今日は6月29日。
今から68年前に岡山大空襲があった日です。
これを書いているのは朝の8時。
かろうじて空襲から逃れ、まさに「九死に一生を得た」荷風は、今頃雨の中を途方に暮れながら下伊福町の池田優子さんの家をめざして焼け野原になった岡山の街を歩いていたんでしょうね。
家族とはぐれてしまった僕の父親は、もしものときに避難する場所として決めていた、市内から相当離れた田舎の町にある家に、おそらくは家族の中で一番早く到着して、他の家族がやってくるのを待っていたか、あるいは家族全員の無事の再会を喜び合っていた頃かもしれません。
でも、考えてみると、以前父親から聞いていた、旭川沿いの土手を歩いて行く父親の後をずっと追いかけてきて、振り返った父親(もちろん当時は子供)を見て、「なんだ、子供か」と言った老人が荷風であればとずっと思い描いていたのですが、そのとき荷風は父親が逃げていた旭川西岸の土手ではなく旭川東岸の西大寺に向かう道にいたわけで、荷風と父親が言葉を交わしていたのではという夢のような妄想は打ち砕かれてしまいました。
でも、すぐ近所に住んでいた半月ほどの間、二人はきっとどこかで出会っていた気がします。
荷風は何度も旭川沿いを歩いていますし、父親は川遊びが大好きだったみたいですから。
ところで、阿部雪子の話。
昨日、僕にとっては衝撃であった荷風とのツーショットの写真のことに触れましたが、実はそれは数年前に出た永井永光著『父荷風』にすでに収められていたんですね。高橋さんが”発掘”したわけではなかったんですね。図書館に行って調べたらきちんと載っていました。
『父荷風』では、その写真の掲載されたページで阿部雪子に関してこう書かれています。
高橋英夫の『文人荷風抄』によると、阿部雪子は最初は人に頼まれて荷風の家に家事の手伝いをする形で行ったようです。
阿部雪子を紹介したのはどうやら林龍作というヴァイオリニスト。菅原明朗の友人だったようです。林龍作は戦前まで神戸女学院の教授をされていたようです。神戸女学院といえば内田樹先生が長年勤務されていた大学ですね。
林龍作は関西と関東に拠点を持っていたようで、『文人荷風抄』には書かれていませんが、『断腸亭日乗』に記載されている関東の住所は「目黒区洗足」。調べてみると阿部雪子の住所である「大森区南千束」のすぐ近くですね。
阿部雪子と林龍作はどういう関係だったかはわかりません。でも、付き合っている女性をいくら荷風とはいえ(いや荷風だからこそと言えるのかもしれませんが)家事の手伝いとして紹介するとは思えないですね。ただ、阿部雪子は何らかの形で音楽に触れていた可能性が高そうで、音楽を通じて何らかの接点を持っていたのかもしれません。で、その関わりの中で彼女に対して人として信用のおけるものを感じたからこそ荷風に紹介したんでしょうね。
でも、結局彼女は荷風の家の家事を手伝う人ではなく、荷風からフランス語を学ぶ弟子になります。同居する人に声も届かないくらいに小さな声でフランス語をささやき合う関係に。
今から68年前に岡山大空襲があった日です。
これを書いているのは朝の8時。
かろうじて空襲から逃れ、まさに「九死に一生を得た」荷風は、今頃雨の中を途方に暮れながら下伊福町の池田優子さんの家をめざして焼け野原になった岡山の街を歩いていたんでしょうね。
家族とはぐれてしまった僕の父親は、もしものときに避難する場所として決めていた、市内から相当離れた田舎の町にある家に、おそらくは家族の中で一番早く到着して、他の家族がやってくるのを待っていたか、あるいは家族全員の無事の再会を喜び合っていた頃かもしれません。
でも、考えてみると、以前父親から聞いていた、旭川沿いの土手を歩いて行く父親の後をずっと追いかけてきて、振り返った父親(もちろん当時は子供)を見て、「なんだ、子供か」と言った老人が荷風であればとずっと思い描いていたのですが、そのとき荷風は父親が逃げていた旭川西岸の土手ではなく旭川東岸の西大寺に向かう道にいたわけで、荷風と父親が言葉を交わしていたのではという夢のような妄想は打ち砕かれてしまいました。
でも、すぐ近所に住んでいた半月ほどの間、二人はきっとどこかで出会っていた気がします。
荷風は何度も旭川沿いを歩いていますし、父親は川遊びが大好きだったみたいですから。
ところで、阿部雪子の話。
昨日、僕にとっては衝撃であった荷風とのツーショットの写真のことに触れましたが、実はそれは数年前に出た永井永光著『父荷風』にすでに収められていたんですね。高橋さんが”発掘”したわけではなかったんですね。図書館に行って調べたらきちんと載っていました。
『父荷風』では、その写真の掲載されたページで阿部雪子に関してこう書かれています。
ところで、素性も何もよくわかりませんが、よく見かけましたので、気になった女性がいました。それが阿部雪子さんです。荒川の下流の葛西橋が、まだ古い木の橋のころに荷風といっしょに写っている写真があります。阿部さんと荷風の関係はよく聞かれまして、いろいろ調べたのですが、結局わかりませんでした。
荷風が亡くなる少し前まで、阿部さんは小山さんとも何回か来ています。上野の博物館に勤務していたころでしょうか。阿部さんが来て離れの部屋に入ってしまうと、音もしなければ声もしない。一時間か二時間いて、すっと帰っていくのです。何をやっているのか、まさか荷風のように覗くわけにもいきませんでした。
ともかく不思議な人でした。「日記」を見ると、かなり頻繁に来ています。あまり荷風のタイプではなかったと思いますが。
高橋英夫の『文人荷風抄』によると、阿部雪子は最初は人に頼まれて荷風の家に家事の手伝いをする形で行ったようです。
阿部雪子を紹介したのはどうやら林龍作というヴァイオリニスト。菅原明朗の友人だったようです。林龍作は戦前まで神戸女学院の教授をされていたようです。神戸女学院といえば内田樹先生が長年勤務されていた大学ですね。
林龍作は関西と関東に拠点を持っていたようで、『文人荷風抄』には書かれていませんが、『断腸亭日乗』に記載されている関東の住所は「目黒区洗足」。調べてみると阿部雪子の住所である「大森区南千束」のすぐ近くですね。
阿部雪子と林龍作はどういう関係だったかはわかりません。でも、付き合っている女性をいくら荷風とはいえ(いや荷風だからこそと言えるのかもしれませんが)家事の手伝いとして紹介するとは思えないですね。ただ、阿部雪子は何らかの形で音楽に触れていた可能性が高そうで、音楽を通じて何らかの接点を持っていたのかもしれません。で、その関わりの中で彼女に対して人として信用のおけるものを感じたからこそ荷風に紹介したんでしょうね。
でも、結局彼女は荷風の家の家事を手伝う人ではなく、荷風からフランス語を学ぶ弟子になります。同居する人に声も届かないくらいに小さな声でフランス語をささやき合う関係に。