的です。
もちろん大多羅のことも出てきます。
弘化四年四月三十一日(三十日の誤か)藩籍を脱して(この時年三十六、七)四方に流寓し後遂に上道郡大多羅村の路傍に倒死せり。

子規はおそらくこれを記しながらも、上道郡大多羅村が岡山のどの辺りにあるのかはわからなかっただろうと思います。そこは子規とものすごく関係の深い人が、あの日、数日間過ごしていた場所からそんなに遠くない場所であることを知ることもなかったんでしょうね。
その関係の深い人とは、もちろん夏目漱石です。

夏目漱石が明治25年の夏に岡山に来ていたことは、この日のブログでちらっと触れました。
このときのことをもう少しだけ詳しく説明します。
漱石が子規と出会ったのは明治22年。まだ、二人が大学生の時。以来二人は文学を通じて交流を深めて行きます。
で、明治25年、このとき漱石は東京専門学校(早稲田大学)の講師、子規はまだ大学生ですね。
二人は大学の夏休みを利用して、子規の松山への帰省がてら、関西に旅行し、神戸で子規と別れ、子規は四国の松山へ、漱石は岡山に向かいます。この時の岡山での漱石の日々はこちらの方のブログで詳しく書かれていて、昨年、『岡山の夏目金之助(漱石)』(岡山文庫)というタイトルで本にもなっています。
漱石は岡山市内の家に滞在しますが、7月16日から19日の3日間だけ、別の家に滞在します。それが上道郡金田村にあった岸本家。百間川のことをいろいろ調べていたときに(「旭東綺譚」を書いていたとき)、たまたま発見しました。 いや、びっくり。あの漱石が実家からすぐ近くの場所に滞在していたわけですから。
さて、その岸本家のあった金田村。大多羅と同じ上道郡にあります。
一応、昭和2年の地図を貼っておきます。大多羅と金田は距離にして3キロ余り。1里ありません。
a0285828_9314393.jpg

この金田村の滞在から岡山市内に戻った日に、子規から学期末試験に落第したので退学するとの手紙を受けとります。そしてその日に、「鳴くならば満月になけほととぎす」という一句を添えた手紙を子規に送るんですね。
その3日後に暴風雨に見舞われ旭川が大洪水。漱石は天神山に逃げて行きます。天神山はまさに荷風が岡山空襲の日に逃げて行った場所。そしてその後漱石が避難した家があったのが、どうやら弓之町、つまり荷風が空襲にあった日に滞在していた旅館があった場所です。
で、明治44年の2月、前年に岡山から上京した内田百閒が初めて夏目漱石に会ったときに、この時の洪水の話を漱石から聞かされます。
なんというつながり。
話がすっかりそれてしまって、ちっとも本題に入れませんでした。

とりあえず、夏目漱石が岡山にやってきた日から14年後の明治39年に書いた『坊っちゃん』に触れておいて、本題に入ります。たぶん。
by hinaseno | 2013-11-20 09:32 | 木山捷平 | Comments(0)