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Talks About Music, Books, Cinema ... and Niagara


by hinaseno

「島田清次郎を憶ふ」


ウィキペディアで、村井武生の出身地である石川県美川町(現在は白山市)を調べてみると、出身有名人の名前が4人。でも、村井武生の名前はありませんでした。
1番目に載っているのが島田清次郎。彼はある時期、まさに時代の寵児としてもてはらされたようです。ただ、ある事件によってその後の人生は一転。結局31歳で亡くなることになります。

ちなみに2番目に載っていたのはミュージシャンの浅川マキ。彼女のレコードやCDはもっていませんが、パソコンの中にはこの「夜が明けたら」という曲が1曲収められています。



この曲、昔、小西康陽さんの『これからの人生。』でかかって、ちょっと惹かれるものがあったので入れておいたんですね。独特の世界をもっているミュージシャンであることは確かです。浅川マキさんは同郷の島田清次郎や村井武生のことは知っていたんでしょうか。

さて、村井武生はやはり同郷の島田清次郎のことを書いた文章を残していました。「島田清次郎を憶ふ」と題されたエッセイ。
エッセイでは「彼」と表現したまま話が進み、最後の方でようやくこんな言葉が出てきます。
私はこの不幸な彼を、同郷の友人島田清次郎のことを、暗く憶ひ記してみたいと思ふ。

島田清次郎は村井武生よりも4歳年上。でも、友人だったんですね。
実際には彼の家とはもっとつながりがあったようです。島田清次郎の父は村井武生の家の船(漁師船)の船長をしていたとのこと。ところが、ある嵐の日に海の犠牲になったと。
残念ながらこのエッセイがいつ、何という雑誌に掲載されたのかは不明。ただ、1924(大正13)年に精神病院に入れられたことが書かれていて、1930(昭和5)年に亡くなったことには触れられていないので、内容から察するに精神病院に入れられたあとの大正14年から昭和2年あたりに書かれたのではないかと思います。

僕が島田清次郎の名前を知ったのは、木山さんが大西重利の手を借りて姫路で発行していた『野人』の最後の号である第五輯(昭和2年12月25日印刷、昭和3年1月1日発行)でした。後に「大西重利へ」の言葉が添えられることになる「秋」が収録されたものですね。その「消息」と題されたあとがきの最後に彼の名前が出てきたんですね。
島田清次郎なんか今年あたり復活してくれると文壇も覇気をもたらすかも知れない。

友人でもなければ、詩人でもない島田清次郎という作家の名前がなんでこんなところに唐突に出てくるんだろうとずっと考えていましたが、どうやらその答えは村井武生とのつながりにあったようです。
大正14年に木山さんが上京したときに同じ雑司ヶ谷に住んでいた二人は何度も会って交誼を深めたはず。そして木山さんが東京を離れても、村井武生は自分の作品が載った雑誌を木山さんに送り続けただろうと思います。
木山さんが姫路で発行した『野人』を村井武生に送ったのはいうまでもありません。

『野人』の第五輯の最後に添えられたあの言葉は、その前に村井武生から送られて来たはずの雑誌に載っていた「島田清次郎を憶ふ」というエッセイを読んだことの木山さんなりのメッセージだったんですね。
by hinaseno | 2016-03-04 12:57 | 木山捷平 | Comments(0)