『断腸亭日乗』には書かれていませんが、おそらく荷風は熱海で落ち着けるようになって、10月くらいに、6月10日に明石で『断腸亭日乗』の浄書をしてから後の日々の、つまり岡山と熱海での日々の日記の浄書をしたのではないかと思います。おそらくはひと月くらいをかけて。もちろん自分と成島柳北の奇跡的としか言いようのないつながりに心を躍らせながら、7月13日に添えたあの地図も丁寧に描いた。
で、そこを舞台にした小説を書かずにはいられなくなった。
結果的には新しい作品という形ではなく、一応完成という形にはしていたものの発表はしていなかった作品の後半の最後の部分を書き足すという形で。
それにしても『問はずがたり』と成島柳北の『航薇日記』は、不思議な因縁があります。
改めて『断腸亭日乗』に記載された『問はずがたり』の書かれた経緯を、前回よりもう少し詳しく書き記しておきます。
最初に書き始めたのが昭和19年(1944年)4月22日。
「燈下新にまた短篇小説の稿を起す」
でも、次に続きを書いたのはひと月あまり後の6月3日。
「四月下旬書き初めし短篇小説の稿をつぐ」
あまり筆は進まなかったようですね。ここでまた長い中断。
再会されるのは4か月後の10月14日。
「午睡一刻覚めて後今春四月頃とりかけし小説夢の夢の稿を次ぐ」
この日の日記には、このあとにこんな言葉も添えられています。
「このまゝ筆とり続くることを得なば幸なり」
確かではないにしても物語が進みそうな感触をどうやらつかんだみたいですね。
この日から連日小説を書き続けます。翌10月15日には「燈下執筆深更に至る」。
この翌日の10月16日に荷風にとってうれしい出来事が起こります。成島柳北の研究家である森銑三が荷風のもとに『航薇日記』の原本の写本を持ってやってくるんですね。たまたまそれを持ってきたのか、あるいは荷風が頼んでいたのかはわかりませんが。荷風はそれをしばらく借りることになったようです。多分ぱらぱらとはながめたはず。
で、その日の日記には、小説の執筆がさらに勢いづいたことがわかる言葉が。
「燈下小説執筆前夜の如し。この一編この分にて行けばやがて書上ることを得べし」
それからはどんどん書き続けます。
10月18日「小説執筆。暁二時就眠」
10月20日「終日執筆」
10月21日「小説の稿半成るを得たり」
10月26日「小説夢のゆめ初稿成る。改題して「ひとりごと」となす」
10月29日「小説ひとりごと草稿校訂浄写」
10月30日「午後小説ひとりごと続編起稿」
11月8日「小説執筆怠りなし」
11月10日「食後ひとりごと続篇の稿を脱す」
11月13日「小説ひとりごと正続とも校訂浄写」
10月14日に執筆を再開してから、ちょうど1カ月。一気に書き上げたんですね。
この3日後の11月16日に成島柳北の『航薇日記』を写し始めます。写し終わるのは5日後の11月21日。『航薇日記』を一日も早く筆写したい気持ちが小説を書かせるエネルギーになっていたようにも思えます。
前にも引用しましたが、改めて『航薇日記』を写し終えた11月21日の荷風の感想。何度読んでも心を打たれます。
で、ほぼちょうど1年後、熱海で『断腸亭日乗』の岡山の日々を浄書し終えた直後に、成島柳北(の『航薇日記』)との運命的なつながりを感じながら小説の続きを書き始めます。
11月11日「晩食の後ひとりごと続稿執筆深更に至る」。
そして2日後の11月13日に「旧稿続ひとりごと後半改竄」。
こう見てくると、『問はずがたり』は成島柳北の『航薇日記』の存在なくしては絶対に書きえなかったものだということがわかります。
で、そこを舞台にした小説を書かずにはいられなくなった。
