上田秋成の『雨月物語』には僕にとっては興味深い場所がいくつか出てくるのですが、「吉備津の釜」についてもう少し。
「吉備津の釜」の主人公は、磯良という名のきれいな女性と結婚したにもかかわらず、別の場所に女性をつくり、結局その女性と彼女の里で暮らすようになります。その場所が「播磨の国印南郡(いなみのこおり)荒井」。
播磨というのは今住んでいる姫路を含めた兵庫県の南西部。印南郡(いなみのこおり)は「いんなみぐん」という名で昭和の時代までは存在したみたいです。現在は加古川市や高砂市、一部は姫路市になっています。荒井は現在も高砂市に名前が残っています。成島柳北も庭瀬の船で岡山に向かうときに、有名な高砂の松を船から眺めています。
実は印南郡、ちょっと前に調べたことがありました。このブログを始めて最初の方に書いた木山捷平の姫路で「たった一人の友」である大西重利という人が印南郡の小学校に勤めていたことがあり、おそらくは印南郡のどこかに住んでいただろうというところまではつきとめたのですが、そこで行き詰まってしまいました。
『雨月物語』の挿絵に描かれている、この背筋が凍る絵の場面も印南郡。
というわけで「吉備津の釜」は姫路をはさんで、西は岡山の庭瀬、東は印南郡と、僕にとってかなり気になる場所が舞台になっているんですね。
話はちょっとだけそれますが、庭瀬のことをいろいろ調べていたら、社会の教科書にも写真付きで載っている有名な人がここの出身地であることを先日知りました。
犬養毅。
昭和7年に起こった五・一五事件で暗殺された首相ですね。岡山出身の人であることはもちろん知っていましたが、庭瀬の人であったとは、結構びっくりでした。
さて、「吉備津の釜」にはもう少し僕にとって興味深いこととのつながりがありました。以前このブログでも書いた大切な場所(建物)とのつながり。
「吉備津の釜」の主人公を紹介する次の部分。
「吉備津の釜」の主人公はこの庄太夫のひとり息子の庄太郎なのですが、井沢庄太夫は語釈を見ると架空の人物。でも、播磨の国の赤松という豪族は実在しています。中世に播磨だけでなく備前や美作など岡山の方まで支配していた豪族。
「嘉吉元年の乱」というのは、室町時代の嘉吉元年(1441年)に赤松満祐が将軍足利義教を暗殺し、その後満祐は細川・山名などの足利側の連合軍にほろぼされて自刃することになった出来事とのこと。応仁の乱の少し前ですが、すでに戦国時代に入っているような感じ。
語釈に書かれたこのあたりのことを読みながら、ぴんとくるものがあったんです。「嘉吉元年」そして「足利義教」。で、調べてみたら、やはり。
室町幕府の六代将軍(くじ引きで将軍に選ばれたので「くじ引き将軍」と呼ばれたそうですね)である足利義教は教科書に載るようなめぼしいことをしたわけではないのですが、僕はあることでその名前を覚えていました。
この日のブログでも書いた熊山の山麓にある大瀧山福生寺。この寺(開祖は鑑真ですね)は足利将軍家の信仰が厚く、平安時代に焼失した寺を再興したのは初代将軍足利尊氏。そしてあの素晴らしき三重塔と作ることを命じたのが足利義教。建てたのがなんと嘉吉元年。義教は三重塔を建立した年に赤松に殺害されてたんですね。
大瀧山はその後、兵火にかかって本堂など多くの建物が焼失するのですが、三重塔だけは奇跡的に燃えないで残ります。調べたらこの兵火の原因となったのも赤松と山名の争い。幕府のあった京都からは遠く離れた山の中のお寺なのに、熊山という山も含めてここも何かをもっている場所なんですね。
それにしても「吉備津の釜」は昨夜も読み返したのですが(最初は現代語訳で読みましたが昨夜は原文で)、面白すぎます。もちろん磯良が老婆の姿となって現れるあの場面は何度読んでも恐いのですが。
で、昨夜思ったのは、もしかしたらどこかでだれかが書いているかもしれませんが、「吉備津の釜」の磯良は『国境の南、太陽の西』のイズミにつながるものがあります。「吉備津の釜」のあの場面は、『国境の南、太陽の西』の終わり頃に信号待ちをしているハジメの目の前に停まっていたタクシーの後部座席の窓から表情を失った顔でハジメを見つめていたイズミと間違いなく重なっています。
