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by hinaseno

新山の秋(3)  ― 「尋三の春」の風景 ―


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木山捷平の小説をすべて読んだというわけではありませんが(読んだのは全作品の半分にも満たないはず)、もし木山さんの小説の中で一番好きな作品をひとつと言われれば、迷うことなく「尋三の春」の挙げます。 「尋三(じんさん)」つまり尋常小学校三年の子供たちとその担任の先生である大倉先生の物語。何度読んでもせつなくなってしまいます。同時にいろんなことを考えさせられてしまう物語でもあります。昔、中学2年生の教科書で使われたようですが、子供から大人までいろんな世代の人に、永遠に読み継がれるべき作品だろうと思っています。
「尋三の春」が書かれたのは、昨日紹介した「母」という詩が書かれたのと同じ同じ昭和10年。木山さんが小説を書きはじめた最初期の小説。その前年に父を亡くし、久しぶりに故郷の新山に戻り、父のことを含めて新山で過ごした幼少期のことを思い出す中で書かれたはずのもの。
主人公の少年は明治45(1912)年に尋三になっているので、木山さんと全く同じ。つまり主人公の市太は子供時代の木山さんに限りなく近い存在。小説の中では新山という地名は出てきませんが、市太の通う小学校のある村が「笠岡」から「二里ばかり」離れた場所にあることが示されています。
さて、この市太のクラスを受け持ったのが4月になって初めてこの学校にやってきた大倉先生。で、5月になってその大倉先生が子供たちを連れて遠足に行った場所が、まさに木山さんの詩碑が建てられた古城山公園のある「城山」。大倉先生はいなかの山間に暮らす子供たちに海を見せるんですね。市太もこの日初めて海を見ます。何人かの子供たちは海が見えたときに「万歳!万歳!」と声を上げたりしています。そして市太も咽喉がつぶれるまで「万歳!万歳!」と絶叫します。
海が見えたとき、大倉先生は子供たちにこう言います。
「この海はな、瀬戸内海と言うて日本で一番小さい海なんじゃ。まあ一口に言や、海の子じゃ、太平洋というのや、印度洋というのは、この何千倍何万倍あるか分らん程じゃ」

この場面と重なる木山さんの詩があります。「さあいそげ」という題名の詩。昭和2年、木山さんが姫路の荒川小学校に勤務していたときに書かれた詩です。
 さあいそげ

子供等よ
いそげ、
あの丘を越えると
もうすぐだ、
あの丘を越えると
大きな海が見えてゐるのだ、
そこだ
そこが広なんだ。
さあいそげ。

おそらく木山さんは教師をしているときに子供たちに海を見せているんですね。「尋三の春」の大倉先生の中に兵庫県の出石や姫路で教師をしていた木山さん自身が入り込んでいるのは確かなこと。

さて、これがその古城山公園から見える風景。木山さんが子供のときに見た風景とは異なって、かなり干拓地がひろがっています。
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大倉先生は、おそらくは当時も今もいる自分の思い通りにならないと気が済まない子供と、その子供の言葉を真に受けてしまって校長先生なんかに抗議をするような大人の働きかけによって(小説ではそれがはっきりと書かれているわけではありませんが)、夏休み明けの9月に笠岡の南にある北木島に転校させられることになります。その働きかけをした「春美」という名の男の子は市太たちにこんなことを言っています。親からすでに話を聞いていたんですね。
「僕等が笠岡へ遠足した時、海の向うの方に小さな島があったろうが。あそこへ島流しになるんじゃ!」

その北木島は笠岡から南に15kmほど離れたところにある島。となりの白石島とならんでかなり大きな島ですが、上に貼った写真の正面に見える大きな山の背後にあります。ただ、笠岡湾の向こうの方に見える小高い山がトンギリ山とよばれる北木島の東の方にある山ではないかと思います。

その北木島を隠している大きな山。実は現在は手前に干拓地が広がってしまっていますが、かつてはここも島でした。笠岡湾に浮かぶ最も大きな島。名前を神島(こうのしま)といいます。古城山公園の次に連れていっていただいたのが、この神島でした。
そこは木山さんの別の小説の舞台でもありました。7歳の少年と、そのおじいさんがこの島を一周する話が出てくる物語。

ところで、「尋三の春」は、市太が妹のために、古城山公園で素敵なお土産を買って来てあげます。そして大倉先生が北木島に流されてしまう発端となったのは市太が妹を描いた絵でした。

木山さんが姫路に来る前年の大正15年に「いもうと」と題した詩を書いています。その前の年に東京の大学に入ったものの、体を壊してしまって故郷に戻ったときに書かれた詩。「尋三の春」と同様に、長男である木山さんがいかに妹おもいであることがよくわかります。
 いもうと

窓の障子がだんだん明るんできた。
妹はいつの間にか起き出て
井戸端で米をといでゐる。
そのとぎ方は幼く
そのとぎ音は澄まない。
さればなほさら
この病(やみ)の身をいたはつてくれる妹のいとほしさ。
雪はまだふつてゐるらしい
今朝は井戸の水もつめたく
彼女の手も赤くただれてゐよう――。

この妹というのは、当時9歳だった次女の月さんだったんでしょうか。彼女が冬の日の朝に米をといでいたのがこの井戸端でした。
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Commented by 春美 at 2019-02-22 12:33 x
「春美」という名前だけど、男の子なんじゃないでしょうか?
Commented by hinaseno at 2019-02-22 14:43
> 春美さん
本当ですね。確かに「息子」となっていました。
女の子なのに男の子みたいな言葉遣いをするんだなと思っていました。
ご指摘、ありがとうございました。
by hinaseno | 2014-11-13 13:57 | 木山捷平 | Comments(2)