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by hinaseno
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Tokyo Fighting Kids in Okayama #1 ー 悪い兄たちががやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!


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平川克美さんの文章を初めて目にしたのは、内田樹先生のブログ『内田樹の研究室』内で行われていた「東京ファイティングキッズ」という企画でした。2003年の11月くらいに、たまたま岡山の実家に戻った時に新聞で目にした書評欄で内田樹という名前と『子どもは判ってくれない』というタイトルに目をとめ、いくつか引用されていた言葉に興味を持って、すぐに本を買って読み、衝撃を受けたんですね。あとがきで日記をネットで公開していることがわかって『内田樹の研究室』を知り、毎日それを読む日々がスタート。そのとき、一番興味を持って読むようになったのがスタートしたばかりの企画「東京ファイティングキッズ」でした。

「東京ファイティングキッズ」というのは内田先生と平川さんのメールによる往復書簡をネットで公開したものだったんですが、これが素晴らしくおもしろかったんですね。タイトルは内田先生が考えたそうです。元ネタはローリング・ストーンズの「Street Fighting Man」という曲。

この往復書簡を読みながら、内田先生の切れ味鋭い言葉に感心しつつも、平川さんの、優しさの毛布で包んだような言葉に強く惹かれるようになりました。でも、当時、平川さんはまだ一冊も本を出されていなくて、この内田先生とのやりとりをまとめた『東京ファイティングキッズ』が平川さんの文壇への実質デビューとなりました。出版されたのが2004年10月。翌月に平川さんの単独の著書『反戦略的ビジネスのすすめ』が出ることになります。どちらとも発売されてすぐに購入しました。つまり僕は平川さんのデビュー前からのファンだったということ。


一方、大瀧詠一というミュージシャンを心から崇拝していた僕は、ネットを始めてからは大瀧さん関連のサイトをいくつか見るようになり、その中で見つけたのがアゲインの(と言ってもまだ当時はアゲインはできてなかったけど)石川さんのサイトでした。内田先生のサイトに出会う5年くらい前のこと。でも、「石川」という名前は確認していなかったんですね。

この石川さんと、内田先生、平川さんが大瀧さんを中心に結びついて、いろんな縁が絡み合っていることが少しずつわかっていった話はここに何度も書いてきたので省略。それに気づく過程のおもしろかったこと。今となっては詳細はほとんど忘れてしまったけど。

そして記念すべき2007年11月25日。店を始められたばかりのアゲインに大瀧さんがやってきたんですね。そこで内田先生、平川さん、そして石川さんを交えて大瀧さんとのトークをしたわけです。

これがアゲインに飾られているその時の写真。

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このときホストを務められたのが、株式会社ラジオカフェを立ち上げ、声と語りのダウンロードサイト「ラジオデイズ」を始められたばかりの平川さんでした。大瀧さんとのトークは「ラジオデイズ」のコンテンツの一つだったわけですが、ラジオをこよなく愛してきた大瀧さんが、立ち上げたばかりの「ラジオデイズ」に興味を持ち、それを応援しようという気持ちもあったことはいうまでもありません。


ただし、石川さんと内田先生はナイアガラー第一世代で、「ゴー!ゴー!ナイアガラ」から「新春放談」に至るまで何十年も大瀧さんを追いかけ続けている熱狂的な大瀧さんの信者(ナイアガラー)だったんですが、平川さんはひとり違ってたんですね。大瀧詠一という人をあまり知らない人が司会を務めていたというのがなんとも面白く、その平川さんが大瀧詠一という人のすごさに気づいていくという過程が、2012年まで続けられた「大瀧詠一的」の一番の聞きどころと言ってもいいのかもしれません。

平川さんの、ときに(僕のようなナイアガラーからしたら)失礼と言ってもいいような発言や行動を一番面白がっていたのが大瀧さんでした。機会があればぜひ全部聞いてください。まさに知の宝庫。といっても最初に聞いた時にはほとんどわからない話ばっかりなんですが、わからなくても面白いというのがミソ。

ちなみにこのトーク、当初は大瀧詠一×東京ファイティングキッズという名称になっていました。内田先生と平川さんのお二人が始めた「東京ファイティングキッズ」の中に石川さんが加わっていたということです。


というわけで今回の平川さん、石川さんの岡山滞在記の通しタイトルは「Tokyo Fighting Kids in Okayama」ということにしました。邦題は「悪い兄たちががやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!」。ま、説明しなくてもわかる人にはわかるってことで。

平川さん、石川さんは僕にとっては心から尊敬している方で、特に今回、初めて長時間行動をともにさせていただいた平川さんの、おそらくは幾度も修羅場を経験してきたことからくる大人としての風格にただただ感服させられていたんですが、でも、一方で、小学校の時の悪ガキだった子供の姿をちょっとしたときに垣間見ることができたのが何よりの収穫でした。石川さんは以前お会いした時に何度も見ていたけど。


さて、その『東京ファイティングキッズ』の単行本のカバーを外すと、小学5、6年ごろの平川さんと内田先生の写真。これがいいんですね。

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これの文庫本の解説を書かれているのが『東京ファイティングキッズ』をNHKの週刊ブックレビューで取り上げた詩人の小池昌代さん。この写真いついて小池さん、こんなことを書いています。


「いかにものびのびとした悪がき・ヒラカワくんと、生意気で利発そうなウチダくん」

お二人は1950年生まれなのでこの写真は1961年か62年ということになります。東京にオリンピックが開かれる直前。

で、東京オリンピックが開かれた1964年は14歳、中学2年ですね。この中学校で平川さんと同級生になったのが石川さん。お二人は音楽を通じて親しくなっていったそうです。

ちなみに東京オリンピックが開かれた1964年はビートルズの全米デビューの年。ブリティッシュ・インヴェイジョンが起こって、ドリーミーでイノセントなアメリカン・ポップスは東京の古い町並み同様にぶっとばされてしまうんですね。でも、この1964年こそが石川さんにとって音楽的に一番重要な年となっているのも興味深いですね。


ところで僕のこのブログを始めるきっかけをくれたのは石川さんでした。何度かメールなどでやりとりをしていたときに、僕が調べたりしたことをきちんとした形にして公にしたほうがいいとアドバイスをくれたんですね。ということで、ブログを始めた時にブログを始めましたと知らせたのは石川さんだけ。しばらくは音楽の話は書かなかったんだけど。

で、ある日、平川さんが僕のブログを見てくださっていることを知りました。以来、音楽に関する話は石川さんを対象に、文学や映画の話は平川さんを対象にして書くようになりました。お二人が面白がってくれたらいいなと。もちろん大瀧さんが読んでくださっていたら最高だなと思いながら書いていましたが。


さて、僕にとってはつながることができたのが不思議としか言いようのないお二人が岡山に滞在していた日々のことをゆっくりと書いていこうと思います。


by hinaseno | 2018-11-12 15:00 | 雑記 | Comments(0)