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by hinaseno
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上林暁の「夏暦」のこと(その2)


昔からタイトルに「夏」という字が使われた作品に惹かれる傾向があって、「夏」がきっかけとなって手に取って好きになった作品があります。池澤夏樹の『夏の朝の成層圏』とか辻邦生の『夏の砦』とか。
上林暁の『夏暦』も最初に惹かれたのはそのタイトルでした。そして、ようやく手に入れて読んだ作品はやはり素晴らしいものでした。

その表題作「夏暦」について上林さんはこう書いています。

「この「夏暦」一篇は、私の作品としては珍しく数奇なる運命を潜つて成つたものであるとの感が深い。」

この「数奇なる運命」が、物語の前後にまえがきとあとがきのような形でかなり長く書かれています。そこにも一つの物語があります。

もともと「夏暦」という作品は、ある季刊誌に載せる予定で書かれたそうです。おそらく作品に描かれた出来事があった間もない時期に書かれたはず。
ところで昨日、その作品の出来事があったのは昭和17年の夏だと書きましたが、昭和20年に書き直された「夏暦」のまえがきでは「四年前の一夏」と書かれていました。つまり昭和16年の夏。上林さんの勘違いなのか、年表を作った人の誤りなのか。
それはさておき、昭和16年あるいは17年に、ある季刊誌に掲載するために「夏暦」が書かれたものの、その季刊誌が出なくなったため原稿は出版社から戻されます。次に筑摩書房から上林さんの作品集を出すことになって、そこに収めるいくつかの他の作品の原稿とともに「夏暦」の原稿を筑摩書房にあずけます。作品中もっとも力作であった「夏暦」を作品集のタイトルにすることを決めて。
ところが空襲によって筑摩書房の建物が被災し、「夏暦」の原稿も焼けて失われてしまったんですね。筑摩書房が被災したのは昭和20年1月27日の空襲のようです。原稿が失われた話を聞いて上林さんはこう考えたそうです。

「闇から闇に姿を消すのが、あの作品の運命であつたのかも知れない。」

ふと下書きを二通書いていて、その一通は燃やしたものの、もう一通は残していることを思い出し、押入などを必死で探します。でも、どれだけ探しても見当たらない。

「若しやと望みを繋いでゐただけに、もはや求めるすべがないと知った瞬間、正直なところ、僕は暫く茫然として、埃臭い押入の中に頭を突つ込んだまま、そこらをただ掻い撫でてゐた。」

一度は「闇から闇に姿を消すのが、あの作品の運命であつたのかも知れない」と考えたものの、次第にその作品を惜しむ気持ちが強まってきます。

「たとひ原稿を喪ふことがあつても、多寡が知れてると思つてゐたが、喪つてみて初めて、掛け替へのないものを喪つたことを知つたのである。そして釣り落とした魚の譬への通り、喪つてみると、あの作品が相当傑れた作品であつたやうな気がして来て仕方がないのである。かなり冗漫で、甘い感傷もあつて、もう一度書き直して引き緊めたらいいんだがと、そのままにしてあつたのだが、今はそんな瑕瑾のことなど少しも気にならず、私の頭に浮んで来るのは、ただもうあの作品の好いところ、気に入つた描写のところばかりであつた。さうなつて来ると、私にはいよいよあの作品に対する愛惜が深まつて来るのであつた。」

by hinaseno | 2015-10-17 13:55 | 文学 | Comments(0)