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by hinaseno
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永瀬清子に関するいろんなこと


『詩人永瀬清子作品集 ――熊山橋を渡る――』の巻末に収められた年譜を見たらいくつも興味深いことが書かれていたので紹介しておきます。
まず、あっと思ったのは永瀬清子は誕生日と亡くなった日が同じということ。生まれたのは1906年2月17日、亡くなったのが1995年2月17日。
誕生日と亡くなった日が同じといえば、すぐに浮ぶのが小津安二郎。小津はちょうど60歳の誕生日を迎えた日に亡くなっていますが、永瀬清子は89歳の誕生日の日に亡くなっています。

永瀬清子が生まれたのは豊田村松木。豊田村はのちに熊山町に、現在は赤磐市になっています。
二歳のときに父親の勤務先の金沢に行っているので、昨日、熊山が永瀬清子の育った町と書いたのは誤りでした。高等女学校を卒業するまで金沢にいて、その後父親の転任で名古屋に移転。愛知県の高等女学校高等科に入学してそのころから詩作の活動を始めたようです。
1927(昭和2)年に結婚して大阪に住むようになります。4年後に夫の転勤で東京へ移住。
そして1945(昭和20)年に、戦況が激しくなって岡山に戻ってきます。ただし住んだのは母親の家のあった岡山市。

興味深いのはこのときにあの藤原審爾に会っていること。年譜には「岡山での最初の友」と書かれています。藤原審爾は木山捷平と深いつながりをもっていたことはこのブログでもいろいろと書いてきました。木山さんが昭和19年に満州に行くことになったときに岡山駅のホームで酒を手渡したのも藤原審爾。

藤原審爾は岡山市内に住んで、岡山につながりのある文学仲間を集めていくつか同人誌を発行していました。最初に発行したのが『曙』。木山さんはこれに「ねんねこ」「魔の踏切」などの作品を寄稿しています。
ところが戦災、敗戦で『曙』は廃刊、新たに『文学祭』と改題して発行します。永瀬清子はこの『文学祭』の同人になっています。ちなみに藤原審爾は『文学祭』に寄稿した作品が認められて、そのあと『秋津温泉』を書くことになったんですね。

その『文学祭』も5号で休刊。今度は『作品』と改題します。
この『作品』に満州から帰国した木山さんがいくつかの作品を寄稿します。ただ、永瀬清子はこの『作品』には寄稿していないようなので、木山さんと永瀬清子はすれ違った形になっていますね。

さて、岡山に戻って岡山市内に住むようになった永瀬清子ですが、6月29日の空襲で岡山市内が焼け野原となったために、生まれた豊田村松木に戻ります。永瀬清子が39歳のとき。
それから20年間、1965(昭和40)年に岡山市の家に移るまで熊山の地で農業をしながら暮らします。

熊山で暮らしていた時期には農業をするかたわら詩作を続けていますが、その他にも様々な活動に参加しています。
その中で最も驚いたのは1958年に月の輪古墳の発掘に関わっていること。発掘の中心にいたのは日本の古墳研究の第一人者である近藤義郎先生。近藤先生のことはこの日のブログで少し書いていますね。月の輪古墳のことももちろん授業で聴いていました。
今、ちょっと調べてみたら近藤先生の著書の『月の輪古墳』に永瀬清子のことが書かれていますね。永瀬清子は「月の輪音頭」という曲の詞まで書いているようです。

ところで「月の輪」というとツキノワグマのことを思い浮かべてしまいますが、この月の輪古墳の月の輪は、古墳の発見された地域を月の輪地域と呼ぶことからきているようです。
永瀬清子はきっと熊山から和気に山陽線で行き、そこからあの片上鉄道に乗って古墳のある場所まで通っていたはず。

ということで永瀬清子が岡山の人だということもありますが、以前に書いていたいろんな人、いろんなことがらとつながっておもしろいですね。でも、どうやら木山捷平とはつながっていなかったようです。

それにしても「月の輪音頭」ってどんな歌詞で、どんな曲なんだろう。「音頭」好きとしては気になるところです。また調べてみます。
by hinaseno | 2016-08-01 12:51 | 文学 | Comments(0)