昨日、荷風と違って木山さんは歩いているときにはぜんぜん観察者ではないと書きましたが、電車に乗ると一変、すごい観察者になります。
観察対象は女性、しかもたいていは若い女性。
大丈夫かなと思うくらいの細かい観察。そのあたりの話についてはまた改めて。
さて、明治44年の地図に木山少年が歩いたルートを赤で記してみました。左下の赤丸が木山さんの生家、右上の青の四角が矢掛中学校。水色に塗っているのが小田川。この土手沿いに沿って僕は歩いたんですね。木山さんの家からのスタートではありませんでしたが木山さんが毎日歩いていた2里(8km)くらいは歩いたようです。
そういえば昨日紹介した観音橋を渡って山陽道に入ったところにあった木造の建物、調べてみたらやはり郵便局。地図を見たらまさにその場所に〒のマークがあります。明治7年に作られたとの情報も。少なくとも木山さんが矢掛中学に通っていたときにはこの郵便局の建物があったようです。
ちなみにその上に貼った写真の左手に見える建物は旧中国銀行小田支店。これも作られたのは大正12年以前とのこと。これが建てられていた頃に木山さんが通っていた可能性もあります。
そんな古い建物も残っている山陽道沿いの町並みを抜けると田圃の中の一本道となり、そのまっすぐの道が矢掛の町に入る辺りまで続きます。木山さんが歩きながら勉強したり、あるいは冬の寒いときには何度か焚火をしたのはこの田圃の中の一本道だったんでしょうね。
小田川の土手を歩きながらときどきその道を眺めていましたが、正直そちらを歩かなかってよかったと思うくらいに単調な道。焚火もしたくなるのもわかります。
その焚火の話をちょっと引用します。題名は「中学一年生」(『わが半生記』に収録)
僕は焚火が出てくる話が好きなのですが、これも短いけど大好きな話。
私は家を出てしまえば、寒稽古にかようのは割合平気だった。ただ顔は手拭いで頬かむりするからそれほどでもなかったが、かちかちに霜のおりた道を歩いて行くと、足の先がちぎれるほど冷たいのが閉口だった。冷たさを解消するには焚火をして当るのが一番早い解決策だった。
焚火は田んぼに積んである藁を抜いて来て、道のまんなかでもした。二回ほどして一里ほど行くと、連中があちこちからあらわれて、またそれから三回ほどして学校にたどり着くのが毎日のおきまりだった。
連中が多くなればなるほど、焚火の時間は長びいた。自転車通勤の先生も自転車からおりて、
「今日は特別寒いのう。どう、わしにもちょっと当らしてくれ」
先生は出発するとき、
「お前たち、今日は燃え出した火だから仕様がないが、明日からは決して焚火などするんじゃないぞ」
と一言訓戒をたれて行くのがおきまりだった。
「はい、明日からは決して致しません」
と生徒はいさぎよく答えるが、明日になると前の日と同じことをくりかえして、無事二週間の期間がいつの間にか終ってしまうといったような塩梅だった。
こういう具合だったから、私たちが学校の道場に入るのは、たいてい朝の寒稽古が終りかけた頃だった。いわば辷り込みというやつで、私たちは出席取りの時間に魔にあいさえすれば、誰も文句をつけるものはなかった。
ほのぼのとしたいい話。特に先生がいいですね。
同じ『わが半生記』に収録された「スペイン風邪」には、ちょっと切なくなるような話も。世界的に流行したスペイン風邪に木山さんもかかったんですね。大正7(1918)年、木山さんが矢掛中学2年生の10月30日のこと。
その日は朝から雨が降っていたんですね。木山さんは一時間目の途中から自分の体調がおかしいことに気づきます。
...二時間目になって頭がぐらぐらして早引を教師に申し出た。
二里の道を歩いて家に帰った。それよりほかに取る方法はなかった。田圃の稲が黄色に色づいていたのを私は覚えている。雨がふってるのも私は覚えている。雨は大降りではなく、小雨だった。
「それよりほかに取る方法はなかった」という言葉が胸にこたえます。
楽しかったり辛かったりと(辛いことの方が多かった気もします)いろんなことがこの二里の道にはあったわけで、それが木山捷平という人間を作っていったんですね。
さて、これは矢掛の町に近づいて小田川と旧山陽道が接近した辺りで撮った山陽道の写真。西の方角を写しているので、木山さんが下校するときに見ていたのはこの風景。体調が悪かったら途方に暮れそうです。
もう少し矢掛に近づいた場所にはこんな石の灯籠も。これも昔からあったはず。
で、これがおそらくは大正時代の矢掛中学(現矢掛高校)の写真。
そしてこれが現在の矢掛高校。
ところで木山さんは「人間の歩き方」というエッセイを書いています。最後にこんなことが書かれています。
人間の歩き方をみていると、大体その国、あるいは地方、その時代の傾向がわかるのではあるまいか。人間の歩き方には、目もあれば鼻もあれば口もある。ごまかそうとしてもごまかしきれない何かがそこにある。
子供の頃から歩いた距離を考えると、木山さんほど歩いた作家はそんなにはいないような気がします。その木山さんの言葉なので説得力があります。
僕の歩き方にはどんな目と鼻と口があるんだろう。歩くのはかなり早いけど。
ところで、矢掛の町に入る手前である場所を探したんですが、驚いたことにその建物が残ってたんですね。この建物についてもまた改めて。