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Talks About Music, Books, Cinema ... and Niagara


by hinaseno
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「Beats There A Heart So True」#8


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Rich Podolsky 著『Don Kirshner: The Man with the Golden Ear』より


少年の頃、ジャック・ケラーは父方の祖父を知らなかった。ジャックの父、マル・ケラーはジャックが14歳の時に亡くなった。孫が生まれるのを見るまで長生きできないというのがケラー家の男に4世代も続いていた。

彼の家系に引き継がれている心臓の問題をよくわかっていたので、ケラーは自分自身を絶えず監視していた。適切なダイエットと運動、それから医者の用心深い目を通して、ケラーは長生きして、いつか自分の孫と遊ぶことを願っていた。彼と彼の妻のロビは4人の子供をもうけたが、そのうちの最初の2人は養子だった。

1998年、ケラーは胸に締め付けられるような痛みを覚えた。何が起こっているのかわかったので、5分もかからないうちに自分で車を運転して病院に向かった。3つのバイパスが施されて、文字通り人生に新たなリースを提供することになった。数年後、3人の孫のうちの一人目が生まれた。

2004年3月に、ケラーが演奏者として参加したオールディーズのクルーズのおかげで、彼はトニー・オーランド、トニ・ワイン、そしてロン・ダンテとの素晴らしい再会を果たした。

クルーズ船での温かな再会はケラー家をナッシュヴィルから車で行ける距離の中で行われるオーランドのショーへ連れ出すことになった。2005年2月10日に彼らは車に荷物を詰め込んで4時間も運転してエヴァンスヴィルやインディアナに行ってトニー・オーランドとトニ・ワインのショーを見た。このときオーランドはジャックを聴衆に紹介するだけでなく彼にステージに上がって何か演奏するように頼んだ。彼が演奏に選んだのはただ1曲、『奥さまは魔女(Bewitched)』だった。観衆から盛大な拍手喝さいをあびた。

そのショーの後、ケラーは彼が持参していたあるものでオーランドを驚かせた。それは何年も前の記憶を呼び起こすものだった。

「僕が最初にジャックに会ってから44年も経って、僕が16歳だった時に彼に書いた手紙を彼は自分のスーツケースから取り出したんだ」とオーランドは言った。「手紙は汚れもなくまっさらだった。しわひとつなかった。彼が完璧な形でこの手紙を保管していた場所にはさらに僕を驚かせるものが入っていた。それは僕の最初のナイトクラブから僕が歌ったプログラムだった。彼が僕にその手紙を見せてくれた時、とりわけ強く印象に残っているのは、彼のことをいかに大切に思っているかということと、彼が44年間も当時のものを汚れもなくまっさら形で保管していたということがだった。それから彼は1枚の写真をひっぱり出して僕に尋ねたんだ。『これは君のおじさんのジョニーじゃないのかい?』って。僕は22年間もおじのジョニーに会ってはいなかった。しかもその写真はまるでポラロイドから出てきたばかりのように色あせていなかった。

2005年のその週、ケラーはナッシュビルに戻った後微熱を出して、それはなかなか下がらないように思われた。その週には3日間のセッションをプロデュースすることになっていたので、彼はAdvilという薬を使ってなんとか熱を抑えようとした。でも、薬を飲むのをやめるとすぐに熱が出た。

2月18日までに、ほとんど恢復の糸口をもたらすことのない何度かの血液検査のあと、ケラーは「僕の血液の血小板は低いんだ。私が知っているのはそれだけだ。癌だとは思わない」と言った。

「僕は彼のことを心配している」とアーティー・カプランは言った。「その音が好きではない」と。

3月2日に、ケラーはさらなる検査を受けに行った。このとき彼は入院させられた。3月7日の月曜日までに彼は悪い知らせを受け取り、それを披露してくれた。彼はNK T細胞白血病と診断されていた。”NK”とは”ナチュラル・キラー”を表している。この状態の白血病と診断された平均的な患者はたった55日間しか生きられなかった。でもジャックはよくなると確信していた。

「医師たちは熱を抑えて僕が家に戻ることができると自信を持っているよ」と彼は僕に話してくれた。「もしそうなったら、いろんなこと[彼の仕事]を順番にこなすよ。僕は何年も自分の心臓のことを心配していたのでそのようなことが起きただけだよ」と。

