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by hinaseno
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荷風を見えない力で呼び寄せた場所の話(2)


大学時代、専門とは別に、可能な限り考古学の授業をとっていました。好きだったんですね。
お目当てはやはり近藤義郎先生。その道の大家でしたから。その考古学の授業で近所の遺跡をめぐったり、ときには発掘作業を手伝ったりしていました。

吉備の巨大古墳である造山古墳、作山古墳もたぶん行ったはず。で、楯築遺跡にも行ってるんですね。当時はまだ発掘調査が進んでいた時期だったと思います。
あの立石のある広場にぐるっと学生を座らせて近藤先生が話をされていたように思います。その段階でどれほどのことが明らかになっていて、どんな内容のことを語られたのかは全く記憶がありません。ただ覚えているのは、その遺跡が考古学的に”とてつもない”ものになるだろうということと、その場所がとても気持ちのいい場所だったということ。でも、その後、他のものへの関心が移る中で楯築遺跡のことをすっかり忘れていまったのですが。

いったい楯築遺跡の研究はどこまで進んでいるのかと思い、ネットで調べたら結構びっくりするような言葉がいくつも。その多くはあの卑弥呼、邪馬台国につなげられた言葉。果して近藤先生はそこまでのことを語られていたんだろうかと思い、近藤先生の『楯築弥生墳丘墓』(2002年)と、それから近藤先生が序文を書かれている薬師寺慎一著『楯築遺跡と卑弥呼の鬼道』(1995年)を読んでみました。いずれも吉備人出版。考えてみたらここで岡山関係のことを調べようと思って見つけたものはほとんど吉備人出版の本ですね。岡山の出版社で、知ったのはつい最近なのですが、その充実したラインナップには感心します。岡山文庫だけではないんですね。

さて、近藤先生の『楯築弥生墳丘墓』。かなり高齢になって書かれているのですが(どうやらこの前年にパソコンを人にもらって初めてそれを使って書いたとのこと)、読み始めてすぐに”あの頃”と変わりない近藤先生の姿が蘇ってきました。自分のことを「僕」と表現されているのが、いつまでたっても若さを失われていない感じがしてうれしくなりました。

最後に載っている著者紹介の言葉が最高に近藤先生らしくっておもしろかったので引用します。ご自分で書かれたんでしょうね。
1925年足利市に生まれる。栃木・東京・京都で遊び、1950年春岡山に移住し、宿を替わること約10回。女房と倅2人。発掘した遺跡約100余、うち世に「大?発掘」といわれるものは月の輪古墳(1953年)・喜兵衛島土器製塩遺跡(1954年〜1964年)・楯築遺跡(1976年〜1989年)である。1990年の岡山大学退官後、年金を得、遺跡歩き、小説よみ、雑文書きに過す。

と、まあこんな感じなのですが、本の内容は近藤先生らしく(その発掘調査で行なった気の遠くなるような作業と同様に)慎重に言葉を選ばれています。素人であればぱっと飛びついてしまいたくなるような気持ちを抑えて、あくまで発見されたもので言いうることだけを語られています。

ただ、極力センセーショナルな言葉を避けているけれども、結論的に言えばそれは近藤先生も書かれているように「大変な遺跡」であることは間違いないようです。

でも、”大きな”話に飛びつきたくなる要素はありすぎますね。
温羅伝説のもとになっている『古事記』に記されている大和朝廷が吉備を征服したのとは全く逆のストーリー、つまり吉備の勢力が大和に入って行ったというストーリー。そこまではいかないにしても、あの卑弥呼の古墳と考えられている箸墓とのつながりは心ときめくものがあります。

