小山清のことを調べていて、といってもたった2日間のことですが、結果的には2番目になった驚きの話を。でも、これはかなりすごいことでした。
井伏鱒二の『荻窪風土記』に収められた「小山君の孤独」を読んでいたら、こんなことが書かれていました。
なんとこの日のブログをはじめとして、このブログで何度も取り上げてきた中山晋平に教わっていたとは。興味深いのは小山清が中山晋平から教わっていた時期。
小山清は1918(大正7)年に千束小学校に入学しています。卒業したのは1924(大正13)年。で、中山晋平は明治の末から1922(大正11)年まで千束小学校に勤務しています。ということは、小山清は小4か小5くらいまで中山晋平に教わったことになります。
中山晋平は大正9年に野口雨情とコンビを組んで、素晴らしい童謡や民謡を書き始めます。「黄金虫」「しゃぼん玉」「兎のダンス」「証城寺の狸囃子」、あるいは詩は野口雨情ではありませんが「てるてる坊主」などの童謡が次々に作られたのも大正10年頃。そして、あの「船頭小唄」が作られたのも大正10年。まさに小山清を教えていた時期。
おそらくは唱歌しか歌われていなかったはずの小学校の教室で、できたてほやほやの、最先端の、当時においては間違いなく過激な音楽を中山晋平がどれだけ子供たちに歌わせていたかはさだかではありませんが、なんとも興味深い。
小山清の小説には音楽を感じさせるものがあるとずっと思っていましたが、そこには中山晋平の教育が無意識の形で影響を及ぼしていたのかもしれません。
というわけで、小山清のことを調べていて最も驚いた話のことを書くために、しばらくこのブログを休むことになりそうです。
井伏鱒二の『荻窪風土記』に収められた「小山君の孤独」を読んでいたら、こんなことが書かれていました。
小山清は千束小学校に通つた。音楽の先生に中山晋平がゐたが、カチューシャの唄やゴンドラの唄を作曲した人とは知らなかつた。中山晋平はそのころ島村抱月のところで書生のやうなことをしてゐた筈だ。
なんとこの日のブログをはじめとして、このブログで何度も取り上げてきた中山晋平に教わっていたとは。興味深いのは小山清が中山晋平から教わっていた時期。
小山清は1918(大正7)年に千束小学校に入学しています。卒業したのは1924(大正13)年。で、中山晋平は明治の末から1922(大正11)年まで千束小学校に勤務しています。ということは、小山清は小4か小5くらいまで中山晋平に教わったことになります。
中山晋平は大正9年に野口雨情とコンビを組んで、素晴らしい童謡や民謡を書き始めます。「黄金虫」「しゃぼん玉」「兎のダンス」「証城寺の狸囃子」、あるいは詩は野口雨情ではありませんが「てるてる坊主」などの童謡が次々に作られたのも大正10年頃。そして、あの「船頭小唄」が作られたのも大正10年。まさに小山清を教えていた時期。
おそらくは唱歌しか歌われていなかったはずの小学校の教室で、できたてほやほやの、最先端の、当時においては間違いなく過激な音楽を中山晋平がどれだけ子供たちに歌わせていたかはさだかではありませんが、なんとも興味深い。
小山清の小説には音楽を感じさせるものがあるとずっと思っていましたが、そこには中山晋平の教育が無意識の形で影響を及ぼしていたのかもしれません。
というわけで、小山清のことを調べていて最も驚いた話のことを書くために、しばらくこのブログを休むことになりそうです。