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by hinaseno
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上林暁の「夏暦」のこと(その3)


失われた「夏暦」という作品に対する愛惜が深まる中、上林さんは、あるエピソードを思い出します。

 その時私はカアライルのことを思ひ出した。カアライルは、苦心の末に成つた「佛蘭西革命」の草稿が、女中によつて過つて暖炉にくべられたのを知ると、彼は怒りもせず、再び勇を鼓して、新しい草稿にとりかかつたといふのである。私はその逸話を思ひ出すと、私も爰でもう一度奮ひ立つて新しく稿を起し、「夏暦」を再現して見ようと思ふ心が萌して来た。しかし、小さくとも芸術作品と歴史的叙述とでは趣きを異にするし、書かれてゐた生活体験ももう数年前のことに属して遠のき、作品の気分も既に失はれてゐることではあるし、字と行を逐ふやうにして元通りの作品が構成出来るわけのものではない。早い話が、私は作中に出て来る自分の子供達にどんな替へ名を使つてあつたか、それさへ覚えてゐない始末である。のみならず、現在の私は、今更原形と同じ作品を組立てることに、少しも興味を感じない。そこで思ひ立つたのが、やや異る形式の下に、「夏暦」の生活気分を再現することであつた。即ち、私は、このやうな前書様のやうなものを書き加え、「夏暦」の概略を辿ることによつて、「夏暦」の再現を計らうといふのである。さうすれば、曲のなかつた「夏暦」に一つの技巧が生ずるであらうし、原作では思ひも寄らなかつた一種の浪漫性も加はるであらう。さう思ふと、勃然として、新しい芸術的感興が湧くのを私は覚えた。
 「夏暦」は、四年前の一夏、二十日余りの間、私が一人で自炊生活をして暮した間の記録であつた。捨ててしまふには惜しい作品であつたし、また懐しい生活でもあつた。私は壊れた彫像を継ぎ合わすやうに、失われた原稿から、あすこを取りここを取りして、出来るだけ順序を逐ひながら、綴り合すことにしよう。そんな作品もあつていいだらう。

というわけで上林さんは新しい「夏暦」を書き始めます。
そして、そのあとがき。

 これで漸く、前作「夏暦」の再現を見たわけである。奮起した甲斐はあつたと、私は喜んでゐる。七十六枚。前作を超過すること十五枚であるから、梗概どころではなくなつた。書いてゐるうちに、前作の面影が詳に思ひ浮んだだけではない、新しい想念が流れ出るのを禁じ得なかつた。だから、前作にない情景が書き加えられてゐるところもあれば、前作にある情景で省略せられてゐる個處もある。例へば、子供が鳥笛を吹く終末は、前作にはないものであつたし、鮫島鉱泉へ立つ間際に、雑誌社の友人が訪れて来て、食卓を共にして、残り飯を平げてから出かけるところなどは、前作にあつて、この作にないものである。

前作は見ていないからわかりませんが、僕はおそらく書き直した作品の方がよかっただろうと考えています。上林さんもきっとそう思ったはず。

そういえば、先日、村上春樹の新刊『職業としての小説家』を読んだら、とても面白いエピソードが書かれていました。それは1980年代の末頃の出来事。
そのとき村上さんは外国で『ダンス・ダンス・ダンス』という小説を書いていました。当時使っていたのはワード・プロセッサー。ワープロを使って小説を書くのはこのときが初めてだったようです。書いたものはもちろんフロッピー・ディスクに入れていたんですね。
ところが最後になって書き上げたフロッピー・ディスクを開いて確認したら、章が丸ごとひとつ消えているのに気づきました。かなり長い章で、しかも村上さんなりに「我ながらうまく書けた」と思っていただけにショックも大きく、やはり上林さん同様、茫然としてしまったようです。でも、書き上げた文章を思い出しながら、どうにかその章を復活させたそうです。

面白いのはその後のこと。『ダンス・ダンス・ダンス』が本になって刊行されたあとで、行方不明になっていたオリジナルの章がひょっこりと出てきたんですね。

それで「ええ、参ったな。こっちの方の出来が良かったらどうしよう」と心配しながら読み返してみたのですが、結論から言いますと、あとから書き直したヴァージョンの方が明らかに優れていました。

『職業としての小説家』の中で最も心に残った話でした。上林さんの「夏暦」とともに、何かのときにはこのエピドードを思い出すことができたらと思います。

さて、上林さんが再び「夏暦」を書き上げたのは昭和20年6月6日の朝のこと。もちろん、まだ戦争は続いていて、東京を始め各地で空襲が続いています。3月の空襲で偏奇館を焼かれた荷風はこの昭和20年6月6日には明石に疎開していました。でも、この3日後の6月9日に明石も空襲に遭い、荷風は岡山に逃げて行きます。そして6月の末にはその岡山の地で空襲に遭います。
そういうときなので上林さんは「夏暦」をようやく再び書き上げたとはいえ、それがまた失われてしまう事態に陥ることを当然のことながら想像します。いや、作品の運命どころか、自分や家族の運命すらどうなるかわからない状況。

「夏暦」のあとがきは次のような言葉で結ばれています。荷風や木山さんとは違って軍部を批判するようなことは僕の知る限り一切口にしない上林さんですが、この最後に書かれた言葉には、戦争というものに対する上林さんなりの強い抵抗の意志が感じられて、心が震えます。

 この仕事に取り掛つてゐる間にも、警報は幾度びか発せられ、私は書きかけの原稿を防空服の内ポケツトに入れ、自分の所属してゐる警防団の分団本部に出勤したこともあつた。幸にして難に会うこともなく、完成することが出来た。
 遮莫、この「夏暦」一篇は、私の作品としては珍しく数奇なる運命を潜つて成つたものであるとの感が深い。而して、稿は兎も角成つたが、戦時下のことであるから、今日以後、また如何なる運命に見舞はれることか保し難い思ひがする。私はこの小稿が恙なきことを祈ると共に、万一再び難に遭つても、三度び稿を改めたいと思つてゐる。四度びでも五度びでも……。


P.S. 世田谷ピンポンズさんがいつか「夏暦」というタイトルの曲を作ってくれたらうれしいですね。
by hinaseno | 2015-10-18 15:21 | 文学 | Comments(0)