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by hinaseno
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早春の小田川(4)― 『平賀春郊歌集』 ―


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木山捷平が昭和36年に書いた「小田川」のことを調べていたら、その原稿が岡山県立図書館に所蔵されていることがわかったので見てきました。原稿用紙で6枚。撮影も可とのことでしたので遠慮なく。
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原稿用紙の右下に「右指ケガのため乱筆おゆるし下さい」という判が押されていて、気の毒なことなのにちょっと吹き出してしまいました。作ったんですね、こういうの。

さて、木山捷平は矢掛中学の3年になった頃から文学に目覚め、いろんな本を読むようになります。さらに4年生になってからはいくつかの雑誌に短歌や俳句などを投稿し始めます。投稿した雑誌の選者には若山牧水もいたようです。
大正10年(『高梁川』に掲載された「小田川」は「大正15年」と書かれていましたが、原稿を見たらちゃんと「大正10年」になっていました)、木山さんが5年生になって初めて平賀春郊に国語と法制経済を教わるようになった間もない5月に、その若山牧水が矢掛の平賀春郊を訪ねて来たことが翌日の地方新聞に載り、他の教師も含めて学校中が大騒ぎになります。でも、そんな騒ぎに対して平賀春郊は「終始知らん顔をしていた」とのこと。昭和39年に書かれた「弁当」にはこう記載されています。
 国語の時間だったか法制経済の時間だったか忘れたが、撃剣の強い一人の生徒が、
「先生、牧水先生が先生のお宅に来たそうじゃありませんか。ちょっと牧水先生の話をしてください」
 と先生をつついたが、
「一晩とまって行っただけです。一晩じゃ、別に話す材料は何もありません」
 と逃げてしまった。
 先生が歌人であることは生徒はうすうす知っていた。しかし誰もその歌を見たものはなかった。しでに文学少年になっていて、歌の真似事などをした正介なども、その歌がどこに発表されているのか皆目わからなかった。

大正11年の春に矢掛中学を卒業してからほぼ40年後、おそらくは平賀春郊先生のこともすっかり忘れてしまったある日、木山さんは『平賀春郊歌集』を手にし、歌人としての平賀春郊のこと、若山牧水とのつながりについて初めていろいろ知ることになります。
『平賀春郊歌集』が出版されたのは昭和34年3月。非売品として作られたもの。発行者は松江高等学校宮崎県同窓会。「弁当」には「あまり上等でない装幀の歌集」と書かれています。
吉備路文学館の若山牧水展に行って、まず見たかったのはこの『平賀春郊歌集』でした。うれしいことに2階の展示室に飾られていました。そばにはその歌集に収められているはずの歌を記した短冊が50くらい展示されていました。

これは白黒ですが『岡山の短歌』(岡山文庫)に掲載されている『平賀春郊歌集』の表紙の写真。実物は淡い緑色の水彩絵の具で塗られていました。大きさはA5サイズくらい。
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ところで、木山さんはどういう経緯で『平賀春郊歌集』を手に入れたのか、ということですが、そのあたりのことは「小田川」にも「弁当」にも記されていません。「小田川」の冒頭にはこう書かれているだけ。
「平賀春郊歌集」といふ歌集が、一昨年の春、松江高等学校宮崎県同窓会(延岡市三ツ瀬町高森医院内)から出版された。私は知らないでゐて、手にして一読したのは、ほんの最近のことである。

『小田川』が掲載された『高梁川』第12号(発行所は高梁川流域連盟)が発行されたのは昭和36(1961)年8月31日。『酔い覚め日記』を見ると昭和36年7月28日の日記に「『高梁川流域』より白桃一箱着。三六個入。原稿の御礼とあった」と記されているので、おそらく書いたのは7月。

もう少し前の日記を見てみると前年の昭和35年8月30日にはこんなことが書かれていました。
佐藤一章氏死去。29日午後1時58分、胃かいようにて大倉病院にて、54歳。今朝の新聞にて知る。矢掛中学校同窓生であった。戦後二、三回逢っていた頃は元気であった。惜しい画家を亡くした。

さらに同じ昭和35年10月22日の日記には。
石井直三郎歌碑千円、矢掛川畔に出来る。
有本放水碑、千円、岡山市に建設
矢掛中学校(高等学校)同窓会、千円

どうやらこの時期、岡山関係の人と接する機会が増えていたようで、そんな中、おそらくは矢掛中学の同窓生の佐藤一章という画家を偲ぶ形で同窓会が開かれ、それに参加したのかもしれません。
そして、たぶんこの同窓会で久しぶりに矢掛中学校時代のいろんな話をする中で平賀春郊の話が出て、彼の歌集が作られていることを知らされたのではないかという気がします。もしかしたら誰かがその場に持って来ていたのかもしれません。
で、その発行所に問い合わせて『平賀春郊歌集』を送ってもらうという形になったんでしょうね。ということなので木山さんが『平賀春郊歌集』を手に入れたのは昭和35年の暮れか翌年の始め頃だったかもしれません。
その歌集を見ながら矢掛中学時代のことや、小田川の畔にあった平賀春郊の家を訪ねたことなどを思い返していたときに、高梁川流域連盟から原稿の依頼が来たので(小田川は高梁川の支流)、それではということでささっと書いたんでしょうね。
で、書いたあともいろいろと平賀春郊のことを思い起こしているうちに、これは物語になりそうだということで、随筆ではなく小説の形で書き直したのが「弁当」だったんでしょうね。
ちなみに「弁当」を掲載したのは『別冊文藝春秋』。昭和39年8月29日の日記にこう記載されています。
「別冊文藝春秋」原稿今晩二時脱稿す。『弁当』25枚、12時15分、藤沢貴美さん来訪され、渡した。

最初は原稿用紙で6枚だったものが4倍にふくれあがっています。

ところで、吉備路文学館の2階には、牧水から平賀春郊に出したいくつもの手紙とともにこんな本が展示されていました。
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『若山牧水書簡集 「僕の日記である。」』。若山牧水が平賀春郊に出した手紙264通をすべて収録したもの。若山牧水記念文学館から取り寄せたのですが、考えたら吉備路文学館でも販売していたような気がします。発行は平成22年。もちろん木山さんはこの本を読むこともなければ、これほど多くの手紙を書き送る関係であることも知る由もありませんでした。

『若山牧水書簡集』には吉備路文学館にも展示されていたこの写真が掲載されていました。
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写真の下には「大正10年小田川にて(右端が牧水 その隣が春郊。)」と書かれています。巻末に掲載されている略年表を見ての推測ですが、春郊の左にいる女の子は当時10歳の長女久子。そしてその左で赤ん坊を抱いているのが春郊の妻節。赤ん坊は生まれたばかりの次女はる子だろうと思います。このとき春郊は40歳、牧水は37歳。

この写真を撮った場所はおそらくこの辺りの河原。ここにもかつては観月橋と呼ばれる流れ橋があったようで、橋脚が少しだけ残っていました。
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春郊はきっとこの辺りの土手沿いの家に住んでいたんでしょうね。
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牧水が春郊に出した手紙の宛先はすべて「岡山県矢掛町 平賀春郊様」。番地もなければ字名もありません。よくこんなので届いたなと。
by hinaseno | 2015-03-30 14:11 | 木山捷平 | Comments(0)