結果的には新しい作品という形ではなく、一応完成という形にはしていたものの発表はしていなかった作品の後半の最後の部分を書き足すという形で。
それにしても『問はずがたり』と成島柳北の『航薇日記』は、不思議な因縁があります。
改めて『断腸亭日乗』に記載された『問はずがたり』の書かれた経緯を、前回よりもう少し詳しく書き記しておきます。
最初に書き始めたのが昭和19年(1944年)4月22日。
「燈下新にまた短篇小説の稿を起す」
でも、次に続きを書いたのはひと月あまり後の6月3日。
「四月下旬書き初めし短篇小説の稿をつぐ」
あまり筆は進まなかったようですね。ここでまた長い中断。
再会されるのは4か月後の10月14日。
「午睡一刻覚めて後今春四月頃とりかけし小説夢の夢の稿を次ぐ」
この日の日記には、このあとにこんな言葉も添えられています。
「このまゝ筆とり続くることを得なば幸なり」
確かではないにしても物語が進みそうな感触をどうやらつかんだみたいですね。
この日から連日小説を書き続けます。翌10月15日には「燈下執筆深更に至る」。
この翌日の10月16日に荷風にとってうれしい出来事が起こります。成島柳北の研究家である森銑三が荷風のもとに『航薇日記』の原本の写本を持ってやってくるんですね。たまたまそれを持ってきたのか、あるいは荷風が頼んでいたのかはわかりませんが。荷風はそれをしばらく借りることになったようです。多分ぱらぱらとはながめたはず。
で、その日の日記には、小説の執筆がさらに勢いづいたことがわかる言葉が。
「燈下小説執筆前夜の如し。この一編この分にて行けばやがて書上ることを得べし」
それからはどんどん書き続けます。
10月18日「小説執筆。暁二時就眠」
10月20日「終日執筆」
10月21日「小説の稿半成るを得たり」
10月26日「小説夢のゆめ初稿成る。改題して「ひとりごと」となす」
10月29日「小説ひとりごと草稿校訂浄写」
10月30日「午後小説ひとりごと続編起稿」
11月8日「小説執筆怠りなし」
11月10日「食後ひとりごと続篇の稿を脱す」
11月13日「小説ひとりごと正続とも校訂浄写」
10月14日に執筆を再開してから、ちょうど1カ月。一気に書き上げたんですね。
この3日後の11月16日に成島柳北の『航薇日記』を写し始めます。写し終わるのは5日後の11月21日。『航薇日記』を一日も早く筆写したい気持ちが小説を書かせるエネルギーになっていたようにも思えます。
前にも引用しましたが、改めて『航薇日記』を写し終えた11月21日の荷風の感想。何度読んでも心を打たれます。
柳北の航薇日誌三巻を写し終りぬ。余が始てこの遊紀をよみしは明治三十年此岸上質軒の編輯せし柳北全集の出でし時なり。今その原本を筆写するに臨み新に感じたることは、全文にみなぎりし哀調しみじみと人の心を動かすものあり。又紀中に現来る人物奴僕婦女に至るまで温厚篤実なりしことなり。過去の日本人の情愛に富みたりし事はアルコツクの著書にも見えたる事なり。今日戦乱の世にあたりて偶然明治初年の人情を追想すればその変遷の甚しき唯驚くのほかはなし。明治以降日本人の悪るくなりし原因は、権謀に富みし薩長人の天下を取りし為なること、今更のやうに痛歎せらるゝなり
で、ほぼちょうど1年後、熱海で『断腸亭日乗』の岡山の日々を浄書し終えた直後に、成島柳北(の『航薇日記』)との運命的なつながりを感じながら小説の続きを書き始めます。
11月11日「晩食の後ひとりごと続稿執筆深更に至る」。
そして2日後の11月13日に「旧稿続ひとりごと後半改竄」。
こう見てくると、『問はずがたり』は成島柳北の『航薇日記』の存在なくしては絶対に書きえなかったものだということがわかります。