昭和20年(1945年)の兵庫県明石での荷風の日々を追った「海辺の荷風」も今日で最後。いつもながらこんなに長くなるとは思いませんでした。でも、自分でも驚くようなうれしい発見の連続でした。
荷風は菅原明朗と出会って以降、おそらくはことあるごとに菅原明朗の持っていたドビュッシーのレコードを聴かせてもらっていたのではないかと思います。あるいはあるときにはピアノの置いてあった菅原明朗の住んでいたアパート、あるいはオペラ会場などで、ピアノでドビュッシーを弾いてもらっていたことも十分考えられます。
菅原明朗にとっても、まだおそらくは当時あまり一般的には知られていなかったドビュッシーに早くから注目し、その音楽を深く理解していた荷風がそばにいてくれることはいろんな意味で支えになったはず。様々な困難が続く中でも、二人の関係が、荷風にしてみたら考えられないくらいに長く続いたのも、まさにドビュッシーの音楽があってこそのことではなかったかと思います。
「葛飾情話」などの作品をいっしょに作った5年後の昭和18年11月25日の『断腸亭日乗』にはこんな記述があります。
夜菅原明朗拙作映画台本を携へ来り話す。またドビュツシイの詳伝を貸興せらる
この日、菅原明朗からドビュッシーの評伝を借りているんですね。
3日後の 11月28日の日記にはその本の題名が書かれています。
「Leon Vallas: Claude Debussy et son temps, Paris 1932」
どうやらフランス語の評伝。おそらく荷風はこの日から本を読み始めたのではないかと思います。
で、5日後の12月2日の日記。
昨夜読書の興津〻として尽きず蓐中書巻を手にして暁の来るを知らざりしほどなり。(書巻はワラスの著ドビュツシイと其時代なり。)
その日の日記の最後にはさらにこう書かれています。
ドビュツシイの伝をひらくこと昨宵の如し。
この頃、毎晩ドビュッシーの評伝を読みふけっているんですね。面白くて仕方がない様子。
興味深いのは、この時期に、まさにこの本を読む一方で荷風はある随筆を書いています。
この前日の12月1日の日記の最後にはこんな言葉があります。
枕上読書及執筆毎夜の如し。
小津が『断腸亭日乗』を読みふけっていた頃の記述にそっくりですね。表現まで似ています。
ここで何を読んでいたかは書かれていませんが、当然ドビュッシーの評伝。
で、このときに荷風が書いていたのは「雪の日」という随筆。『日乗』を見ると、12月9日に脱稿と書かれています。
ドビュッシーの評伝を読みながら(いうまでもなくドビュッシーの音楽を頭にえがきながら)書いたこの「雪の日」という作品。中身は「雪」に関わる若いころの回想シーンが連ねられていて、やや話が散漫な感じもしなくもないのですが、なかなか素敵な随筆です。
興味深かったのはヴェルレーヌの詩が引用されていること。
「雪の日」に収められた最後のエピソード。荷風がまだ二十歳そこそこの頃、ある落語家の弟子になって小石川の方へ通っていた時の話。そこから帰るときに、毎晩いっしょになる娘がいたんですね。三味線を弾いていた十六、七の少女。その少女との、ある雪の日の思い出。でも、やがて彼女とは会うことがなくなってしまう。
...そしてかの娘はその月から下座をやめて高座へ出るやうになつて、小石川の席へは来なくなつた。帰りの夜道をつれ立つて歩くやうな機会は再び二人の身には廻つては来なかつた。
娘の本名はもとより知らず、家も佐竹とばかりで番地もわからない。雪の夜の名残は消え易い雪のきえると共に、痕もなく消去つてしまつたのである。
巷(ちまた)に雨のふるやうに
わが心にも雨のふる
といふ名高いヴェルレーヌの詩に傚(なら)つて、若しもわたくしが其国の言葉の操り方を知つてゐたなら、
巷に雪のつもるやう
憂ひはつもるわが胸に
あるいはまた
巷に雪の消ゆるやう
思出は消ゆ痕もなく
………………………
とでも吟じたことであらう。
ここで引用されているヴェルレーヌの詩は、堀口大學の訳では「巷に雨の降るごとく」と題されている詩ですね。荷風はもちろん原詩も暗唱できるくらいに覚えていたはずにちがいありませんが、堀口の訳した詩もおぼろげに覚えていたんでしょうね。一応、堀口大學の訳したものを全文引用しておきます。
巷に雨の降るごとく
わが心にも涙ふる。
かくも心ににじみ入る
このかなしみは何やらん?
