吉田篤弘さんの『神様のいる街』はこんな一節から始まります。これ以上ない書き出し。もうこれだけで、この本が僕にとって最高の本であることがわかりました。
周波数を探っていた。日曜日の深夜だった。その時間帯だけ空気がきれいになる。壊れかけたラジカセのチューニング・ダイヤルを1ミリずつ動かし、東京から五百キロ離れた神戸のラジオ局の電波をとらえようとしていた。聴きたい番組があったわけではない。ただ、神戸の時間や空気とつながれば、それでよかった。
深夜であれば神戸のラジオ局の放送を東京で聴くことができたんですね。そういえば大瀧さんの『ゴー!ゴー!ナイアガラ』はラジオ関東という東京でもかなり小さな放送局で電波も弱かったはずなのに、ときどき神戸や、あるいは四国の徳島のリスナーからのハガキが届いたりしていて、大瀧さんもびっくりされていました。
深夜の電波ってすごいですね。それはさておき、この初めの一節から共感を覚える話の連続。
ということで、いくつか激しく共感を覚えた言葉を並べておきます。
この街には無数の物語があった。小さな箱におさまった物語が街の至るところに並びーーそれはつまり小さな街に小さな店がひしめいている様そのものでもあったがーー本棚に並ぶ書物のように、ページをめくれば、そこに尽きせぬ物語が隠されていた。
街の人たちは、そのいくつもの物語をそれとなく知っていて、物語を引き継いだり、ときには、物語に突き動かされたりしながら毎日を生きている。僕は勝手にそのページをめくって読みとろうとしていた。
思えば、子供のころから偶然や運命といったものに特別な思いを抱いてきた。偶然と運命は正反対の言葉のように思われるが、何かちょっとした偶然を見つけたとき、それがそのまま自分の運命だと受けとってきた。
異人館には行かない。ポートタワーにものぼらない。高いところから夜景を眺めることにも興味がなかった。
海と山がすぐそこにあることが、この街の素晴らしさを際立たせているのは間違いない。でも、それはあくまで海と山が街とひとつになっているからで、重要なのは、なにより街だ。
で、『夏暦』の話。
初めて働いたお金で本を買ったとき、嬉しくもあったが、ひどく哀しい思いにもなった。件の古本屋に、あと四冊のこっていたはずの上林暁の本はすでに売れてしまい、わずかに一冊だけ売れ残っていた。残された一冊ーー『夏暦』という本であるーーを迷わず買い、夜中にページをひらいて、心静かに哀しい気持ちで読んだ。
素晴しい本だった。何をさしおいても、読むべき本だった。きれいに整えられた全集を図書館から借りて読むのではなく、戦後の貧しさが染みついた、そのぼろぼろの本を自分の右手と左手でページを繰りながら読んでいくーー。
本に戦争が染みついていた。そこに時間が流れていた。本の中の時間が右手と左手からステレオで伝わってくる。ざらざらした紙に触れることは、そのまま時間に触れることで、古本を買うということーー手に入れるというのは、こういうことなのだと、ようやく理解しつつあった。
そして海文堂。そのあとハックルベリーも出てきます。このあたりは涙なくして読めない。あのあたりの店を歩いていたときの僕の気持ちをこれ以上ないほど見事に表現してくれています。
本を一冊買うのもまた同じで、古本は神保町で購めたが、新刊書店に並んでいる現役の本は神戸で買うことにしていた。具体的に云うと、東京でも買える本を、元町の〈海文堂書店〉で買っていた。それは、そうした決まりを自分に課していたのではなく、ひとえに〈海文堂書店〉が、どこか古本屋のような新刊書店だったからである。
本の並びの妙だった。二十四色の色鉛筆を、どんな順番で並べていくかという話である。新刊書店の本の並びは、たいてい赤から始まって紫に至る。著者がアイウエオ順で並んでいている教科書どおりのグラデーションになっている。便宜をはかってそうなっているのだろうか。背表紙を追っていくこちらの目を驚かさない。
一方、古本屋の棚では、思いがけないものが隣り合わせていた。その並びが、巧まざる「奇異」や「妙」を生む。
古本屋の棚は街の中のシュールレアリズムだった。
本棚が生きもののような力を持つのは、この「奇異」と「妙」が自然に生まれ、そのうえ、一見、ランダムに見える並びが、隠された暗号やパズルを解く楽しみを孕んでいる場合である。誰かの目にはでたらめに映っても、またとない脈絡が見える。
そうした絶妙さを小さな店構えの棚に見つけたのではなく、〈海文堂書店〉という、それなりの広さを持った二階建ての新刊書店の棚から感じとった。稀有なことだった。海にほど近い場所の力もあったかもしれない。海の近くの本屋で、刷り上がったばかりのあたらしい本や、見過ごしていた本を手に入れる喜びーー。
これは、通い詰めた店々に共通して云えることで、中古レコードの〈ハックルベリー〉も、古本の〈後藤書店〉も、〈元町ケーキ〉も〈エビアン〉も〈明治屋神戸中央亭〉も、いずれも「海側」にあった。それらの店から海が見えるわけではないが、外国の船が停泊する穏やかに晴れた海がすぐそこにあるということが、本やレコードに触れる時間や、気軽に食事をする時間を独特なものにしていた。
そこにあって見えないがゆえに、視覚ではなく、体の中のどことも云えないところに、海が快く働きかけていた。
もうただただうなずくばかり。
ところで、この本を読みながら、吉田さんはいったいどういうきっかけで神戸に惹かれるようになったのかと考えていたら、僕自身のきっかけを思い出しました。
That reminds me of a story.