ケラーはできるだけ聞き手にわかりやすく教えてくれた。彼はそうするほどに強かった。その日彼の少年時代からの友人であるアーティー・カプランとの話を終えた時、彼はこう締めくくった。「愛してるよ」と。カプランはナッシュヴィルへ飛行機で飛んで行く計画を立てた。

次の2週間はジャック・ケラーにとっては良好だった。熱がひいて彼は本当に自宅に戻って物事を順番にこなすことができた。その間、彼は昔の仲間みんなから電話を受け始めた。ジェリー・ゴフィンが最初に電話をかけ、それからジェリー・リーバー。ドン・カーシュナーも何度も彼に電話をかけた。ケラーの子供のころからの友人であるブルックス・アーサーも電話してきて昔の喧嘩の収拾をした。トニ・ワインは彼に会うためにナッシュビルに飛んできて1週間滞在した。


この本を執筆する過程で、私たちが行なった数多くの会話を通してジャックと私は親密な間柄になることができた。彼は私にナッシュビルに来て、本のために彼が持っている写真や記念のものなどを集めるようにすすめてくれた。私は彼の健康のことを心配していたので、言われた通りにきちんと飛行機のチケットを予約した。


時はあっという間に過ぎ去り、友人たちもそれを知っていた。「だれが電話してくれたか君は絶対にあてることはできないはずさ。信じられなかったよ」とケラーが私に話してくれたのは3月19日のことだった。「僕が電話に出たら、こんなことを言う声が聞こえたんだ。『ジャック、キャロル・キングよ』。僕たちは1963年に戻ったみたいに話をしたよ。素晴らしいことだった。気になっていたことがようやく解決したんだ」

その電話の前、ケラーとキャロル・キングはほぼ30年間連絡を取り合っていなかった。2002年にキングがセミナーのためにナッシュヴィルにやってきたので、ジャックは彼女に会うためにそのセミナーの終わり頃に立ち寄った。彼は二人でコーヒーを一杯飲むことができないかと頼んだが、彼女のマネージャーが彼女を振り払うように行かせたので、二人は結局話をすることができなかった。ケラーは昔の友達を失ってしまったのではと気にしていた。でも、彼女の電話がすべてを変えた。「今、私たちについてはすべてがうまくいっているとわかったよ」と彼は言った。

「それから君に教えるけど、他に誰が電話してくれたと思う? バリー・マンとシンシア・ワイルだよ。キャロルがきっと彼らをまきこんだにちがいないけどね。それからジェリー・リーバーが電話してきたんだ。彼は僕のことを偉大な作曲家だと言ってくれたんだ。想像できる? あの偉大なジェリー・リーバーがそんなことを話してくれたなんて」

3月20日に、そんな人たちすべてをまとめあげていた人物のドン・カーシュナーが電話でジャックと話をした。「僕は彼にジェリー・リーバーが言ってくれたことを話したよ」ジャックはそのときのことを思い出す。「ねえ、ドニー(ドン・カーシュナー)が僕に何と言ったと思う? 彼はこう言ったんだよ。『私は君が偉大な作曲家であるということを君に話した最初の人間だよ』と。君は彼を大好きになるよ」と。

死が差し迫っている人間として、彼はきっとみんなにさよならを告げることを楽しんでいた。それから熱が再びぶり返して彼は病院に戻った。


2005年3月31日木曜日の夜、午後11時30分、ケラーは病院のベッドから私に電話をかけてきた。彼がそんなに遅く電話をかけるなんて以前にはないことだった。


「たぶん、僕たちが予定していたときよりも少し早くここに来たほうがいいよ」と彼は言った。「僕にはそんなに時間は残されていないと思う」と。翌朝、2005年4月1日金曜日の8時30分、ベッドサイドに彼の家族全員がいる中でジャック・ケラーは「少し休むよ」と言って、それを最後に目を閉じた。白血病と診断されてからたった27日後に彼は帰らぬ人となった。

皮肉にも彼の子供の頃からの友人で、ケラーがはじめての曲をいっしょに書いたポール・カウフマンも34日前に癌で亡くなっていた。一人とも行年68歳だった。

(つづく)


by hinaseno | 2017-02-19 13:38 | 音楽 | Comments(0)