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by hinaseno
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『罹災日録』―真実の『断腸亭日乗』(4)


『罹災日録』―真実の『断腸亭日乗』(4)_a0285828_1255466.jpg

岡山空襲の日の、正確には空襲以後のことが記された昭和20年6月29日の『断腸亭日乗』を全文引用します。
六月廿九日 雨歇まず。焼残りし町を過ぎ下伊福四三三池田の家に至るにこゝも亦焼かれゐたり。されどあたりは曠然たる畠地にて池田の母子一同近鄰の家に避難しゐたり。午後明石より帰来りし菅原永井智子の二人と偶然池田の許にて邂逅することを得たり。

6月28日の『断腸亭日乗』と同様、書かれているのはほんの100字余り。でも、『罹災日録』には、やはり前日同様にかなり多くのことがこと細かに記されています。メモにはこの日のことが詳細に書かれていたことがわかります。

6月29日の『罹災日録』は河原の風景から始まります。
河原には避難の人多からず。流をわたりて対岸に行くものあり。対岸より此方の草原に来るものあり。砂上に集まりて物喰ふ家族もあり。暁風の冷なる事秋の如し。

この荷風が疲れを癒した旭川の東岸の河原は果してどのあたりになるんでしょうか。
前日の日記の最後には「来路を歩み再び旭川の堤上に出づ。対岸市街の火は今正に熾なり。徐に堤を下り河原の草に坐して疲労を休む」と書かれています。蓬莱橋も鶴見橋も空襲の被害を受けていないので、もし、蓬莱橋近くの河原であれば、流れを渡って対岸(西岸)に行ったり、あるいは対岸から荷風のいる東岸に来る人がいるはずはありません。また、被害の大きい南の方に向かったとは思えません。
おそらくは蓬莱橋のある場所よりもかなり北の方。つまり6月28日の『断腸亭日乗』に書かれている「鉄橋に近き河原」だったのだろうと思います。『罹災日録』には「鉄橋」という言葉は出てきませんが、メモには「鉄橋」近くの河原で体を休めたことが書かれていたはず。
このあたり、実際にはメモを見なければわかりませんが、かなり細かい内容のことが書かれていたであろうことが推測できます。ただ、『断腸亭日乗』を浄書する段階ではそれをまとめて文章化することができなかったんでしょうね。で、『罹災日録』を書くときに、特にこの6月28日と29日に関しては『断腸亭日乗』の浄書された文章を見ることもなく、改めてメモを見て書き直しをしたんだと思います。結果的に『罹災日録』には出て来なかった「鉄橋」という言葉が『断腸亭日乗』の方に残された。
このあたりのこと、できればその日のメモを見てみたいですね。
ちなみに東京大空襲の日のことが書かれた昭和20年3月11日の手帳のメモはこんな感じになっています。
『罹災日録』―真実の『断腸亭日乗』(4)_a0285828_12573237.jpg


おそらくほとんどの人にとって、荷風が行った河原が旭川の西岸であろうが東岸であろうが、あるいは蓬莱橋から南の方であろうが、あるいは北の鉄橋近くであろうが何の関係のないことだと思います。でも、僕にとっては小さくはないこだわりがあるんです。このブログを以前から読んでいただいている方にはわかっていただけるかもしれませんが。

「路傍の樹下に蹲踞して」いた場所(現在の中区浜3丁目あたり)以降の荷風の足どりを地図で確認します。
『罹災日録』―真実の『断腸亭日乗』(4)_a0285828_12584342.png

荷風は緑色の矢印で示したように、まず蓬莱橋のところまで戻り、対岸の市街地が激しく燃えているのを見て、さらには、次なる空襲が起こる可能性も考えて、旭川の土手沿いに、なるべく家の建っていない北の方へ向かい、緑の丸印で示した山陽本線の鉄橋近くの河原で体を休めたのだろうと思います。もしかしたら鉄橋を越えて百間川に分岐するあたりの場所まで行っていたかもしれません。

この土手沿いの経路は、まさに、4か月ほど前に僕がこのブログで書いた、単なる希望的妄想に過ぎなかった『旭東綺譚』とぴったり重なっているんですね。
ほんの1km余りの距離ではあるのですが、妄想と現実が一致していたんです。

『旭東綺譚』の妄想と重なるといえば、もうひとつ興味深いことがこの日の『罹災日録』に書かれていました。

突然雨が降り出すんですね。
『旭東綺譚』を書き始めたとき、僕は『濹東綺譚』のあの有名な場面をどこかに入れようと思って、どこかで雨を降らせようと考えました。で、その場所として地図を見ながらイメージしたのがまさに旭川の東岸の山陽本線の鉄橋付近でした。
『罹災日録』を引用します。
忽ちにして雨降り来りて居るべからず。堤に登り歩むこと二三丁。門構の家あるを見其軒下に立ちて雨を避く。門内にも雨を避くるもの数人あり。巡査も亦走り来りて入口に憩ふを見る。時間を問ふに六時を過ぐと言へり。予は雨の小降りとなるを窺ひ出でゝ旭橋に至り、対岸の烟を見るに、火勢も稍衰へしが如し。

ネット上で見ることができた岡山空襲の日の体験談を調べたら、やはり空襲がおさまってしばらくしてから雨が降り出したことが書かれていました。

旭川の東岸を北に向かって歩む、そして鉄橋付近で雨が降り出す。
妄想が現実と一瞬だけ重なっていたんですね。

残念ながら荷風は『旭東綺譚』のように、百間川の土手を東に向かって歩いたのではなく、蓬莱橋と鶴見橋(荷風は旭橋と表記しています)の方に戻ります。
そのとき、荷風の目にはかろうじて空襲の被害を免れた塀井の塔が真正面に見えていたにちがいありません。
『罹災日録』―真実の『断腸亭日乗』(4)_a0285828_2319220.jpg

by hinaseno | 2013-06-22 13:04 | 文学 | Comments(0)