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by hinaseno
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夏の海 ― ニューゼルシー州アシベリイパーク(3)


夏の海 ― ニューゼルシー州アシベリイパーク(3)_a0285828_830338.jpg

荷風がニューヨーク滞在中に訪れた1905年のアズベリーパークはいったいどんな様子だったんだろうとネットで探っていたら、まさにその翌年、1906年のアズベリーパークのポストカードがずらっと並んでいるサイトが見つかりました。こちらです。
その中の画像を一つここに貼っておきます。
夏の海 ― ニューゼルシー州アシベリイパーク(3)_a0285828_8302134.jpg

写真が撮られたのが前年の夏であるならば、この中にもしかしたら荷風の姿があるかもしれませんね。これ以上ないくらい大きくて豪華なカジノ。人でいっぱいの海水浴場。そこにいるのは一見して上流階級の紳士、淑女であることがわかります。

彼らの服装は、まさに昨日引用した荷風の描写そのまま。
「身軽なジャケットに麦藁帽子」を身につけた男性たち。「真白な日傘に帽子も冠らず渦巻く金髪や黒髪の光沢を誇り、短い袴の裾から、皺一ツ無い靴足袋に愛らしい小形の靴を見せ、胸さえ透見えるような薄い上衣の袖は二の腕までも捲り上げ腰を振り方で調子を取りながら、輝く日光の中を歩む」女性たち。

それにしてもこれだけの数の(ネットを見ると先程リンクしたサイトよりもさらに多くの)ポストカードが作られていたということからも、アズベリーパークが当時、一大観光地として栄えていたことがわかりますね。遠く離れた見知らぬ町が、また一つ自分の中に、と思っていたら実は...。

それはさておき、アズベリーパークに到着した荷風。こんなふうに書いています。
茫々たる大西洋を前に四五軒並んで居る高い木造りの旅館の縁側(ベランダ)、辻の角の薬種屋(ドラッグストアー)、波の上に築き出した散歩場、何れも男や女で一杯になって居る。其の真白な衣服と日傘は青い空と海の色とに相映じて云われぬ快感を与えるのである。

で、荷風と従兄は散歩場の階段から砂地に降りて、水着を貸してもらえる家を探します。ところが、その日、人々は大勢波際を散歩しているけれども遊泳している人は誰もいないことに気づきます。着替えをする小屋はすべて閉められたまま。
すぐに、その日が日曜日だということに思い当たります。アメリカでは土地によっては宗教上の問題で日曜日には遊泳が禁止されていることを。
二人は少時砂の上に腰を下し雲のみ浮ぶ無限の大洋に対して居たが、軈て再び散歩場に出で、レモン水の一杯に渇いた咽喉を湿した後、先刻上陸したプレザントベーの公園に戻り、帰りの汽船の出帆するまで一睡を試る事にして走せ来る電車に飛び乗った。

ということで、荷風はカジノに行ったりすることなく、すぐに港のあるプレザントベーに戻っているんですね。アズベリーパークには1時間もいなかったかもしれません。で、プレザントベーの海辺の公園で汽船が来るまで荷風は眠りに落ち、夢の中へと。
異国での真夏の昼の夢。
その夢から目覚めさせたのは公園のはずれのレストランで演奏していた美しいオーケストラのクラシック音楽。

何から何までも夢のような海辺の風景。
でも、荷風はここに再びやってくることはありません。きっと来ようとも思わなかったはず。

プレザントベーからアズベリーパークに向かう電車の中で、まぶしいばかりの海辺の風景を見つつ、荷風はこんなことを書いています。
此の晴渡った明い夏の日、爽快な海の風吹く水村は世の夢を見尽した老人の隠場では無く、青春の男女が青春の娯楽青春の安逸青春の痴夢に酔い狂すべき温柔郷である。

「爽快な海の風吹く水村」、もし『ロンバケ』的表現を使うならば、「爽やかなブリーズが駆けぬけるビーチ」、そこは青春の真っ只中にいる若い男女の楽しむ場であって「世の夢を見尽した老人の隠場では無い」と荷風は語っています。この言葉を読む限り、26歳の荷風は、精神的にはすでに「老人」の側に入りつつあったことがわかります。海辺は自分のような人間が来る場所ではないと、アズベリーパークに到着する前に荷風は確信していました。

そして数年後、日本に戻った荷風は、海辺に行くことなく、下町へ、濹東へと足を向けます。湘南にあった別荘も売り払います。

さて、荷風がアズベリーパークを訪ねてから約90年後に、ある作家がこのアズベリーパークを訪ねることになります。当時彼はまだ40歳をすぎたばかり。荷風が訪れたときの年齢よりもずっと上ですが、でも彼はそのときも、そして今でも海辺の風景を愛しているはず。

その作家の名は村上春樹。
彼がそこで目にしたアズベリーパークの光景は...。
by hinaseno | 2013-05-19 08:33 | 文学 | Comments(0)