永瀬清子の「日輪と山」の話に。この作品は現在入手することができる『短章集 蝶のめいてい/流れる髪』(思潮社)にも収録されています。『短章集』は吉本隆明が「戦後の仕事で印象深いものの一つ」として紹介していたので手に取りました。短いエッセイや散文詩のような作品を集めたものですが、いい作品が多く、個人的にはいくつか読んだ詩集よりも気に入っています。
ということで改めて「日輪と山」を引用します。今回は全文を。
これを読んだときに気になったのは「東の窓」に「熊山」が見えたということ。南ではなく東?
ここで地図を。
青で囲んでいるのが熊山の頂上。右下には「大滝山福生寺」がありますね。ちなみに大滝山福生寺があるのは備前市。備前焼で有名な伊部のすぐ近くです。
永瀬清子の生家は赤で囲んだ「松木」という地名が書かれている「木」の字のあたり。ここから熊山は南東、正確にいえば南南東の方角ということになります。「東の窓」から見るよりも南の窓の方が見やすそうな気がします。
さて、これは永瀬清子の生家のあるあたりを拡大した地図。上が北の方角です。
赤丸で囲んだのが永瀬清子の生家や倉などのある建物。右下の小さな四角は井戸のある建物。
家の北側には道路が東西に走っています。ただし正確にいえばやや右下に傾いた形で。この道路沿いに玄関があるのですが、道に沿ってというよりもさらにもう少し右下に傾いた形で家が建てられていることが解ります。ということで、永瀬さんの家の「東の窓」は実際には南東方向を向いているんですね。でも、玄関のある方向を北とするならば、その窓があるのは東ということになります。
この写真の左の方に見えるのが生家の母屋の「東の窓」。
この写真を撮った日は生家に入ることができなかったので窓からの風景を確認できませんでしたが、この窓の近くから井戸のある方向を撮ったのがこの写真。
木がちょっと邪魔をしていますが熊山をほぼ正面に見ることができます。
ところでこの井戸のある建物には「ナーシッサス」と題された詩(散文詩)が掲げられていました。この作品も『短章集』に収録されています。
「ナーシッサス」というのはナルシストという言葉のもとになっているナルシス(ナルキッソス)のことですね。
この井戸から下に降りる道がありました。昔の写真を見たらそこに門があったようです。ここの道を通って永瀬さんも田んぼに行ってたんでしょうね。
これが永瀬さんの生家の「南」側の風景。実際には南西方向を向いています。
で、これは「南」側の田んぼ沿いの道から見た熊山。建物の感覚でいえば「東」の方向。
ちなみに生家の2階の「南」側の窓から撮ったのがこの写真。
目の前に見えるのは地図で確認すると道々山と呼ばれる山のようです。永瀬さんの作品にしばしば登場する新田山のことかもしれません。
生家の建物の角度のずれは別にして、永瀬さんは熊山を「東」の方角と認識していたのではないかと思える作品が『短章集』にありました。「夜の虹」という作品。太陽ではなく月が熊山から昇ってくる話。こんな言葉が出てきます。
上の地図を見れば解りますが、熊山橋から熊山は生家よりもさらに「南」の方位。でも、永瀬さんは「東の方」に熊山を見ています。もしかしたら永瀬さんは熊山の東側の丹下山や論山もふくめてひとかたまりに熊山と考えていたのかもしれませんが、きっと日々の生活感覚で熊山は東にあると理解していたんだろうと思います。
最後に「窓」好きなので「窓」に関する別の詩を。
『短章集』には「窓から外をみている女は」という作品が収められています。とても印象的な詩なので引用しておきます。
ということで改めて「日輪と山」を引用します。今回は全文を。
日輪と山
宮沢賢治の描いた絵に「日輪と山」と云う水彩画があって、高くそびえた山が真中にあり、その頂上よりやや左よりの肩に日輪が懸かっている。がその日輪は山の手前にかいてある。つまり紅い太陽から発した光線はオレンジ色の濃淡の二重か三重の覆輪の同心円であらわされそのまんまるな太陽のため山の頂の一部は欠けてみえなくなっているのだ。
はじめてその絵をみた時、私はたしかにある種のよほど幼稚な童画のようだと思い、そこが却って面白いと思い、一方、又へんにも思ったが、山の手前に太陽があるのは、宮沢賢治の主観的な空想か誇張にちがいないと思った。
しかし私は実際どのように見えるものか、宮沢賢治がどの程度に主観をまじえて描いたのかを知ろうと思い、ある朝太陽が熊山をはなれるのを待って東の窓に立っていた。
熊山をみつめてじっと待っていると、次第に光は東の空にみちて来て、ついに太陽はその肩から第一箭をはなった。所が不思議不思議、その時強い光線はかがやきわたり、目もまばゆく射して、山の尾根の線はかき消され、すっかり見えなくなってしまったではないか。
それは賢治の絵と全く一致しており、それによってまさに賢治の絵がリアリステックに正しい事を知った。それは普通に日本画の日の出の景色として描かれたり、一般に幼稚園の子どもが描いたりするような、山の肩から半円の紅いお盆として登ってくる図柄とは全然別なものであった。
毎朝のように東の窓には熊山はあり、その肩から太陽は必ず年百年中出ていたのに、この事実を、私は正しくリアルに自分の眼でみたことがなかったのを、この時はじめて知ったのであった――。
これを読んだときに気になったのは「東の窓」に「熊山」が見えたということ。南ではなく東?
