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Talks About Music, Books, Cinema ... and Niagara


by hinaseno

北木島から小樽へと


木山捷平の『新編 日本の旅あちこち』に収められた「銀鱗御殿の哀愁」の話に戻ります。
『新編 日本の旅あちこち』で面白いのは(まだ全部読んでいないけど)いろんな人へインタビューした部分。録音はせず、メモと記憶から書かれているようです。インタビューした相手との距離感がうかがえて笑えてしまいます。
「銀鱗御殿の哀愁」にも、積丹町役場に「退屈しのぎに」来ていた統計広報係長、積丹町議会議長(この人とのインタビューはずいぶん長いのですが、メモは取っていなかったとのこと)、そして小樽市長。
この小樽市長とのインタビューがたまりません。今の時代に、こんな話が公になったら市長の首がとんでしまいそうな話。
こんなやりとりがあります。
市長:芸者も昔は六百人を超えていたものが、いまはたった三十五人いるだけじゃ。その三十五人の芸者が揃いも揃って、五十、六十のばばあ芸者ばかりじゃ。
木山:市長さんのお相手としては手頃じゃありませんか。
市長:バカをいうな。君だって女は若い方がいいだろう。芸者はそうだが、この小樽では女の人口が男の人口をはるかに凌駕して居るのじゃ。そこに重大な問題がある。男より女の人口が多い街は、街が衰微している証拠なのじゃ。

でも、木山さんはその後、街の様子を眺めてこう考えます。
市長はあんなことを言っていたが、女の人口が多いところは、案外くらしは楽なのではないかという気がした。そうでなければ女だって、小樽の街を棄てて外へ出て行くに違いないのである。

ところで木山さんは小樽の街をあちこち歩きながら、やはり「斜陽の街」という印象を受けたようです。でも、こんなことが書かれていました。
 そうはいうものの、私は街に格別陰気なものは感じなかった。戦災を受けなかったこの街の古い建物が殆ど残っているのが旅情をなぐさめた。明治四十五年、辰野隆(ゆたか)の父辰野金吾が建てたという、岡山県北木島の花崗岩をつかった日本銀行小樽支店などもその一つだった。

木山さんの「旅情をなぐさめた」という日本銀行小樽支店がこれ。現存しているようですね。
北木島から小樽へと_a0285828_1352207.png

建てたのは辰野金吾。ウィキペディアを見たら有名な建物がずらっと並んでいました。で、その息子がフランス文学者の辰野隆。谷崎潤一郎とは中学時代からの友人とのこと。
興味深いのは日本銀行小樽支店が「岡山県北木島の花崗岩」を使って建てられているということ。木山さんは何も書いていませんが、北木島というのは木山さんの郷里に近い笠岡の南にある島。この日のブログで書いていますが、木山さんが昭和10年に書いた「尋三の春」に出てくる島でもあります。子供たちを笠岡の瀬戸内海が見わたせる丘の上に連れて行った大倉先生が島流しにされた島ですね。
木山さんは「銀鱗御殿の哀愁」で北木島に触れたときに、自分が30年以上も前に書いた小説で北木島のことを書いていたのを覚えていたんでしょうか。

というわけで、「尋三の春」の本当に素敵な最後の場面を引用しておきます。「尋三の春」は現在、講談社文芸文庫から出ている『氏神さま/春雨/耳学問』に収録されていますが、できれば「尋三の春」というのをタイトルにした本が出てほしいと思っています。まちがいなく木山さんの初期の名作なので。
 ところで、長い夏休みが果てて九月が来た。九月一日、私達が校庭の桜の木影にうずくまって、二学期の始業式のはじまるのを待っていると、向うから山本春美が駆けて来て、したりでな顔で叫んだ。
「みんな、知っとるか。大倉先生はこの学校を退かれるんだど」
皆んなはびっくりして砂の上から腰を上げて思い思いに反問した。
「ええ?」
「ほんまか?」
「嘘つけ!」
しかし晴海は唇を尖らせ、自身ありげに言うのであった。
「嘘であるかい。嘘だと思うんなら千円のカケをしよう。ゆんべ、うちのお父さんがお母さんに話しとられたんだ」
「ほんとか?」
「ほんとじゃ。それ、笠岡へ遠足した時、海の向うの方に小さな島があったろうが。あそこに島流しになるんじゃ!」
 けれども、まだ半信半疑でいる私達の耳に鐘が鳴りひびいて、二学期の始業式が運動場ではじまった。式が終ると、校長はあらためてもう一度号令台の上にのぼり、この度都合により大倉先生は北木島へ御転任になられることになったと宣告した。晴海の言ったことが本当なのであった。校長につづいて大倉先生は静かに号令台にのぼって、丁寧にお辞儀をされた。全校生徒の眼がしんと先生の上にいっせいに注がれた。
「皆さん、私は、今日、お別れにのぞんで、言いたいことが、山ほどありますが、胸がつかえて、何も言えません。何にも言えませんから、そのかわり、一つ歌をうたって、お別れの言葉にかえます」
 と、先生は、一語、一語、力をこめて言い終ると、

 帽子片手に皆さんさらば
 ながのお世話になりました
 私ゃこれから北木へ行くが
 受けた御恩は忘りゃせぬ
 ……………………………

 と、当時はやっていた何かの流行歌を改作して歌いはじめた。調子はずれの、日本中をさがしてもこんなまずい歌はないような下手な節廻しであった。が、先生の真剣な歌いぶりは生徒達の失笑をくいとめ、何故か胸をひきしめた。気がついて見ると、先生は本当に片手に古びた麦藁帽子をぶらさげて力一杯声をはりあげているのだった。

それにしても、この日のブログで紹介しましたが、岡山での荷風をたどっていたときに、荷風が散策の途中で目にした店で扱っていた石材(万成石)が小津や成瀬の映画で目にしていた服部時計店に使われていたり、木山さんの小説に出てくる北木島でとれる石(北木石)が小樽の日本銀行小樽支店に使われていたり。
岡山の石(どちらも花崗岩)が思わぬところで使われていることをこういう形で発見するのはなんだかうれしいものです。

ちなみに日本銀行小樽支店が竣工したのは明治45年(1912)年7月。木山さんが新山尋常小学校の2年生のとき。大倉先生が北木島にとばされたのが木山さんが「尋三」のときだとするならば、まさにこの翌年ということになります。島流しにされたといっても、当時北木島は石材業でかなり栄えていたようなので、大倉先生が行った学校はもしかしたら岩助たちの学校よりも生徒が多かったかもしれません。
by hinaseno | 2015-04-16 13:54 | 木山捷平 | Comments(0)