先日、明石に行った帰り、明石の駅前の商店街をぶらぶらと歩いていたら、一軒の小さな古本屋を見つけたので入りました。結構本が多かったので、せっかくだからできれば僕がまだ持っていない荷風の本があればと探していたら、絶版になっている講談社文芸文庫の『あめりか物語』を発見。岩波文庫で出ていて、古本でもそれと変わらない値段となっていましたが、まあいい記念と思って購入(実は後で気になることがあって、結局岩波文庫の方も買うことになったのですが)。帰りの電車でぱらぱらと眺めました。
まず、探したのは、例の林芙美子が『雨』という小説の中で引用した、荷風が翻訳したヴェルレーヌの詩の載った文章。
『あめりか物語』はいくつかの短いエッセイの連作になっているのですが、そのタイトルを見て、これだなとすぐにわかりました。
「落葉」と題されたエッセイ。
最後に明治39年10月と付されています。ニューヨークの秋の風景。場所はセントラルパーク。
荷風とニューヨークのセントラルパーク。
組み合わせとしてはどこか違和感があります。その違和感はたぶん荷風自身も感じていたはずのこと。
でも、荷風は、もうあまり人がいなくなった夕暮れ時に、セントラルパークの中にある池のほとりのベンチに腰をかけて、いくつも舞い落ちてくる落ち葉を眺めながら物思いにふけります。おそらく、荷風が考えていたのは自分の心が最もしっくりと寄り添うことのできる場所、つまりフランスの町並みのことを考えていたんだと思います。
で、そんなときに、ふと荷風の頭に思い浮かんだのがヴェルレーヌの「秋の歌」という一篇の詩。
最初にフランス語のままで詩が引用されています。実は講談社文芸文庫版では引用は最初の一連だけ。でも岩波文庫版は全文引用されています。でも、おそらく荷風は全文翻訳しているみたいですので全文引用しておきます。参考までにフランス語で朗読されたものもリンクしようとおもったのですが、普通に朗読されたものでいいものが見当たりませんでしたので、この詩をもとにメロディがつけられた古い曲を流しながら朗読されているこの音源をリンクしておきます。朗読している女性の声は魅力的だと思います。
Les sanglots longs
Des violons
De l'automne
Blessent mon cœur
D'une langueur
Monotone.
Tout suffocant
Et blême, quand
Sonne l'heure,
Je me souviens
Des jours anciens
Et je pleure
Et je m'en vais
Au vent mauvais
Qui m'emporte
Deçà, delà,
Pareil à la
Feuille morte.
そしてそのあとに荷風の翻訳した文章が添えられています。
秋の胡弓の咽び泣く物憂き響きわが胸を破る。
鐘鳴れば、われ色青ざめて、吐(つ)く息重く、過し昔を思出でゝ泣く。
薄倖の風に運ばれて、こゝかしこ、われは彷徨(さまよ)ふ落ち葉かな。
フランス語でバイオリンのことを指している「violon」という語を、荷風は日本の古い楽器で、やはり弦をこすりながら演奏する「胡弓」と訳しているんですね。ちなみに林芙美子の『雨』の中でも荷風の訳と比較されている上田敏は「ビオロン」という言葉をそのまま使っています。
「胡弓」や「三味線」。荷風の好む弦楽器がだんだんとわかってきました。
さて、実は帰りの電車の中で、その『落葉』というエッセイを見つける前に、気になる題名のエッセイが目に留まっていました。
「夏の海」と題されたエッセイ。文章の最初に「七月十日の記」と書かれています。
ところで、この「夏の海」、岩波文庫版にはその言葉がないばかりか、内容もかなり違っています。後で確認したら講談社文芸文庫版には最後に「夏の海」の異文が載っていて、それが岩波文庫版と同じ。村上春樹と同じように、荷風も何度か書き直しをしているみたいですね。でも、どっちが先なんだろう?
それはさておき、僕は荷風と海との関わりのことをずっと考えていたので、まさに荷風が海辺に行った日のことが書かれている文章を発見して、ちょっと興奮しました。場所はアメリカではあったのですが。
荷風がその日、つまり明治38年7月10日の日曜日に向かったのはニューゼルシー州アシベリイパークの海水浴場。
ニューゼルシー州? アシベリイパーク?
一体それはどこなんだろうと思いながら、僕は帰りの電車で『あめりか物語』に収められた「夏の海」を読み進めました。
そこには荷風にとっても、僕にとってもまぶしいばかりのアメリカの夏の海辺の風景が描かれていました。でも、あとでわかったことは...。