3日ほど前から平川克美さんの『21世紀の楕円幻想論』の再読を始めました。一回目もかなりゆっくり読みましたが、さらにゆっくりと言葉をかみしめるように読んでいます。
それにしても再読っていいですね。最近はめったにしない、というかできなくなりました。再読したい本はいっぱいあるのに。
ところで『21世紀の楕円幻想論』を読み返しながら、読んでいるときの感触が何かに似ているなと思って何だろうと考えて気がつきました。ああ、これは木山捷平の作品に似ているなと。
たとえば「まえがき」の冒頭の言葉。
一年前に、会社を一つ畳んだ。
そのために、会社が借り受けていた銀行やら政策金融公庫からの借金を一括返済せねばならず、家を売り、定期預金を解約し、借り受け金額を返済し、結局、全財産を失った。
同じころ、肺がんの宣告を受け、入院、手術で、右肺の三分の一を失った。
で、「まえがき」の最後はこんな言葉で締めくくられています。
やむを得ず、その日暮らし。
それもまた、味わい深い。
あるいは第1章の最初の方には、
借金ぐらい何とかなるわ、秋の空。
とか。
本当はもっと深刻になっていいはずなのに、この飄々とした感じはなんとも木山捷平的です。
『21世紀の楕円幻想論』の副題は「その日暮らしの哲学」ですが、考えてみたらその日暮らしって、木山さんの人生そのもの。そして木山さんの作品はまさに「その日暮らしの哲学」にあふれているんですね。お金がない話がほとんど。人から金を借りる話もいたるところに出てきます。
その一方で贈与の話も多いんですね。もらうことも多いですが(くれた相手もたいていは貧しい)、あげることもある。
あるいはこんな詩もあります。タイトルは「ふらふらと」。昭和2年、木山さんが姫路にいたときに書いた詩です。何度か紹介していますね。
たつた一つしかない猿股を
洗つてほしておいたら
ぬすまれた。
仕方はない!
なんにもはかないで
ふらふらと
職をさがしてあるいた。
十月ももう末の頃
秋風が股からひやひやと
ひとへものでは寒かつた。
たった一つしかない猿股がぬすまれたのに「仕方がない!」と。ぬすんだ相手にゆずってやったと納得している。相手が自分よりもさらに貧しいのをわかっているんでしょうね。
このとき木山さんは23歳。大人です。
そういえば僕は木山さんの作品に関しては何度か行っているように初期の、東京と岡山(笠岡)を行き来していた頃の作品が好きなんですね。つまり都会と田舎の両方があったからです。まさに楕円ですね。
さて、東京の方では平川さんの『21世紀の楕円幻想論』にからめて『21世紀の楕円幻想論』刊行記念選書フェアというのをされているみたいですが、もし岡山で選書フェアをされるのであればぜひ木山捷平の作品を並べてほしいなと思っています。どこかでやってくれないかな。