楯築墳丘墓(弥生時代なので古墳とは言わないんですね。どう見ても古墳なのですが)は弥生時代後期、つまり古墳時代が始まる直前の、日本最大の墳丘墓。それはまさに邪馬台国の時代。墳丘墓の形も前方後円墳の原型のようにみえる。棺に納められた人物は副葬品から見ると女性の可能性が高い。そこで発見された吉備地方特有の祭祀用に使われた特殊器台、特殊壷はあの最古期の前方後円墳で、卑弥呼の墓と言われている箸墓でも発見されている。
でも、近藤先生は形についても「一見前方後円墳『前方部』思わせる規模と整然とした形態をも」っていて、「他の弥生墳丘墓に類を見ない構造物」と語られるのみ。あるいは特殊器台、特殊壷についても、ある段階で大和に入り、のちに円筒型埴輪・朝顔型埴輪として全国に及んだとされているだけ。
もっとセンセーショナルな言葉を期待して読んだ人は肩すかしを喰らった気持ちになるのかもしれません。今の時代の学者であれば、すぐに...あっ、やめておこう。

さて、その近藤先生が序文を書かれている薬師寺慎一著『楯築遺跡と卑弥呼の鬼道』。こちらは吉備津にお住まいの研究者。その手のものを期待する人にとってはこちらの方を面白く読まれるのかもしれません。
僕も興味深く読みましたが、一番面白かったのは近藤先生の序文でした。薬師寺さんは近藤先生と1年間ほど大学で一緒に学ばれていた人とのこと。

近藤先生の序文はいきなりこんな言葉から始まります。
「なんとも不思議な本である」
で、さらにこう言葉は続きます。
「まず楯築を三世紀における倭の最大の墓、さればそこに葬られた首長は倭の最強最大の有力者、それは卑弥呼であると力説する。とすれば邪馬台国は吉備にあったのではないかと思い、『魏志倭人伝』に記事から、卑弥呼もそしておそらくは楯築の主も、鬼道と呼ばれる道教に通じていたに違いないと確信する」
「最後に筆者は楯築を中心とする備中地域で成立・展開した特殊器台を取り上げ、その最新型式の「宮山型」が最古型式の前方後円墳である奈良県桜井市の箸墓古墳などからも発見されることを重視し、『吉備の勢力が大和に入って、古墳を造った』と確信するのである。『楯築の後裔』はついに大和に入ったのである」

薬師寺さんの書かれていることの説明を、かなり距離を置いてされていることがわかります。この薬師寺さんの書かれていること、飛びつきたくなりますし、実際、学者の方でも最近同じようなことを語られている人がいます。でも、近藤先生は学者として越えてはいけないものを大学を退官された後も持ち続けられているんですね。

序文の最後ではこう書かれています。
「僕はこの本を原稿の段階で読ませていただき、天馬空をかける著者の自在な発想に、思わず手を差し延べ、あるいは寂として佇み、不思議な想いに耽った。いつの日か僕が考古学者をやめるときがきたら、道教とは別の道を通ってでも自由に羽ばたいてみたい気がする」

僕自身は吉備の人たちが大和に入ったとしても、その大和朝廷の帝国主義的なスタイルと吉備国のイメージは合わないような気がします。箸墓との関連は興味をものすごくそそられますが。

近藤先生は残念ながら4年前に亡くなられています。
僕が授業で聴いていた頃、宮内庁が陵墓を公開しないことに対して何度も怒りの言葉を口にされていたように思うのですが、その宮内庁が今年、箸墓を公開したんですね。といっても端っこの方をちょこっと歩かせただけという感じですが。
僕がそのニュースを見たときに一番に思ったのは前方後円墳の成立の研究をずっとされていた近藤先生のことでした。ああ、その場に近藤先生に行ってもらいたかったと。あまりにも遅すぎると。

最後に「荷風を見えない力で呼び寄せた場所の話」というタイトルのことにつなげて言えば、楯築の墓に葬られた人は、卑弥呼であるかどうかは別として、なんとなく女性の首長であったと考えてみたいですね。
荷風を見えない力で呼び寄せた場所の話(2)_a0285828_11134825.jpg

by hinaseno | 2013-06-27 11:15 | 文学 | Comments(0)