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Talks About Music, Books, Cinema ... and Niagara


by hinaseno
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ある夏の日


 こんなときだったかな、と思う。たとえば日盛りの道を歩いて暗い影の領域から日なたへ出たとき、そう思う。にわかにまばゆくなる路面の白い照り返し。軽いめまい。たとえばまた、公園でぼんやりと蝉しぐれに聞き入っている。木立の奥から無心にたわむれる子供たちの声が聞こえてくる。木漏れ日が砂場に光と影の縞模様を織っている。大気は灼けた石と土のにおいがする。いつもと変わりがない静かな昼さがりである。
 雲が日を翳らせる。その間は風が涼しく感じられる。木漏れ日もベンチの影も濃い輪郭を失う。しかしそれもつかのまのこと、地上はすぐに元通り明るい昼にかえる。何も起こりはしなかった。しかしそれもつかのまのこと、地上はすぐに元通り明るい昼にかえる。何も起こりはしなかった。光と影の交代は目瞬きする間に過ぎてしまうことで、よほど気をつけていなければそれが実際に起こったとは思われないようなありふれた一刻である。

これは最近読んだある作家の随筆集の収められていた「ある夏の日」と題されたエッセイの書き出しの部分。作家の名前は、ここではNとしておきます。
音楽であれ、本であれ、あるいは小さな文章でも、タイトルに「夏」が付いたものには強く反応してしまいます。Nという作家の随筆集を読むのははじめて。目次を見て最初に読んだのがこの「ある夏の日」というエッセイでした。

最初に描かれた夏の風景描写の素晴らしいこと。ちょうどこれを読んだときに細野さんの「夏なんです」や「風をあつめて」を久しぶりに何度も聴いていたので、その詞に出てくる言葉とかぶっているものがいくつもあって、いっぺんに好きになってしまいました。もちろん読み始めてすぐに、冒頭の「こんなときだったかな、と思う」という言葉のことを考えずにはいられなかったのですが。

ふた月ほど前、川本三郎さんの『遠い声』(1992年 扶桑社)を久しぶりに読み返しました。雑誌『スイッチ』に連載されていた文章を集めたもの。川本さんの本の中では最も好きなものの一つ、というか一番好きな本といってもいいかもしれません。
その本の最初に「救済の風景」と題されたエッセイが載っていました。ある川(今ではそれが多摩川だとわかる)の近くの町を歩いたときの話。そこは「いずれ飛行場が拡張され」て、「なくなってしまう」町。川本さんは、その町の川べりの小さなビジネスホテルに何度か宿泊しては、ときどき窓から河口を眺めていました。
で、ある日、その川の河口を眺めていたときにある作家のことを唐突に思い出します。それがまさにNという作家。
「海でも川でもそこに水があれば私は惹かれる」という、いまではほとんど忘れられているNという作家の言葉を思い出した。Nは九州の小都市に住み、川や海の静かな風景によってのみはじめて慰藉される孤独な人間を好んで描いた。人と人の関係よりも人と風景の関係の方を愛した。そして六年ほど前まだ四十代の若さで急逝した。
 この町を知ってからしばらく忘れていたNの本を読みかえしてみた。どの作品にも川と海が描かれていた。河口を描いた小品もあった。...

以前は読み流していたのに、今回はなぜかNという作家がだれかというのがすごく気になって、少しの間、川本さんの著作に何度か出てきたはずの、名字の頭文字がNで始まる作家のことを考えました。
そして浮かんだのが、わりと最近読んでいた『今日はお墓参り』の中に出てきていた野呂邦暢という作家。ウィキペディアで調べたら条件がすべてあてはまりました。

で、改めていろいろと調べてみたら、野呂邦暢という人は「夏葉社」的には、ものすごく縁の深い人で、夏葉社で復刻された関口良雄さんの『昔日の客』にも野呂邦暢の話は出てくるし、何よりもタイトルの「昔日の客」という言葉が、野呂邦暢から関口さんに宛てられた手紙の中の言葉だったんですね。
そんなことがわかって、野呂邦暢の本を何か読まなくてはと最初に手にとったのがみすず書房から出ている『夕暮の緑の光』という随筆集でした。編者は岡崎武志さん。いろいろとつながっています。

さて、最初に引用した「ある夏の日」というエッセイ。話はこう続きます。
 あの瞬間も、ほとんどの死者たちにしてみればこんな具合だったのだな、と私は考える。あの夏、人々は長崎上空で一閃した光の正体を、それと知らないままに浴びたことだろう。

野呂邦暢は長崎に生まれ、そこで少年時代を過ごしていたのですが、戦争が激しくなって長崎から北東24kmの諫早に疎開します。そして諫早に疎開してきて五カ月がたった、小学校2年生の「ある夏の日」、つまり今日8月9日に、蝉とりか川遊びに行こうとしたときに、その出来事がおこります。
ふいに町並みが異様な光の下で色を変えた。頭を上げると白い光景が浮かんでいた。天空にもう一つの太陽が現れたかのようであった。どす黒い煙の上で、太陽は黄色い円盤にすぎなくなった。煙の下に火で縁取られた山の稜線が見えた。壮大な夕焼けが広がった。夕焼けは夜も消えなかった。
 一つの都市というよりも一つの帝国がそのときに炎上していたのである。

で、野呂さんは戦争が終わってから、消息が分からなくなった小学校時代の友人たちのことを探し続けます。おそらくは大人になってもずっと。エッセイには具体的な名前が並んでいます。もしや、と思う名前も。
 楠本、村上、熊谷、長門、というのは長崎市の銭座小学校で一年間、机を並べた級友である。私はいまだに彼らの消息を聞かない。学校に問い合わせてみたところ、被爆時に学籍簿も焼けたから行方をたずねるすべがないということだった。新聞を通じて調べてみたが、今もって応答がないところをみれば、全員災厄をまぬがれなかったわけだ。あの日を境に彼らは死に、私は残った。私の人生も三十七年になろうとするが、とりたてて語るに足りない平凡な生活である。私の幼い級友たちも生きていたら、しかし平凡な生活のもたらす歓びを味わうことはできたはずれあった。

川本三郎さんは『今日はお墓参り』に収められた「地峡の町で 野呂邦暢」の中で「その悲劇が野呂文学のひとつの核となった」と書いています。で、それに続けてこんなことも書かれています。
さらに、もうひとつの「終末的世界」が野呂邦暢にはある。昭和32年7月25日、諫早市を襲った未曾有の集中豪雨、洪水の悲劇である。

この539人の命を奪った水害が起きた当時、野呂は自衛隊員として別の場所にいたんですね。

もう少し川本さんの言葉を引用します。
野呂邦暢は原爆と諫早の水害というふたつの災禍を見た作家ということになる。にもかかわらず、それを大仰に言いたてることなく、胸の奥底にしまいこみ、日常的な世界を平明端正な文章で描き続けた。非日常と日常の繊細な緊張感、それが野呂文学の基底にある。

ところで川本さんの文章で知ったのですが、あの向田邦子さんも野呂邦暢の文学を愛していたそうで、野呂が急逝したときには諫早まで旅をしたとのこと。野呂の『諫早菖蒲日記』をドラマ化したがっていたそうです。
『諫早菖蒲日記』もぜひ読んでみたいですね。

さて、今日はその長崎に原爆が投下された日。いろいろな記念式典が催されているだろうとは思いますが、その一方で台風の影響も心配される一日となりそうです。何もないことを心から願っています。
by hinaseno | 2014-08-09 10:40 | 文学 | Comments(0)