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by hinaseno

『雨月物語』の場所の話(3)


『雨月物語』を手にとって、それぞれの作品の舞台となっている地名をぱらぱらと見ていたときに、もう一つ驚いたのが「浅茅が宿」でした。『雨月物語』は死者がいろんな形で登場するのですが、こちらは切なくなる話。深く心に残る話でした。

この「浅茅が宿」の舞台となっている場所はあとで書くとして、『雨月物語』に収められた全ての作品を読み終えて思ったのは、「吉備津の釜」と「浅茅が宿」がとびぬけておもしろいということでした(もう一つ挙げるならば「菊花の約」)。

実はこの『雨月物語』を半分くらい読んだとき(まだ、「吉備津の釜」は読んでいませんでした)、ふと内田樹先生が村上春樹の新作『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』の解説をどこかに書いていたこと、そして確かそれが『雨月物語』に触れた内容であることを以前に目にしていたので、それがどこかに発表されているのだろうかと調べたら、『文學界』の6月号に掲載されていることがわかりました。

読んでびっくりしました。こんな言葉があります。
私はそのような立場から村上春樹の『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』を読んだ。そして、それが上田秋成の『雨月物語』の直系の系譜につらなる怪異譚であり、読者が覗き込むことになる「闇」は『吉備津の釜』や『浅茅が宿』を読んだときに私達が覗き込むことになる「闇」とほとんど同質のものだという仮説を得た。

この仮説をもとに内田先生の論考が進められます。
ただ『雨月物語』ではなく、その中の「吉備津の釜」と「浅茅が宿」に限定されているのを見たときには軽い目眩すら覚えました。

僕の持っているちくま学芸文庫の『雨月物語』の「校注」を読んでわかったことですが、『雨月物語』はそれ以前に書かれた様々な作品――日本のものから中国のものまで――が織り込まれています。一つめの作品である「白峰」の最初の「校注」に次のような言葉がありました。
日本には昔から「本歌取(ほんかどり)」という和歌の方法が公認されていた。すでに存在している歌を踏まえて、字句や内容を転換し、新しい歌をつくるという方法である。『雨月物語』の方法は、散文における一種の本歌取である。こうした方法は、創作における「引用」と理解するのが正しいのである。

これを読んだとき、これと全く同じことをずっと以前に大瀧さんがどこかで語られていたと思い当たりました。「本歌取」という言葉も大瀧さん経由で知ったような気がします。記憶違いかもしれませんが。でも、大瀧さんは間違いなく”音楽における本歌取”の耐火であることは間違いのないこと。
調べてみたら内田先生も5年くらい前のこの日のブログでそれを書かれていました。

で、内田先生は『文學界』の書評でこう書いています。
本作(村上春樹の『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』)の「本歌」があるとすれば、それは秋成の『吉備津の釜』であろう。

ふるえました。でも、これを読んだ時は、まだ「吉備津の釜」は読んでいなかったのですが。

さて、話は「浅茅が宿」の舞台となっている場所のことに。「浅茅が宿」はこんな文章で始まります。
下総の国葛飾郡真間の郷に、勝四郎といふ男ありけり。

「真間(まま)」。
この地名はやはり荷風によって知ったばかり。「小商いのある風景」と題したこの日のブログで、荷風が晩年を過ごした千葉県市川市に流れている真間川のことを書きました。『葛飾土産』という素晴らしい随筆に出てくるんですね。
荷風が住んでいたのは市川市の菅野。真間はその西隣にある町。そして真間川は菅野と真間の北部を流れています。

「浅茅が宿」には真間川は出てきませんが、真間川か江戸川に流れ込む河口付近に広がっていた入江(「真間の入江」とよばれたんですね)の洲にかかっていた継橋(つぎはし)は出てきます。『万葉集』にも歌われた有名な橋とのこと。
それから「浅茅が宿」には手児奈という娘の伝説が出てくるのですが、荷風が真間川、あるいは真間のことを書いている『葛飾土産』をみると、荷風はその伝説のことを知っています。

ふと思ったのは荷風は上田秋成の『雨月物語』を読んでいたのだろうかということ。『断腸亭日乗』を見ると、上田秋成で読んだことが記されているのは『秋山の記』だけなのですが(『日乗』をかけ始める前の、ずっと若いときに読んでいただろうとは思います)。
でも、あるとき『雨月物語』を読んで、戦後に過ごすことになった岡山の笹ケ瀬川(足守川)の西の庭瀬のあたりと、真間川の南の菅野や真間が舞台になっていることを知ったら、成島柳北とのつながりとはまた別の形で驚いたような気がします。

それにしても僕の持っている岩波書店の『荷風全集』の第十九巻には笹ケ瀬川(足守川)の西の物語である『問はずがたり』と真間川の南の物語である『葛飾土産』が一緒に収められているというのはたまらないですね。しかもこの中にはカラマズーの思い出を書いた『亜米利加の思出』もあるのですから。

荷風は晩年を過ごした真間川の南のあたりの場所も、万葉集の歌われたり伝説があったりと、物語を生み出すような土地の力があったんでしょうね。そういうものを荷風も感じとったからこそ、荷風は結局東京に戻ることなく、そこに最後まで住み続けたのではないかと思います。

というわけで、『雨月物語』にふれたこの話のシリーズは、村上春樹の『国境の南、太陽の西』にかけて、「真間川の南、笹ケ瀬川の西」というタイトルにしようと思ったのですが、それではネタバレになってしまうのでやめました。

最後に真間川のほとりに佇む荷風の写真を貼っておきます。満開の桜の木の下で撮られたものでしょうか。とってもいい写真ですね。岡山で撮られた写真が一枚でもいいからどこかにないのかな。
『雨月物語』の場所の話(3)_a0285828_9503811.jpg

by hinaseno | 2013-06-14 09:52 | 文学 | Comments(0)