ここで地図を。
青で囲んでいるのが熊山の頂上。右下には「大滝山福生寺」がありますね。ちなみに大滝山福生寺があるのは備前市。備前焼で有名な伊部のすぐ近くです。
永瀬清子の生家は赤で囲んだ「松木」という地名が書かれている「木」の字のあたり。ここから熊山は南東、正確にいえば南南東の方角ということになります。「東の窓」から見るよりも南の窓の方が見やすそうな気がします。
さて、これは永瀬清子の生家のあるあたりを拡大した地図。上が北の方角です。
赤丸で囲んだのが永瀬清子の生家や倉などのある建物。右下の小さな四角は井戸のある建物。
家の北側には道路が東西に走っています。ただし正確にいえばやや右下に傾いた形で。この道路沿いに玄関があるのですが、道に沿ってというよりもさらにもう少し右下に傾いた形で家が建てられていることが解ります。ということで、永瀬さんの家の「東の窓」は実際には南東方向を向いているんですね。でも、玄関のある方向を北とするならば、その窓があるのは東ということになります。
この写真の左の方に見えるのが生家の母屋の「東の窓」。
この写真を撮った日は生家に入ることができなかったので窓からの風景を確認できませんでしたが、この窓の近くから井戸のある方向を撮ったのがこの写真。
木がちょっと邪魔をしていますが熊山をほぼ正面に見ることができます。
ところでこの井戸のある建物には「ナーシッサス」と題された詩(散文詩)が掲げられていました。この作品も『短章集』に収録されています。
「ナーシッサス」というのはナルシストという言葉のもとになっているナルシス(ナルキッソス)のことですね。
ナーシッサス
早春の夕日がさしてつるべ井戸の水を汲んでいる私の影が、井戸の小屋の板壁にうつっている。ああなんと力をこめて汲んでいることぞ。目も口もなくてそれでなお可憐な感じがこみあげる。自分で汲みながらその影をみつめている。
それは雑誌が来て、まるではじめて読むように息をつめて自分の書いたものを読む時とおんなじだ。
影にみとれるナーシッサスの私。驕慢と人は思うだろう。ほんとははかなくいとおしいわざである。そのいとしさは私にしかわからない。
二度目に汲みに来た時はもう夕日はかくれて影はうつらなかった。
この井戸から下に降りる道がありました。昔の写真を見たらそこに門があったようです。ここの道を通って永瀬さんも田んぼに行ってたんでしょうね。
これが永瀬さんの生家の「南」側の風景。実際には南西方向を向いています。
で、これは「南」側の田んぼ沿いの道から見た熊山。建物の感覚でいえば「東」の方向。
ちなみに生家の2階の「南」側の窓から撮ったのがこの写真。
目の前に見えるのは地図で確認すると道々山と呼ばれる山のようです。永瀬さんの作品にしばしば登場する新田山のことかもしれません。
生家の建物の角度のずれは別にして、永瀬さんは熊山を「東」の方角と認識していたのではないかと思える作品が『短章集』にありました。「夜の虹」という作品。太陽ではなく月が熊山から昇ってくる話。こんな言葉が出てきます。
熊山駅を降りた時、雨が降りだして右手から横なぐりに叩きつける。駅を出て人っ子一人いない長い熊山橋を渡りかけた。橋は土堤の傾斜をのぼった所に高く架かっている。
その高い空間を一人歩いている時、ふと右頬の空気に異常を感じて、こうもりの蔭にすくめていた顔を東の方にふりかえらすと、美しい月が今静かに熊山から昇ってくるところ。
深夜のふかいふかい空の深淵から、それはしずしずとまぶしいくらい硬質の光でせり上がってくる。
そして全部が宙空に浮んだ時、おお、冬の空の時雨を透して行手の小瀬木の山々の上に大きな途方もないあざやかな虹をつくっているではないか。
上の地図を見れば解りますが、熊山橋から熊山は生家よりもさらに「南」の方位。でも、永瀬さんは「東の方」に熊山を見ています。もしかしたら永瀬さんは熊山の東側の丹下山や論山もふくめてひとかたまりに熊山と考えていたのかもしれませんが、きっと日々の生活感覚で熊山は東にあると理解していたんだろうと思います。
最後に「窓」好きなので「窓」に関する別の詩を。
『短章集』には「窓から外をみている女は」という作品が収められています。とても印象的な詩なので引用しておきます。
窓から外をみている女は
窓から外をみている女は、その窓をぬけ出なくてはならない。日のあたる
方へと、自由の方へと。
そして又その部屋へかえらなければならない。なぜなら女は波だから、
潮だから。人間の作っている窓はそのたびに消えなければならない。