「吉備津の釜」の主人公は、磯良という名のきれいな女性と結婚したにもかかわらず、別の場所に女性をつくり、結局その女性と彼女の里で暮らすようになります。その場所が「播磨の国印南郡(いなみのこおり)荒井」。
播磨というのは今住んでいる姫路を含めた兵庫県の南西部。印南郡(いなみのこおり)は「いんなみぐん」という名で昭和の時代までは存在したみたいです。現在は加古川市や高砂市、一部は姫路市になっています。荒井は現在も高砂市に名前が残っています。成島柳北も庭瀬の船で岡山に向かうときに、有名な高砂の松を船から眺めています。
実は印南郡、ちょっと前に調べたことがありました。このブログを始めて最初の方に書いた木山捷平の姫路で「たった一人の友」である大西重利という人が印南郡の小学校に勤めていたことがあり、おそらくは印南郡のどこかに住んでいただろうというところまではつきとめたのですが、そこで行き詰まってしまいました。
『雨月物語』の挿絵に描かれている、この背筋が凍る絵の場面も印南郡。
というわけで「吉備津の釜」は姫路をはさんで、西は岡山の庭瀬、東は印南郡と、僕にとってかなり気になる場所が舞台になっているんですね。
話はちょっとだけそれますが、庭瀬のことをいろいろ調べていたら、社会の教科書にも写真付きで載っている有名な人がここの出身地であることを先日知りました。
犬養毅。
昭和7年に起こった五・一五事件で暗殺された首相ですね。岡山出身の人であることはもちろん知っていましたが、庭瀬の人であったとは、結構びっくりでした。
さて、「吉備津の釜」にはもう少し僕にとって興味深いこととのつながりがありました。以前このブログでも書いた大切な場所(建物)とのつながり。
「吉備津の釜」の主人公を紹介する次の部分。
吉備の国賀陽郡庭妹の郷に、井沢庄太夫といふものあり。祖父は播磨の国の赤松に仕へしが、去ぬる嘉吉元年の乱に、かの館を去てここに来り、庄太夫にいたるまで三代を経て、春耕し、秋収めて、家豊にくらしけり。
「吉備津の釜」の主人公はこの庄太夫のひとり息子の庄太郎なのですが、井沢庄太夫は語釈を見ると架空の人物。でも、播磨の国の赤松という豪族は実在しています。中世に播磨だけでなく備前や美作など岡山の方まで支配していた豪族。
「嘉吉元年の乱」というのは、室町時代の嘉吉元年(1441年)に赤松満祐が将軍足利義教を暗殺し、その後満祐は細川・山名などの足利側の連合軍にほろぼされて自刃することになった出来事とのこと。応仁の乱の少し前ですが、すでに戦国時代に入っているような感じ。
語釈に書かれたこのあたりのことを読みながら、ぴんとくるものがあったんです。「嘉吉元年」そして「足利義教」。で、調べてみたら、やはり。
室町幕府の六代将軍(くじ引きで将軍に選ばれたので「くじ引き将軍」と呼ばれたそうですね)である足利義教は教科書に載るようなめぼしいことをしたわけではないのですが、僕はあることでその名前を覚えていました。
この日のブログでも書いた熊山の山麓にある大瀧山福生寺。この寺(開祖は鑑真ですね)は足利将軍家の信仰が厚く、平安時代に焼失した寺を再興したのは初代将軍足利尊氏。そしてあの素晴らしき三重塔と作ることを命じたのが足利義教。建てたのがなんと嘉吉元年。義教は三重塔を建立した年に赤松に殺害されてたんですね。
大瀧山はその後、兵火にかかって本堂など多くの建物が焼失するのですが、三重塔だけは奇跡的に燃えないで残ります。調べたらこの兵火の原因となったのも赤松と山名の争い。幕府のあった京都からは遠く離れた山の中のお寺なのに、熊山という山も含めてここも何かをもっている場所なんですね。
それにしても「吉備津の釜」は昨夜も読み返したのですが(最初は現代語訳で読みましたが昨夜は原文で)、面白すぎます。もちろん磯良が老婆の姿となって現れるあの場面は何度読んでも恐いのですが。
で、昨夜思ったのは、もしかしたらどこかでだれかが書いているかもしれませんが、「吉備津の釜」の磯良は『国境の南、太陽の西』のイズミにつながるものがあります。「吉備津の釜」のあの場面は、『国境の南、太陽の西』の終わり頃に信号待ちをしているハジメの目の前に停まっていたタクシーの後部座席の窓から表情を失った顔でハジメを見つめていたイズミと間違いなく重なっています。