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by hinaseno

2013年の、秋をひょこひょこ(4)


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姫路の東にあった印南郡。
もし、僕が姫路での木山さんのことを調べることがなければ、きっと一生知らないままでいたはず。木山さんと印南郡の関係は後で触れるとして、簡単に印南郡のことを。

印南郡という名前は播磨国風土記にも書かれているので、相当古い時代から存在していたようです。当時は「いなみのこおり」と呼ばれていたようです。上田秋成の『雨月物語』の「吉備津の釜」でも「いなみのこほり」とルビがふられています。
播磨国風土記が作られた時代には、印南郡の北に、例の南畝町の名前の由来とされる長畝村のあった賀毛郡がありました。
印南郡はその後、その範囲は時代時代によって変わりつつも、字も変わることなく名前が残り続けました。ただ、昭和30年頃から近隣の都市(大部分は高砂市、それから加古川市、姫路市)に徐々に編入され、昭和54年(1979年)に消滅したとのことです。

『雨月物語』の「吉備津の釜」には「印南野(いなみの)」という地名も出てきます。古代の「野」を表す言葉は音の響きがどこも美しいですね。実際の風景も美しかったんだと思いますが。以前触れた、成島柳北が訪れた妹尾の辺りに広がっていた「春辺野(はるべの)」も、それから多摩川の北部に広がる、国木田独歩の本を読んでから憧れ続けている「武蔵野」も美しい言葉。
その「印南野」は、万葉の歌にいくつも歌われているのですが、なんとあの『枕草子』にも出てきています。第169段の「野は」に始まる随筆。
野は、嵯峨野さらなり。印南野。交野。駒野。飛火野。しめし野。春日野。そうけ野こそすずろにをかしけれ。などてさつけけむ。宮城野。粟津野。小野。紫野。

都のあった京都や大和地方近辺の野が多い中で、あの嵯峨野に次いで2番目に印南野が登場しています。その印南野があったのは加古川と明石川の間の地域。現在の加古郡稲美(いなみ)町あたり。ため池が多い場所ですね。ため池が作られるようになって風景が大きく変わったようです。

ところで、先日、神戸の海文堂書店が閉店する前の9月25日に、二階の古書コーナーで地図を買ってきたと書きましたが、それがこれです。
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「播磨国細見図」と題された地図。その復刻版。地図が作成されたのは寛延2年と書かれています。寛延2年は1749年、江戸時代中期ですね。
地図を見てまず気がついたのは、船場川の流れが太いこと。市川の本流がこちらだったことをうかがわせますね。

いくつか興味深い地名も。
まず二重の枠で囲まれた姫路の左下に「南畝」の地名が見えます。それからそこから西に向かう道沿いに木山さんが住んでいた「町坪」があります。その北西の夢前川沿いには蒲田の地名も。興味深いのは、カタカナで「カマタ」と記載されていること。現在は「カマダ」と呼ばれているはずですが。

さて、二重の枠で囲まれた姫路の真ん中辺りから右、つまり東に延びているのが山陽道。そこを東に進んで黒く太い線で描かれた境界線を越えた所が江戸時代における印南郡です。先日僕がへろへろになって歩いたのは「豆サキ(豆崎)」と書かれたあたりから「魚ハシ(魚橋)」と書かれているところ。
ちなみに印南郡の南にある曽根天神にはやはり万葉の時代より有名な「曽根の松」があります。図に描かれているのはおそらくその松のはず。海からも当然見えたんでしょうね。明治2年に岡山にやってきた成島柳北は、船から見えた曽根の松のことを『航薇日記』に書いています。

その曽根の松のある場所の北東にあるのが「石の宝殿」とよばれるところ。ここもこのあたりの名所の一つですね。と言いつつ、この2つ、行ったことないのですが。

で、その南東にあるのが「荒井」。『雨月物語』の「吉備津の釜」の主人公の正太郎が住むようになった家があったのがこの「荒井」でした。正太郎といっしょにやってきた「袖」という女が磯良の生霊にとりつかれてなくなった場所ですね。正太郎は袖を荒野で火葬し塚を築いて卒塔婆を建てます。そういえば僕が行った阿弥陀町には、墓地だけではなく、ちょっとした塚にも卒塔婆(五輪塔)が建っていました。室町時代前後のかなり古いものばかり。
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さて、袖を亡くした正太郎は、袖の里に近い印南郡の荒井に留まる必要はないのですが、結局彼は故郷の吉備に戻ることなくこの地に住み続け、毎日墓に参り続けます。ちょっとぐっと来る場面なので引用します。
正太郎は今は俯して黄泉をしたへども招魂の法をももとむる方なく、仰ぎて古郷をおもへばかへりて地下よりも遠きここちせられ、前に渡りなく、後に途をうしなひ、昼はしみらに打臥て、夕々ごとには塚のもとに詣で見れば、小草はやくも繁りて、虫のこゑすずろに悲し。

そして秋がやってきたある日のこと。ここから背筋が凍るような話になっていきます。
此秋のわびしきは我身ひとつぞと思ひつづくるに、天雲のよそにも同じなげきありて、ならびたる新塚あり。ここに詣る女の、世にも悲しげなる形して、花をたむけ水を濯ぎたるを見て、....

僕は誰もいない山間の古びた墓地でこの話を思い出してしまって、本来の目的を果たす勇気を失ってしまいました。何とも情けない話。

木山さんの話からずいぶん離れてしまいました。
by hinaseno | 2013-10-06 11:03 | 木山捷平 | Comments(0)