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Talks About Music, Books, Cinema ... and Niagara


by hinaseno

「自分の目的は数役を兼ねることではなく、いい仕事をしたい、の方であることを再確認した」


1979年の夏頃から1980年の春ぐらいまでに大瀧さんが書いた原稿の中で一番興味深いのは『音楽専科』という雑誌に1980年2月号から10月号にかけて連載されたものでした。これは『大滝詠一 Writing & Talking』には「ナイアガラ・タイム・マシーン・ミュージック」と題されて掲載されています。

その最初、1980年2月号に掲載された原稿のタイトルは「ナイアガラは何度でも死にます〈ナイアガラ・レーベル始末記〉」。ちなみにこれは雑誌に掲載されたもの。

「自分の目的は数役を兼ねることではなく、いい仕事をしたい、の方であることを再確認した」_a0285828_14460788.jpg


手書きのタイトルは「ナイアガラ」ではなく「ナイヤガラ」になってますね。おいおい! タイトルのそばには「詠ちゃん、言ってやって言ってやって‼︎」。詠ちゃんって、矢沢さんじゃないんだから。

されはさておき内容は大瀧さんの現状報告。イラストにも書かれているけれど「復活」の話ですね。雑誌の発行日は1980年2月1日。とすると大瀧さんが原稿を書いたのはぎりぎり1980年1月の初めでしょうか。

以前紹介した朝妻さんの話では『ロンバケ』の制作がスタートしたのは80年代に入って大瀧さんが朝妻さんの会社にやってきて「ちょっとまたアルバムを作りたいんだけど」と切り出し、J.D.サウザーの「ユー・アー・オンリー・ロンリー」をかけて「こういうのがやりたいんだ」と言ったときからスタートしたようになっていましたが、この「ナイアガラは何度でも死にます〈ナイアガラ・レーベル始末記〉」を読むと、すでにこれを書いたときには『ロング・バケイション』の制作に向けてかなり具体的にものごとが進んでいる段階(たとえば作詞家を松本隆さんにすることなど)であることがわかります。

一気にものごとが進んでいったのかもしれないけど、大瀧さんが朝妻さんの会社に行ってJ.D.サウザーの「ユー・アー・オンリー・ロンリー」をかけたのはもう少し前のことだったのかもしれません。


ところでこのエッセイで興味深いのはこの辺りに書かれていることでしょうか。


 休止の理由は? 第一に契約切れになったこともありましたが、4年間やってみての反省点をじっくり検討してみよう、というのが主な動機です。一番大きかった問題点はプロデューサーとアーティストとの両立のさせ方でした。この2つの職種には相矛盾する事柄がとても多く、同時期に1人の人間が両方こなすのは至難の技だとぼくには思えます。もちろん出来る人はいると思いますが、ぼくは自家中毒をおこしてしまった感じです。それからビジネスとサウンドのプロデューサー、そしてアーティストの3者がうまくかみ合うといい仕事ができるのですが、スーパーマンになる道は険しかった、というところでしょうか。負け惜しみですが、これは昨今流行の敗北宣言ではありません。自分の目的は数役を兼ねることではなく、いい仕事をしたい、の方であることを再確認した、といわせて下さい。
 という訳で原点であるアーティストに立ち帰る、これが休養の理由の一つでもあります。作詞家であり友人の松本隆はこういいます。「走りながら給油する」と。しかしこれも人それぞれタイプがあるのではないでしょうか。ある期間休んだ方がいいのが出来るぞ、という暗示にかかりやすいタイプもあります。または沢山作った方がその中で特によいものが出来るもあるようです。筒美京平さんなどはそういうタイプなのではないでしょうか? ぼくは前者のタイプで、ひたすら自己暗示にせいをだしている今日この頃ではあります。

ポイントはプロデューサーをビジネス・プロデューサーのサウンド・プロデューサーに分けていること。プロデューサーとアーティストの両立をやめてアーティストに立ち帰ると言っていますが、サウンド面のプロデューサーは続けてビジネス・プロデューサーを人に任せるということですね。で、そのビジネス・プロデューサーを任せたのが朝妻一郎さんでした。


何度も書いていますが、その朝妻さんのところに「ちょっとまたアルバムを作りたい」と言いに行った時に持っていったのがJ.D.サウザーの「ユー・アー・オンリー・ロンリー」。「こういうのがやりたいんだ」と大瀧さんが言ったら朝妻さんは「最高。これいいよ!」と答えたんですね。

それは1979年の暮れか1980年の初頭のこと。いずれにしても「カナリア諸島にて」が生まれて半年近く経っていました。


さて、『音楽専科』という雑誌に連載を始めた次の号(1980年3月号)に大瀧さんが寄稿したのはまさにそのJ.D.サウザーを取り上げた文章でした。


by hinaseno | 2017-09-26 14:47 | ナイアガラ | Comments(0)