やるせなき心のために
おお、雨の歌よ!
やさしき雨の響きは
地上にも屋上にも!
消えも入りなん心の奥に
ゆえなきに雨は涙す。
何事ぞ! 裏切りもなきにあらずや?
この喪そのゆえの知られず。
ゆえしれぬかなしみぞ
げにこよなくも堪えがたし。
恋もなく恨みもなきに
わが心かくもかなし。
調べてみたらヴェルレーヌのこの「巷に雨の降るごとく」という詩には曲がつけられていました。もちろん曲をかいたのはドビュッシー。先日、少しだけ触れた「忘れられた小曲(アリエッタ)」の中の1曲です。
細かく雨が降る風景を描いたヴェルレーヌの詩とドビュッシーの曲。これ以上ない組み合わせ。
荷風が「雪の日」を書いていたときに読んでいたドビュッシーの評伝の中には当然ヴェルレーヌとのつながりのことも書かれていたに違いありません。で、その二人が作った曲の中から、この「巷に雨の降るごとく」を随筆の中にそっとしのばせたんですね。
この「雪の日」には作品を書いていた当時の荷風の気持ちを、荷風にしてはめずらしく赤裸々に表明した部分があります。読んでいてたまらない気持ちになってしまいます。最後にそれを引用しておきます。個人的には「色彩」という言葉の使われ方に惹きつけられました。
ドビュッシーの音楽は色彩にあふれています。しかもその色彩は細かく粒子化され、それぞれが乱反射してきらめいています。ただ、よく見ると、色彩はあふれるほどにあるけれども、そこには「滅びの予感」が見え隠れしています。 いくつかの粒子は少しずつですが徐々に色彩ときらめきを失っていっています。まるで雪がゆっくりと解けていくように。荷風がドビュッシーの音楽に僕と同じようなものを感じていたかどうかはわかりませんが。
七十になる日もだんだん近くなつて来た。七十といふ醜い老人になるまで、わたくしは生きてゐなければならないのか知ら。そんな年まで生きてゐたくない。と云つて、今夜眼をつぶツて眠れば、それがこの世の終だとなつたなら、定めしわたくしは驚くだらう。悲しむだらう。
生きてゐたくもなければ、死にたくもない。この思ひが毎日毎夜、わたくしの心の中に出没してゐる雲の影である。わたくしの心は暗くもならず明くもならず、唯しんみりと黄昏れて行く雪の日の空に似てゐる。
日は必ず沈み、日は必ず尽きる。死はやがて晩かれ早かれ来ねばならぬ。
生きてゐる中、わたくしの身に懐しかつたものはさびしさであつた。さびしさの在つたばかりにわたくしの生涯には薄いながらにも色彩があつた。死んだなら、死んでから後にも薄いながらに、わたくしは色彩がほしい。さう思ふと、生きてゐた時、その時、その場の恋をした女達、わかれた後忘れてしまつた女達に、また逢ふことの出来るのは瞑(くら)いあの世のさむしい河のほとりであるやうな気がしてくる。
あゝ、わたくしは死んでから後までも、生きてゐた時のやうに、逢へば別れる、わかれのさびしさに泣かねばならぬ人なのであらう………。(永井荷風「雪の日」より)