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by hinaseno
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「きっと、同じ春が、すべての者に同じよろこびを与えることはないのだろう」


ちょうど20年前の1996年の今日、8月8日は星野道夫が亡くなった日。あれから20年も経ってしまったんですね。
星野道夫という人を知ってからまだ数ヶ月しか経っていなかった頃、彼の書いていた本をすべて読み(最初に買ったのは『旅をする木』)、いくつか出ていた彼の写真集を毎日毎日眺めていた、まさにそんな日に彼が亡くなったことを知ったので、その日も、それから何日も彼の死を受けとめられない日々を過ごしていました。彼のことを知っている人はまわりに誰もいなかったので、彼の話をしても「ふ〜ん」ということにしかならず、さらにさびしい思いが増したりもしました。
でも、僕はそれから今に至るまで、ことあるごとに彼のことを語り続けてきました。たぶんあちこちに小さな種はまいていたんだろうと思います。

先日、久しぶりに没後10年のときに放送された番組を見返しました。星野道夫の撮った写真とともに、彼の言葉がいくつも紹介されていました。どれも素晴らしい言葉ばかり。よく知った言葉もあれば、初めて聞くような言葉も。
その中でいちばん心に響いた言葉を。

 きびしい冬の中に、ある者は美しさを見る。暗さではなく、光を見ようとする。キーンと張りつめた厳寒の雪の世界、月光に照らしだされた夜、天空を舞うオーロラ……そして何よりも、苛酷な季節が内包する、かすかな春への気配である。それは希望といってもよいだろう。だからこそ、人はまた冬を越してしまうのかもしれない。
 きっと、同じ春が、すべての者に同じよろこびを与えることはないのだろう。なぜなら、よろこびの大きさとは、それぞれが越した冬にかかっているからだ。冬をしっかり越さないかぎり、春をしっかり感じることはできないからだ。それは、幸福と不幸のあり方にどこか似ている。

番組では何という本の何というエッセイに書かれた言葉なのかは紹介されていませんでしたが、調べたら『長い旅の途上』に収められた「アラスカ山脈の冬 自然の猛威」というエッセイの中の言葉でした(番組では少し省略されていました)。

ということで久しぶりに『長い旅の途上』をパラパラとめくっていたら「クマの母子」という話が目に入りました。これも大好きな話。星野のクマに対する愛にあふれた作品。

ある日、クマの研究家の友人から、冬ごもりしているクマの調査に行くからいっしょに行こうと誘われます。場所は町のすぐ郊外。クマがいそうな場所の見つけて二人でゆっくりとスコップで雪を掘ります。突然、ボオッと大きな穴が開き、クマを見つけた友人が咄嗟に麻酔の注射を打つ。そのとき、母グマが前足を振りながら友人を威嚇したようです。それを聞いた星野。

びっくりしただろう。クマが、である。半年近くも静かに眠っていたのに、突然光が差し込み、人間の顔が近づいてきたのだから。

で、5分ほど過ぎて麻酔が効いたことを確かめてから星野も巣穴を覗き込む。そこには昨年生まれたばかりの二頭の子グマが母グマに抱かれてすやすやと眠っている。

 私はいとおしくてならなかった。この小さな空間で、じっとうずくまりながら春を待つクマが、である。そこには、原野を歩く夏の姿より、もっと強い生命(いのち)のたたずまいがあった。
(中略) 
 早春のある日、誰かがこの林をクロスカントリースキーで駆け抜けてゆくだろう。その雪面の下で、クマの親子がじっと春を待っているのも知らずに……。私は今、その二つのシーンを、ひとつの風景として想像することができる。


ところで『長い旅の途上』の表紙の絵は川上澄生。なんとなく山高登さんの版画に近いものがあるように思ったら、山高さんは川上澄生の影響を受けていたようです。
「きっと、同じ春が、すべての者に同じよろこびを与えることはないのだろう」_a0285828_12574437.jpg

by hinaseno | 2016-08-08 12:57 | 文学 | Comments(0)