人気ブログランキング | 話題のタグを見る

Nearest Faraway Place nearestfar.exblog.jp

好きなリンク先を入れてください

Talks About Music, Books, Cinema ... and Niagara


by hinaseno

2013年の、秋をひょこひょこ(8)


2013年の、秋をひょこひょこ(8)_a0285828_99741.jpg

そのスーパーの前には飲み物を売っている自販機がありました。最初は缶コーヒーでも飲もうかと思ったのですが、急に気が変わって店内に入ることにしました。

店に入ろうとすると、店内の入口近くに座っていた年配の女性が扉を開けてくれました。
「何かお探しですか?」とたずねられました。
一瞬考えて、ちょっと小腹も空いていたので、「アイスクリームありますか?」と訊ききました。
女性は奥に行って、一個のカップアイスを持って来ました。どうやら選択肢はなさそうでした。まあ、選択肢のなかった時代のことをたずね歩いているのでそれもいいかと。選択肢がないがゆえの幸福を、この頃は感じとることが多くなっています。

店の外の通りに面した日陰でアイスを食べました。
おいしい。
月の砂漠と化していた体内に水分が沁み渡っていきました。ようやく生き返りました。アイスを食べていた10分ほど、人通りはほとんどありませんでした。

食べ終えたアイスのカップを捨てる場所が見当たらなかったので再び店内に入り、女性にゴミを手渡しました。そのとき女性から声を掛けられました。
「何か調べものをされているんですか?」
僕がこの土地の人間でないことは彼女にはわかっていたんだろうと思います。
「大西という名字の人を探しているんです。かなり昔の人で、今はもう亡くなっている人なんですが」
すると「大西という名前の人は魚橋にはいないですよ」との答え。
「電話帳で何軒かあるのは確認したんですが」と言って、住所を示しました。
「そのあたりは新興住宅地。後から入ってきた人が住んでいるんですよ。大西という名前の人が住んでいるのは□□」

確かに□□に大西という名字の家が何軒かあることも調べていました。女性が下の名前を尋ねたので、それを告げると「それだったら」という話になりました。ここからその店で信じられないような話をいくつも聞くことになりました。
□□の大西重利の家のあったはずの場所の近くに、大西重利の名前の下の字が同じ人が住んでいることも聞きました。一瞬、大西重利の息子さんだろうかと思いましが、あとで調べたらそうはなく、親族の一人であることがわかりました。その人の名前は僕の調べたネット上の電話帳にはなかったので、店にあった電話帳で、電話番号と住所を教えてもらいました。ただし、□□は魚橋から相当離れた場所にあります。僕は再び来た道を戻りました。

途中、旧山陽道から離れて、大西重利がいた頃の場所からは移転して新しくなった阿弥陀中学校に立ち寄りました。予想していたよりもはるかに大きいのでちょっとびっくり。校舎は移転してそんなに年月が経っていないせいか白く輝いていました。場所もそうですが、大西重利のいた当時の小学校の痕跡は何もありません。呼鈴を鳴らしてみましたが何の応答もありません。まあ休日だったので仕方はないですが。
2013年の、秋をひょこひょこ(8)_a0285828_91642.jpg

暑さはさらに増してきました。真夏と変わらない暑さ。仕方なく国道に出ました。するとすぐにコンビニが目に入りました。僕はそこでミネラルウォーターを買いました。もちろん店員に声を掛けられることはありません。僕がこの土地の人間かそうでないかなんて店の人には関係のないこと。

ようやく□□の地区にたどりつきました。iPhoneのナビで確認した家に徐々に近づいていきます。さすがに胸の鼓動が高鳴ってくるのがわかります。すると、目の前に、昔ながらの家が並ぶその地区でも、ひときわ古風で、でもどこかモダンな造りをしている家にぶつかりました。
表札をみると大西という名字。でも、人が住んでるようには見えません。
すると隣にもう一軒、大西というの名字の家がありました。こちらの表札には下の名前も書かれていました。魚橋のスーパーで聞いた名前と同じ。呼鈴を押しましたが誰も出てきません。しばらくいましたがあきらめて駅に戻りました。

改めて確認するために、後日、高砂の図書館に行き、そのあたりの古い住宅地図を見ました。昭和44年発行の住宅地図。なんと先日行った家の向かいに、大西重利のフルネームの名前の下に「商店」という言葉がつけられた家が載っていました。
「商店?」と一瞬考えましたが、先日訪れたスーパーでは、大西重利が□□で何か商売をしていたとの話もされていたことを思い出しました。
いずれにしても間違いなく大西重利の住んでいた家がそこにあったんです。今、その場所には大西の名のついた会社があります。

スーパーの方に聞いた話で、まだ確認できていないことがいくつか残っています。でも、僕にとって一番の驚きは大西重利が戦後のかなりあとまで阿弥陀町に住み続けていたということでした。

僕は大西重利に関して重大な思い違いをしていたことに気がついたんです。もちろん僕が勝手に大西重利のイメージを作り上げていただけなのですが、あたかもそれが事実のように僕の頭の中で独り歩きをしていました。
正直、僕は大西重利は昭和の早い段階で亡くなっているものだと思っていました。前に引用した「秋」と同じ時期に書かれた別の詩に描かれた病弱な「友」の姿に大西重利を重ねていて、木山捷平が『野』に「秋」を載せたとき、あえて大西重利の名前を入れたのは、彼が生死につながる状況にあったためではないかと考えていました。でも、それは完全な思い違いだったことがわかりました。

とするならば、大西重利は少なくとも戦前は小学校の教員を続けていた可能性が高くなります。ただ、『阿弥陀小学校百年史』では、大西重利が阿弥陀小学校に勤めていたのは大正末まで。では、そのあと大西重利はどこの小学校に勤務したのでしょうか。何よりも、木山捷平が荒川小学校にいた昭和2年に大西重利が勤務していた小学校を知りたくなりました。

まず考えられるのは、阿弥陀小学校と同じ印南郡近辺、つまり現在の高砂市周辺の小学校でした。でも僕は、彼が姫路市内の小学校に勤めていた可能性を考えました。もちろん僕にはあてがありました。荒川小学校に勤めていた木山さんとのつながりを持つことのできる可能性のある小学校、それは姫路に4つほどしかありません。
僕は再び図書館に飛んでいきました。
by hinaseno | 2013-10-10 09:24 | 木山捷平 | Comments(0)