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by hinaseno
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『罹災日録』―真実の『断腸亭日乗』(3)


『罹災日録』―真実の『断腸亭日乗』(3)_a0285828_1045493.jpg

爆弾の雨が降り注ぎ、あちこちで火の手が上がって行く市街地を避け、旭川の東にわたり、百間川の方へとまっすぐに延びる道(この道は現在の国道402号線の50メートルほど南を走っている道と思われます)を逃げて行った荷風。

しかしながら、その荷風の歩みを阻んだものがありました。
荷風の目の前に爆弾(焼夷弾)が落ちたんですね。まるで逃げ延びようとする荷風たちの進路を遮断するかのように。あるいは逃げ延びようとする荷風たちをねらったかのように。

『罹災日録』はこう続いています。
焼夷弾前方に落ち農家二三軒忽ち火焔となり牛馬の走り出でて水中に陥るものあり。予は死を覚悟し路傍の樹下に蹲踞して徐に四方の火を観望す。前方の農家焼け倒れて後火は麦畑を焼きつゝおのづから煙となるを見る。

「予は死を覚悟し路傍の樹下に蹲踞して徐に四方の火を観望す」
『罹災日録』を初めて読んだとき、最も衝撃を受けたのはこの言葉でした。東京大空襲以降、何度かの空襲にみまわれた荷風でしたが、「死を覚悟」したことが書かれているのをみるのは初めてでした。逃げ場を失っているんですね。しかも上空には戦闘機が焼夷弾の雨を降らせている。

『断腸亭日乗』では荷風は旭川の「河原の砂上に伏して」いたとが書かれていましたが、実際には旭川を渡って東に延びている道の途中の「路傍の樹下に蹲踞して」いたんですね。「死を覚悟」して。

前方にも後方にも焼夷弾による火の手があがっている。次には自分の真上に爆弾が落ちて来るかもしれない。このときの荷風の恐怖は想像するに余りあります。この恐怖の体験は荷風が戦時中に受けたものの中で最も大きなものだったんではないでしょうか。
これ以後、荷風がしばらくの間「恐怖症」に陥ったこともわかりますし、精神的な力がない中で文章化するのも困難であったことも推測できます。ただおそらく荷風が常時持参していたメモにはかなり克明に記載されていたことは間違いないですね。

果して荷風が「路傍の樹下に蹲踞して」いた場所はどこなんだろうと考えました。

岡山空襲の被害地域を示した地図がどこかにないかと探していたら、国会公文書館のサイトに「戦災概況図岡山」と題された、かなり詳細な地図がありました。
これが被害状況を示した全体の地図です。
『罹災日録』―真実の『断腸亭日乗』(3)_a0285828_9435786.png

基本的には旭川の西岸の市街地が真っ赤になっているのですが、東岸でも赤く塗られた地域があります。小川洋子さんの実家のある森下町や内田百閒の生家のある古京町あたりから門田屋敷にかけても真っ赤に塗られています。

で、その上の方に飛び飛びに赤く塗られた部分があります。まさに荷風が逃げていた場所です。
そののあたりを拡大したものがこれです(青い線は近くを流れている川)。
『罹災日録』―真実の『断腸亭日乗』(3)_a0285828_9552177.png

荷風が逃げたはずの進路上に赤く塗られた場所が2か所。一つは浜(現在の岡山市中区浜)にある現在の操山高校の南あたり。調べたら操山高校は空襲で60%ほど焼けたとのこと。それからその西の原尾島辺りにも赤く塗られた場所が広がっています。荷風が落下するのを目にした焼夷弾による火災はおそらくこのどちらかだと思います。この2カ所の距離を考えると同じ戦闘機から落とされた小型の焼夷弾による火災が二手に分かれて起こった可能性もありますね。水を張った水田に落ちたものは燃え上がらなかったんでしょう。

荷風が「路傍の樹下に蹲踞して」いた場所を知る手がかりとなるのはこの2つの言葉。
焼夷弾前方に落ち農家二三軒忽ち火焔となり牛馬の走り出でて水中に陥るものあり

前方の農家焼け倒れて後火は麦畑を焼きつゝおのづから煙となるを見る

荷風が逃げている「前方」、つまり東の方向にある農家が焼けて、そこから牛馬が逃げ出して水中、つまり川に落ちたことが書かれています。
上の地図に青い線で示しているのは、荷風の逃げた道沿いにある川です。
操山高校付近の家は密集していて農家という感じではありません。おそらく燃えた農家は原尾島あたりで赤く示された中にあったのではないかと思います。牛馬が落ちた水中は、そこから南西に延びている川ではないでしょうか。

そして後方にも火が見える場所となると、荷風が「路傍の樹下に蹲踞して」いたのは、だいたい地図で赤の丸で囲んだこの辺りになるように思います。
『罹災日録』―真実の『断腸亭日乗』(3)_a0285828_1081340.png

現在の地名でいえば岡山市中区浜3丁目と原尾島3丁目の境目あたりになるでしょうか。

と、このあたりをGoogleマップで何度か見ているうちに、ふと思いあたることがありました。ちょっと前にそのあたりを別のことでチェックしていたことがあったので。
ああ、やはりそこは岡山市中区浜3丁目。驚きました。なんという偶然なんだろう。

このブログで以前何度か書いたことのある岡山に戻ったら立ち寄っていた万歩書店平井店。
実はその店は今年の3月末で閉店したのですが、そこの店長だった中川さんが今月新しい店を始められたんですね。名前は『古書五車堂』。今度岡山に帰ったときには伺うつもりでいるのですが、そのお店の場所がまさに岡山市中区浜3丁目。その辺りは行ったことがなかったので、はがきをもらったときに一度Googleマップで確認していたんです。いやはやなんとも。

でも、本当にいい場所ですね。すぐ南には安住院の多宝塔(瓶井の塔)が見えて、もと西大寺鉄道の後楽園駅に建てられた夢二郷土美術館、あるいは内田百閒や小川洋子にゆかりのある場所にも近い。そしてそこは何よりも荷風の身を最終的に守った「旭東」の地。
もちろんさすがの中川さんも、店を始められた場所のすぐ近く(もしかしたらまさにその場所だったかもしれませんね)に荷風がその日やって来ていたなんてご存じなかったと思いますが。

さて、(実際には6月29日の出来事を書いた) 6月28日の『罹災日録』はこの後もう少しだけ続きます。
空中の爆音も亦次第に遠し。即ち立つて来路を歩み再び旭川の堤上に出づ。対岸市街の火は今正に熾なり。徐に堤を下り河原の草に坐して疲労を休むるに、天漸く明し。

岡山大空襲が終わったのが午前4時7分。空襲が終わったのを見計らって荷風は旭川の堤に戻っています。ただ、橋を渡って対岸、つまり旭川の西の市街地の方へは行かず、堤から河原に降りて行って一休みしています。

荷風が確かに旭川の河原に降りていました。でも、それは西岸ではなく東岸だったんですね。
by hinaseno | 2013-06-21 10:11 | 文学 | Comments(0)