昨日、「縁と縁側(その2)」を書いていたら、いつものようにというか、いつも以上になが~い話になってしまって、で、それは今回のこの「Tokyo Fighting Kids in Okayama」と題した話の最後に書いた方がいい内容になってしまったなと思って、結局アップしませんでした。先に言っておきますが、このシリーズの最後の話は「縁と縁側(その3)」ということになりそうです。
ところで平川さんが内田先生のサイトで連載されていた「東京ファイティングキッズ」で縁と縁側の話を書かれたのは2003年11月23日のこと。本の方では「「縁側」的な共有地を持たない社会というのは非常にコスト高になるのは言うまでもありません」という言葉がタイトルになっています。この話、今も内田先生のサイトのこのページで読むことができますね。
ふと思ったんですが、僕が2003年11月頃に新聞の書評欄に掲載された内田樹先生の本を読んで内田先生のサイトの存在を知り、さらにそこに「東京ファイティングキッズ」という連載がされているのがわかって最初に読んだ平川さんの文章がまさにこれだったんじゃないかと。大瀧さんの影響で「縁」というものを意識するようになっていた時期だったので激しく共感したんですね。考えたらこれも「たまたま」。
ちなみに僕が赤線を引いているのはこの部分(実際に引いているのは「こういった自分のものであって…」以降)。
共同体の中では、いろいろなものが「共有」されているわけです。これは前段の「縁側」の話と共通するところがあるのですが、共同体の中には「自分のものであって、自分のものでない」ものがたくさんあります。村の井戸水がそうでしょうし、川に設置した洗い場もそうです。銭湯はコモンプレイスの最たるものでしょう。こういった自分のものであって、自分のものでないもの、あるいは誰のものでもないものに向き合うときひとはいくぶんかの遠慮といくぶんかの貢献、いくぶんかの愛情といくぶんかの距離をもってそれらを消費しようとするのだと思います。そこには暗黙の了解というものが働いておりそれが、汲みつくしてしまうといった「共有地の悲劇」にブレーキをかけるベクトルが働きます。
ここに書かれていることは先日のスロウな本屋さんでのトークイベントの話の肝になった「コミュニティ」、あるいは「いい加減」ということにもつながっていて、個人的には次の『ちゃぶ台 Vol.5』のテーマは「縁と縁側」(あるいは「縁側と縁」)で行けばいいのではと思って昨日それを書いたんですが、近々「ラジオデイズ」でアップはずのそのトークイベントの話を聞いてもらってからの方がいいなと。とにかく内容も含めて最高のトークイベントでした。
ところで『インターネット・マニア』というかなりマイナーな雑誌の1996年の11月号に掲載された大瀧さんの「縁と縁側」の話を平川さんが掲載時に読まれていたことはまず考えられないけど、石川さん、内田先生のことはすでに色々と知っていた大瀧さんが、平川さんの立ち上げたラジオデイズにでの3人とのトークを了承する際、平川さんのことを知ろうと『東京ファイティングキッズ』を読んだことは間違いのないはず。で、平川さんが書かれた「縁と縁側」の話を読んで、石川さんや内田先生のようなナイアガラーではないけれど自分と同じような考えを持っていることに強く興味を持たれたのではないかなと。きっと。
同じ大瀧さんのインタビューの中で、大瀧さんこんなことも語っています。
偶然の出会いが誘発させる何かがあるんだな。何かをしたいから誰かに会いに行くというんじゃなくて、出会ったところがはじまりで双方誘発されたから、できるという。全然関係のない人間が3人、同時に同じことを考えてたら世の中動く、というのが私の持論なんだけどね。
石川さん、内田先生のつてで、たまたまいっしょに話をすることになった「全然関係のない人間」が、同時ではないけれどかなり近い時期に同じようなことを考えていたというのはまさに「縁」。もう一人いたら「世の中動」いたんでしょうね。
縁といえば、ついでにもう少し。
それは最終日に縁側でいっしょに時間を過ごした御茶屋跡という建物のこと。ちょっと調べたら驚くようなことがいくつも。縁の不思議さというか何というか。
実はここにあった御茶屋はかつて朝鮮通信使の接待、さらに朝鮮通信使の三使・上々官の宿館に使われていた場所だったんですね。
朝鮮通信使を接待した場所といえば近くの本蓮寺だと思っていたんですが、そうではなかったんですね。先日手に入れた『牛窓と朝鮮通信使』によれば、江戸時代に全部で12回やってきた朝鮮通信使のうち、牛窓での応接場所が確認できるのは9回。そのうち最初の4回が本蓮寺で後の5回は御茶屋となっています。幕府が朝鮮通信使をきちんと接待するために作った建物なんですね。
現在の御茶屋跡の建物は当時の御茶屋ではなく、御茶屋があった場所に明治期に地元の名士が建てた住宅を再生したもののようです。
それから『牛窓と朝鮮通信使』を見たら最後のページに朝鮮通信使応接の井戸が載っていました。それは今年の春に見つけたこの井戸でした。
この井戸を見つけたきっかけは、例の想田和弘さんの映画『港町』。映画の最後、あのおばあさんが上っていった丘までの道がわかったので、そこに行く途中で見つけたんですね。
この日のブログにその時に撮ったビデオを張っています。坂に登る途中、一瞬立ち止まって写しているのがその井戸。牛窓にはあちこちに井戸があるんですが、この井戸は他とはちょっと違う雰囲気があって、立ち寄ってみたら「朝鮮通信使ゆかりの井戸」という小さな看板があったんですね。ここの水を御茶屋に運んで接待していたとは。
実はこの日、平川さんと石川さんを迎えに牛窓に行ったら、何かの祭りのようなものをしていて道が通れなくなっていたんですね。なんだろうと思ったんですが、着ている服装ですぐにわかりました。朝鮮通信使に関係する祭りだなと。これが車から撮った写真。
写真には写っていませんが、一度は見たいと思っていた唐子踊りもこの広場でやっていました。
あとで調べたらこの日やっていたのは瀬戸内牛窓国際交流フェスタ2018「朝鮮通信使から未来に向けて」というイベントだったようです。行列が向かった先は本蓮寺。行列には一般の市民と韓国の中学生が参加したとのこと。
そんな日に本蓮寺とともに朝鮮通信使のもうひとつの宿泊地になっていた御茶屋跡の縁側にいたとは、すごい縁だなと。実は、この日、朝鮮通信使を意識するもう一つの縁があったんですが、それはちょっと書けない、かな。縁は不思議としか言いようがない。
ところでこれはこの日、御茶屋跡の二階から撮った写真。
実は『港町』のワイちゃんがいたんですね。小屋の向こうに。でも、撮ろうとしたら見えなくなってしまいました。