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by hinaseno

山陽線から見える風景、そして木山捷平の「赤い酸漿」のこと(最終回)


すっかり「赤い酸漿」から話がそれてしまいました。
木山さんが姫路の荒川小学校に勤めていた昭和2年にはいろんな形で何度も利用したはずの英賀保駅でしたが、残念ながら「赤い酸漿」では英賀保駅に触れられることもなく舞台は上郡からいきなり姫路駅に。
姫路駅に到着してバッグの持主の女性の住所である「姫路市××町十五番地」の家があるはずの場所に行くことになるかと思いきや、その期待はあっさりと裏切られることになりました。小説的にも、多少エロティックな期待を抱いていた人の気持ちも同時に裏切るようなことになる結末。結局、姫路市内で出て来た場所は姫路駅の待合室だけ。

とまあ、作品的には期待を裏切られることになりましたが、この作品をきっかけにして静太の手紙を読みかえしているうちにいろんな発見がありました。
興味深かったのは夏休みの帰省と『野人』の発行に関すること、そしてやはり「この土地でたつた一人の友」大西重利のこと。

『野人』は第一輯を昭和2年7月1日に発行しました。印刷は6月20日。木山さんとしてはこれを毎月発行するつもりでいました。ただし第一輯のあとがきでも書いているように「経済のゆるすかぎり」。

第二輯を発行したのは8月1日。印刷は7月20日。これは予定通り。
木山さんは8月5日に帰省。おそらく印刷が上がって何人かの人たちへの発送作業を終えた後に帰省したんですね。

問題だったのは第三輯。
これも予定通り8月20日に印刷されて9月1日に発行されています。でも、8月20日には木山さんはまだ帰省中。姫路にはいません。
木山さんとしてはできれば第三輯を印刷所に届ける8月20日までには姫路に戻りたかったはず。ところがどうやらそれができなくなったようです。

父静太の日記を読むと8月22日にこんなことが書かれていました。

讃岐の琴平参詣。捷平が家に居る時、この間にと思ひつきであつた。余は二十九年ぶり、妻は初回。これまでは養父母ありて、妻は家を空けるられず、余も一夜外泊もせざること十数年になる程だから夫婦連れの旅行などは思ひもよらなかつた。今年は末の子が小学二年となるから、姉さん、兄さんが家に居るから大丈夫とつたからだ。

ということで、木山さんが姫路に戻ろうかなと考えていた頃に突然、静太は奥さんと琴平(金比羅宮)に行きたいと言い出したようです。当日突然行くことを決めたわけでもないはずなので、おそらくは数日前に決めて木山さんに告げたはず。

困った木山さん。もちろん頼る人はひとりしかいません。
大西重利ですね。彼に急遽手紙を書いて事情を説明して、とりあえず第三輯の原稿を印刷所に持って行ってもらうように頼んだはず。手紙には第三輯に収録してもらう詩を書いた原稿を添えて。

第一輯から第五輯までの『野人』の中で、この第三輯だけがあとがきが書かれていなくて不思議に思っていたのですが、その理由はこのあたりの事情によるものだったようです。
たぶんこのときには印刷代も大西重利に立て替えてもらったはず。とにかく大西重利には世話になりっぱなしでした。

最後にもうひとつ発見した興味深いこと。
静太が姫路にやって来た後、10月27日に木山さんに書いた手紙の冒頭の言葉。

前略、二十七日夜のお手紙、今日石井が配達してくれた。先日の梨果友人へ分配されたそうだが、あれは虫入り果であつたから、虫入りは外面から窺ひ知れぬ大きなホラがあるものなれば、貰つたもので顔をしかめたかも知れぬ。

この梨はおそらく静太が姫路に来るときに、足を痛めながら笠岡駅で買ったものですね。木山さんはこの梨を友人にあげ、そのことを父親への手紙に書いたようです。
この友人が大西重利だったことはいうまでもありません。
by hinaseno | 2016-03-25 12:00 | 木山捷平 | Comments(0)