自身のレーベル、フィレス・レコード(Philles Records)を始めたばかりのフィル・スペクターはその最初のシングルを出すアーティストを探していました。候補となったのは3組のグループ。結局スペクターが選んだのはブルックリン出身の黒人の少女5人からなるグループ、クリスタルズでした。
彼女たちがオーディションのために用意していたのはリロイ・ベイツという人が書いた「There's No Other (Like My Baby)」というアップテンポの曲。オーディション・ルームでその曲を聴いていたスペクターは別のコンセプトを思いつきます。
「もっとテンポを落として歌うように」と。
さらにスペクターは部屋の明かりを消して歌わせることにしました。その時にスペクターがイメージしていたのがシャンテルズの「Maybe」。
この頃クリスタルズはあちこちでオーディションを受けていたのでスペクター以外にもクリスタルズを狙っていた人はいましたが、スペクターは最初に彼女たちと契約することに成功します。
そしてレコーディング。用意していたのは3曲。アレンジをしたのはスペクター自身。で、フィレスの最初のシングルのA面となったのがこの「There's No Other (Like My Baby)」。作曲者のクレジットにはリロイ・ベイツのあとに自分の名も連ねていました。
曲はまず最初のヴァースをリード・シンガーのバーバラ・アルストンがソロで歌います。
There's a story
I want you to know
'Bout my baby
How I love him so
このあと、あの「Maybe」の最初に聞かれるピアノのフレーズが出てきます。曲が「Maybe」に捧げたものであることの一つの証ですね。で、メンバー全員によるコーラスで歌が始まる。
There's no other like my baby
No, no, no, no
I wanna tell you now
There's no other, don't mean maybe
No, no, no, no
タイトルにもなっている「There's no other like my baby」の最後の「baby」と韻をふむ形で「maybe」という単語が使われています。リロイ・ベイツが曲を書いた時からそうだったのか、あるいはスペクターがプロデュースした際に、歌詞を「maybe」で終わる形に変えたのか。
興味深いのは同じ日にレコーディングされてB面に収録された曲。曲はスペクターとハンク・ハンターが書いたものですが、タイトルがなんと「Oh Yeah, Maybe Baby」。まるで種明かしをしているような感じですね。
シングルは1961年10月にリリース。ポップ20位、R&B5位の大ヒット。
で、この「There's No Other (Like My Baby)」を数年後にあるグループがカバーします。それがビーチ・ボーイズでした。
収録されているのは1965年暮れにリリースされた『ビーチ・ボーイズ・パーティ』。さらに「There's No Other (Like My Baby)」は「The Little Girl I Once Knew」のB面としてアルバムとほぼ同じ時期にリリースされています。こちらも20位まで上がっています。
というようなことを踏まえて、『KAWADE 夢ムック 大瀧詠一』に載った大瀧さんのインタビュー(「『大瀧詠一』ができるまで」聞き手 湯浅学)を読むと、とても興味深いものがあります。
「おもい」はアカペラをやろうということだったんだけど、ドゥーワップそのままという発想はなくて、どちらかというとウェストコースト的な、ビーチ・ボーイズ的なアカペラをやろうということで。曲を作った時に、中田(佳彦)くんにコーラス・アレンジをしてもらったんだけど、手帳を見てたらすごいことが書いてあった。中田くんともう一人が「おもい」のコーラスをしにきている。手帳を見て、何十年ぶりに思い出したんだけど、竹脇という中田くんの友達ーー竹脇無我の縁者だったらしい。つまり、最初は僕のソロで彼ら二人がコーラスという、『ビーチ・ボーイズ・パーティ』的な想定だったみたい。だから中田くんにアレンジしてもらったんだね。結果的に一人多重録音でやることにしたけれど。