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Talks About Music, Books, Cinema ... and Niagara


by hinaseno
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岡山県人を主人公にした荷風の小説(最終回)


荷風は、はじめから岡山出身の人物を主人公にして小説を書いていたという甘美な推測に浸りながら、その裏付けとなるべきものはないかと探っていたら、『問はずがたり』に関するかなり詳しい解説を記した『荷風全集』の「後記」のあとに「校異表」というものが載っていました。『問はずがたり』に関しては、『ひとりごと』と題された荷風自筆の稿本が存在していて、それとの違いを一覧表にしたもの。そこには僕の甘美な推測をあっさりと打ち壊す事実が小さく示されていました。

まず最初に「岡山」の言葉が出てくる「上の巻」の「一」に出てくる次の箇所。
暫く岡山の郷閭に引込み、瀬戸内海の風光にも見飽きてから、一トしきり長崎の町はづれに卜居したこともあつた。

で、『ひとりごと』のこの部分の自筆稿本にかかれている言葉はこうなっていました。
一人内地の旅行に歳月を送り、一しきり長崎の町はづれに滞留してゐた事もあつた。

それからもう一つ「岡山」の言葉が出てくる「下の巻」の「一」に出てくる次の箇所。
――岡山の郷里と同じように――

その部分は自筆稿本には「〔ナシ〕」。

さらにそれに続く次の箇所。
絵具箱をさげて夏休みに郷里へ帰り、瀬戸内海の処を定めず写生をして歩く路すがら、宿屋の娘と何のわけもなく...

『ひとりごと』のこの部分の自筆稿本にかかれている言葉の中には全く別の地名が。
学生の頃絵具箱を提げて房州あたりへ写生に行き、旅籠屋の娘とわけもなく...

がっくりでした。

ちなみに夢二の少年山荘に行った日のことが書かれている「家からは左程遠くない世田ヶ谷から豪徳寺あたり、また少し先へ行つて高井戸三鷹台の辺」に関しては、『ひとりごと』では「高井戸」が「久我山」になっていましたが、調べたら高井戸と久我山はすぐ隣。あの部分は最初から書かれていたんですね。
まあでも考えてみたら、岡山にやってくるなんてことをつゆほども考えることもない中で画家を主人公にした物語を書き始め、おそらく岡山出身であることも知らなかったはずである画家の竹久夢二の家にたまたま行った20年前の体験を物語に入れていたという偶然にも驚いてしまいます。

ところで、あとで「岡山」とともに書き足された「瀬戸内海」。
荷風が画家の家を設定した「吉備郡」あるいは「庭瀬」「妹尾」あたりからは、児島湾は見えたにせよ、瀬戸内海はちょっと遠いので「瀬戸内海の風光にも見飽きてから」と書くには無理があるようにも思いました。
むしろここには荷風の明石での体験が入り込んでいるように思いました。荷風が瀬戸内海を見たのは岡山ではなく、明石でしたから。

で、興味深いことに、その明石でドビュッシーとともに、竹久夢二の絵のことを思い浮かべているんですね。明石で空襲のあった日に明石港を歩いていたときの言葉。
岸には荷物持ちたる人多く蹲踞し弁当の飯くらひつゝ淡路通ひの小汽船の解纜するを待てり、水を隔る娼家の裏窓より娼女等の舩の出るを見る、あたりの風景頗情趣に富む、故もなく竹久夢二の素描画を想起せしむ、是亦旅中の慰籍なり

そういえば『問はずがたり』の「下の巻」の最後にはドビュッシーの名前も出てきます。『問はずがたり』の最後に付け加えた岡山と瀬戸内海の日々を書いているときには、荷風の中にドビュッシーの音楽が流れていたんでしょうね。その部分を引用します。何度もの空襲に見舞われた荷風自身の気持ちが書かれています。この部分は『問はずがたり』最初にが刊行されたときにはプレス・コードに触れたためにかなりの削除がなされたようです。
兎に角に二十世紀も半にならうとしてゐる此の時代ほど呪ふべく憎むべく恐るべき時代はあるまい。平和の基礎は果して確立したのであらうか。ナチとその聯盟国との屈服に依つて為された平和は一時の小康に過ぎないのではなからうか。モネーの絵画、ロダンの彫刻、ドビユツシイの音楽が文化の絶頂を示したやうな、さういふ目覚しい時代はいつになつたら還つて来るのだらう。人の世の破壊はまさにこれから始らうとしてゐるのではなからうか。果敢い淋しい心持は平和の声をきいてから却て深く僕の身を絶望の底に沈めて行くやうに思はれる………。

ここに列挙されている芸術家はすべてフランスの芸術家ですね。
考えてみると「フランス」、あるいは「文化」は、絶頂を示した時代が還って来るどころか、日本ではどんどん低いところに押しやられています。
終戦の年に荷風が書いた「人の世の破壊はまさにこれから始らうとしてゐるのではなからうか」という言葉は杞憂でも何でもないのかもしれません。

さて、『問はずがたり』は次のような牧歌的な風景を描いた言葉で終ります。
 僕は農家に飼はれてゐる二三匹の山羊をつれて、毎日後の岩山に登り石に腰をかけて、何事も思わず、憫然として唯日にあたることを楽しんでゐる。
 松の深林、乾いた石逕、おとなしい臆病な山羊………。画家セザーヌと詩人ジヤムが愛したプロワンス州ばかりが好い国とも限るまい、穏かな日のあたるところはどこへ行つても好い国だろう。

荷風が過ごすことのなかった"岡山の10月"を描いた場面。この風景はあの日、荷風が歩いて行った庭瀬近くの妹尾崎の平松さんの晴耕園のあたりのようにも思えますが、なんとなくこの『問はずがたり』を書く前に読み返したはずの成島柳北の『航薇日記』に記された妹尾の春辺のあたりの風景とも重なります。

妹尾を発つ日に柳北は妹尾の後の岩山に登って最後に遠望する場面があります。以前引用した瓶井山、熊山を眺める場面ですね。そのあとこんな場面があります。『航薇日記』の中の好きな場面の一つ。柳北のそばには 柳北が妹尾にいる間中、彼の世話をし続けた妹尾在住の老医、岸田冠堂(途中から「冠童」と表記されています)がいます。彼がそこから見える山の名前を教えていたんですね。
冠童巨石の上に予を坐しせしめ一瓢を開け供す、風致頗る妙なり

「一瓢」とは酒のこと。岡山を去る前の日の夕暮時に、岡山の(僕のよく知った)山々を眺めながら石に腰を下ろして酒を飲む柳北。いろんな思いが去来していたと思います。
きっと荷風もこの場面が好きで、小説の最後にそっとしのばせたのではないかと、またいつものように勝手な(甘美な)推測をしているのですが。
by hinaseno | 2013-06-08 08:58 | 文学 | Comments(0)