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Talks About Music, Books, Cinema ... and Niagara


by hinaseno
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「なくな、よう、泣くな」


何度かの中断があったにせよ、ほぼ1年以上に渡って続けてきた昭和2年の木山捷平と、彼の姫路での「たつた一人の友」大西重利を探す冒険の物語も、とりあえずは今日で最後。まあ我ながらよくやったと思います。こんなことをやるのは、いや、やれるのは後にも先にも僕しかいないでしょうね。絶対に。
あまりにも運命的なことが多すぎました。

ここで一つの詩を紹介しておきます。大西重利が、おそらく昭和4年の暮れに書いた詩。詩のタイトルは「ある夜」。
 
 「りんごを食はせろ」
 子供のやうだだをこねてゐた友は
 たうとうビールをぶつけて眠つてしまつた。

 姿見一ぱいに
 姿見一ぱいのビールの泡が
 するすると涙のやうに
 つたはり落ちるのを私は
 「なくな、よう、泣くな」と
 ひとりごとしながら
 たんねんにふいてゐた。

この詩が載っているのは昭和5年1月号の『南方詩人』という雑誌。この雑誌のこと、それからそこに大西重利という名前の人物が書いた詩が収められていることは、このブログを始めて間もない昨年の10月のこの日のブログで書きました。でも、そのときにまだ、この雑誌に詩を書いている「大西重利」が、あの木山捷平の「秋」の詩の「大西重利に」と言葉を添えられた人と同一人物かどうかもわかっていませんでした。もちろんその後にわかったことも当時は知る由もない。

その当時は、この雑誌を入手するすべを知らなかったのですが、先日、ようやくコピーという形でこの詩を入手しました。
最初の行の「りんごを食はせろ」というきつい言葉に一瞬、戸惑ってしまうのですが(最初、コピーをしてもらう前に、電話でその内容を聴いたので余計に、えっとなりました)、もちろんこれはビールを飲んで酔っ払ってしまった「友」の姿。
この詩で大西重利が「友」として描いている人物は、疑いもなく、あの昭和2年の木山捷平。あの南畝町288の家の中で起こっていたことの、「たつた一人の友」の側から見た木山捷平のある日の姿です。

大西重利がどんな経緯で『南方詩人』に詩を書いたのかはわかりません。でも、おそらくはだれかからの要請があって書いたのだろうと思います。木山さん本人なのか、『野』の出版に関わっていただれかなのか(『南方詩人』には『野』の出版に関わった人たちがほぼ全員参加しています)。
大西重利はこの詩を書く前に、木山さんから出版されたばかりの『野』を贈られていたはず。そしてそこに収められた「大西重利に」という言葉が添えられた「秋」という詩も見ていたはずでしょう(もちろん後に「未発表詩篇」の中に収められる「友の秋」、あるいは「船場川」という詩が書かれていたことは知らない)。

「ある夜」は、昭和2年当時、木山さんにとってはまさに「たつた一人の友」だった人物からの返詩のようなものだといえるのかもしれません。この詩を見て木山捷平がどう思ったかはわかりませんが、これはまぎれもなく昭和2年の木山捷平の真実の姿であったように思います。

いろんな理由でここには書けないことにもからんでくるのですが、木山捷平と大西重利の交流は、おそらくは昭和2年の暮れ頃にとだえてしまったのではないかと考えています。その会えなくなってしまった理由の多くは大西重利の側の家の事情にあったように思われます。
大西重利は昭和3年以降も城陽小学校に勤めていて、木山さんも昭和3年の3月までは姫路市のはずれの荒川小学校、4月からは、昭和4年の3月まで北部の菅生小学校に勤めています。木山さんは千代田町に住所を置いたまま、そして南畝町288には、まだしばらくは大西重利の当時の妻が住み続けていました。でも、昭和3年には彼らは会うことがなくなりました。
その確かな証拠と言えるのは、木山さんが大西重利の手を借りてしか出版できなかった『野人』を昭和3年以降は発行できなくなったことだといえるでしょう(『野人』の最終号である第五輯の発行日は昭和3年1月1日ですが、印刷されたのは昭和2年12月27日)。
その後木山さんは姫路で再びひとりぼっちになったかというとそうではなく、昭和3年頃からは、木山さんは後に『野』の「序文」を書くことになる坂本遼という新たな友との交流を深めていきます。

木山さんと大西重利に決定的に決別するような出来事があったようには思いません。さっきも書いたように、おそらくは大西重利の側に木山さんと会うことができないような状況が増えていき、木山さんもたぶんそれを察して会うことをしなくなったんだと思います。
でも、木山さんは会えなくなっても、そして東京に行ってからも、大西重利に感謝の気持ちは持ち続けていたことは確かです。もしかしたら大西重利にしてもらっていたことに対する感謝の気持ちが強すぎて、逆に負い目すら抱いていたかもしれません。

そんないろんな気持ちをこめて、あの南畝町288にあった家の思い出がこめられた「秋」の詩を最初の詩集『野』に収めるときに、この言葉を添えました。
「大西重利に」

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Commented by 39nemon at 2013-11-06 22:24 x
進行形で報告されるので、ワクワク感も相俟って面白かったー。ここまで特定されるとは、びっくりです!
by hinaseno | 2013-11-06 08:37 | 木山捷平 | Comments(1)