きっかけは、牛窓。
それは牛窓がギリシャのミティリニという街と姉妹都市提携をした1982年の数年後、たぶん大瀧さんの『EACH TIME』が出た翌年の1985年くらいの夏のことだと思うけど、牛窓でミティリニと姉妹都市提携を祝うイベントのようなものがあって、それに行ったんですね。確か僕のよく知ったギリシャ関係の研究者の講演会のようなものがあったはず。だれだったんだろう。牛窓へ一人で行ったのはその時が初めて。
当時牛窓にはあちこちにペンションやおしゃれなレストランが作られていて、町には各地から来た観光客であふれていました。とりわけ、夏休みということもあって若い人たちがいっぱい。
で、あるレストラン(今はもうない)に入って食事をしようとした時、やはりテーブルはどこもいっぱいで相席にということになりました。目の前にいたのは2人の20歳前後の女の子。
そのひとりから声をかけられたんですね。それはちょっとした人違い。でも、それをきっかけにして食事をする間、いろいろと話をしました。当時僕は広島に住んでいて、帰省ついでに牛窓へ行ってたんですが、彼女たちは僕の知る岡山や広島の女の子たちとは全然違う雰囲気を持っていました。どこから来たのと訊いたら神戸だと。
食事の後も、その二人(当時、短大生)といっしょにそのあたりをぶらぶらして、で、いっしょに写真を撮ったりしました。そしてその写真を送るということで、二人のうちの最初に話しかけられた人の住所を聞きました。
ここからがまたちょっと長い話になってしまうのだけど、僕は実はもうひとりの、どちらかといえば控えめだったもう一人の女の子の方に惹かれてしまったんですね。いくつかの、やや手間取った過程を経て、僕はそのもう一人の女の子と手紙のやり取り、ときどきは電話で話をするようになりました。彼女の電話や手紙の言葉を通じて僕は神戸の空気を感じ取っていました。ああ、神戸に行きたいと。でも、広島と神戸では、当時の意識としてはあまりにも遠かった。
いずれにしてもそれがきっかけで僕の頭は神戸一色。牛窓も、広島への行き帰りに通っていた尾道もすっかり色をなくしてしまって、僕は機会をみては遠く離れた神戸の情報を拾い集めるようになりました。
『神様のいる街』で「僕は『神戸』という街の名前を口にするだけで、あるいは、その文字の並びを目にするだけで嬉しくなってしまう」と書いていますが、全く同じ。
で、翌年のたぶん5月のある日、神戸大学で行われた、ちょっと大きな会に参加することになりました。ついに神戸へ。
その日は快晴。
考えてみるとその日以来、何度も神戸には行きましたが、僕の印象ではいつも神戸は晴れていました。『神様のいる街』の帯に書かれていた言葉どおりに。
で、その素晴らしく晴れた天気を見て、彼女に会いたくなったんですね。”大きな会”はすっぽかそうと。電話したら運よく家にいて、三ノ宮の駅まで来てくれることになりました。で、一緒に行ったのがポートアイランド。『神様のいる街』に出てくる「無人電車」、ポートアイライナーに乗って…。
あれからもう30年。
昨日、久しぶりに神戸に行ってきました。神戸といっても、神戸の西の方の小さな海街、塩屋。この話はまた後日。