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Talks About Music, Books, Cinema ... and Niagara


by hinaseno
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夏のつぎには秋が来て


ある方から”公開”でお誘いを受けたような。そうですね、「いつか」なんて考えているうちに月日はどんどん流れていきます。でも、ちょっとハードルが高すぎるような気も...。

しばらく「音楽」の話が続いたので久しぶりに「本」の話を。
高峰秀子さんのあるエッセイの話です。
前からずっと探していたエッセイなのですが、ふつうに手に入る文庫の中に収められていることをつい最近知って、あわてて手に入れて読みました。『おいしい人間』(文春文庫)という本に収められています。

エッセイの始めの方にこんな言葉が出てきます。
「この世で、私が会いたい人って、誰だろう?」

このエッセイは高峰秀子さんがこの世で一番会いたいと思っている(思っていた)人の話なんですね。このあと、こう言葉が続きます。
いっしょうけんめいに考えた揚げ句に浮んだ私の「会いたい人」は、なんと、「内田百閒」というガンコオヤジただ一人であった。

そう、これは高峰秀子さんが内田百閒について書いた話。高峰秀子さんが一番会いたい、というか、ただ一人会いたいと思う人が内田百閒だったんですね。このエッセイは昔、旺文社文庫から出ていた平山三郎編『回想の百鬼園先生』にしか収められていないものだと思っていて、それをずっと探し続けていたんですが。

高峰さんが百閒に興味を持ったきっかけは昭和13年、彼女が14歳の時に出演した『頬白先生』という映画だったとのこと。「頬白先生」とは内田百閒のこと。高峰さんは百閒の娘役で出演しているんですね。高峰さんはおそらくこの映画の出演が決まって百閒を読んだんでしょうね。で、百閒の作品に夢中になったそうです。14歳で百閒の作品を夢中で読んでいたなんてすごいですね。
ちなみにその『頬白先生』の映画で「頬白先生」、高峰さんの父親である百閒の役をしていたのが古川ロッパ。”ある方”とも関わりの深い人ですね。

高峰さんはこの映画で琴を弾くシーンがあるのですが、そのシーンのために琴の指導をしたのが百閒とも関わりの深い宮城道雄。このエッセイで高峰さんは宮城道雄のことを「内田先生も書かれているように、私も、あんなに『カンの悪い盲人』に出会ったのは初めてだった」と書いています。それは宮城道雄のあの不幸な事故につながる話ではあるのですが。

そういえば僕が今はなき万歩書店平井店で、初めて買った百閒の本が『いささ村竹』でした。万歩書店平井店は百閒の生家のすぐ近くにあったので百閒の本がずらっと並んでいたのですが、その中で「いささ村竹」という言葉に反応したんですね。例の有名な和歌に出てくる言葉で、あの和歌には昔から心惹かれるものがありました。
その『いささ村竹』という随筆集に収められた表題作でもある「いささ村竹」はこんな言葉で始まります。
わが宿のいささむら竹ふく風の音のかそけきこの夕かも、と云う歌が私は好きで、又宮城道雄検校もこの歌が好きである。

このとき僕は宮城道雄という盲人の検校が内田百閒と親しい人であることを知ったのですが、そうしたら店長の中川さん(古書五車堂の店長ですね)が百閒の「東海道刈谷駅」の話を教えてくれたんでした。宮城道雄の列車転落事故の話ですね。それからしばらく宮城道雄のことを調べたりもしました。

さて、ある日、この世で一番会いたい人が内田百閒であると気づいた高峰さんの話。どうしても一度でいいから百閒に会いたくなります。と言っても何か働きかけをするわけでもなく会いたいという気持ちで何年間を過ごします。この頃の高峰さんの気持ちはこんなふうに書かれています。
私はだんだんと、内田先生に会いたい、と思うようになった。そして、一度お伺いの手紙を出してみようか? と考えはじめた。けれど、テキは世に有名な「禁客寺」の主である。寝不足でヘソの曲がっている日などに、吹けば飛ぶような私などがノコノコ出向いて行って、あの大目玉で睨まれてはたまったものではない。けれど、愛猫「ノラ」の失踪を悲しんで昼も夜もベショベショと泣き暮らし、体重が二貫目もへっちまった、という、人並みはずれた優しいところもあるらしいから、もしかしたら大丈夫かも? と私の心は千々に乱れてウロウロしている間に、早くも一、二年が経ってしまって、百閒先生は七十歳を越えてしまわれた。

で、どうやら昭和50年頃、つまり高峰さんも50歳を過ぎてしまったある日、ついに百閒に一度でいいからお目にかかりたいとの手紙を書いて出します。
すると2週間くらいして小さな律儀な字で「内田榮造」と裏に書かれた封筒が高峰さんのところに届きます。実は高峰さんはこの手紙を大事にしすぎてどこかへいってしまったとのこと。でも、手紙は何度も何度も読んだので、文章は完璧に暗記しているんですね。女優だから当たり前なんでしょうね。その百閒から高峰さんに書かれた手紙というのが笑えます。
「……あなたとは、以前に一度、どこかの雑誌社から対談をたのまれたことがありました。その対談は、なにかの理由でお流れになりました。
そういうこともあったので、私もあなたにお目にかかりたいと思います。しかし、私の机の上にはまだ未整理の手紙が山積みになっており、また、果たしていない約束もあります。これらを整理している内に間もなく春になり、春の次ぎには夏が来て、夏の次ぎには秋が来て、あなたと何月何日にお目にかかる、ということをいまから決めることは出来ません。どうしましょうか。    内田榮造」
  
結局高峰さんはこの手紙を「愛想のいい断りの手紙」と判断して会うことをあきらめます。

高峰さんのこのエッセイのタイトルは「夏のつぎには秋が来て」。百閒から来た手紙からとられているんですね。七五調の素敵な言葉です。

そうですね、いつかいつかとおもっているうちに「夏のつぎには秋が来て」と季節は次々に移り変わります。ちなみにお誘いをいただいた”ある方”は百閒とは違って「禁客寺」とはかけはなれたお店をされています。

ところで、『頬白先生』って、現在DVDにもなっていないみたいですね。一度ぜひ見てみたいと思っているのですが。フィルムは存在するのでしょうか。
ネット上に『頬白先生』の一場面と思われるロッパと高峰秀子さんがあったので、ちょっとお借りして貼らさせていただきます。
夏のつぎには秋が来て_a0285828_1051254.png

Commented by 39nemon at 2013-07-27 00:14 x
そういうことだったのですね。是非お誘いに乗って欲しいものです!
by hinaseno | 2013-07-26 10:54 | 文学 | Comments(1)