ドビュッシーと荷風の関係をもう少しだけ。
僕もそうであったように、ある音楽に惹きつけられ、それを集中的に聴いた時期があっても、ある日、別の新たな音楽に惹かれて、そちらを夢中になって聴くようになる。しばらくして、以前惹きつけられたものに再び戻って聴くようになることもあれば、それっきり聴かなくなることもあります。
荷風はドビュッシーに出会う前にはワグナーを集中的に聴いていました。ワグナーのオペラに夢中になっていたんですね。アメリカではワグナーのオペラを連日見ていました。「西洋音楽最近の傾向」を読んでも荷風がワグナーを高く評価していることがわかります。でも、やはりドビュッシーの衝撃は大きかったんでしょうね。音楽的にも、詩的にも、色彩的にも。
でも、荷風は日本に戻ってからはしばらくはドビュッシーの音楽から離れます。というよりも、それを聴く手だてがなかったんでしょうね。聴きたくても聴けなかった。レコードもまだそんなには普及していなかったはず。ドビュッシーが日本で演奏されるようになるのも大正末期。
で、荷風が日本に戻ってきてから惹きつけられた音楽はというと、それは荷風が毎日足を運ぶようになる下町に流れていた三味線でした。一時期は深川に住んで、三味線も習っていたくらいに、三味線の音色に惹きつけられたんですね。
というわけで、荷風の文学には三味線が本当に多く登場します。荷風ほど小説や随筆に三味線音楽を登場させた人は他にいないという指摘もあるくらいに。
そんな荷風に再びドビュッシーを聴く機会が訪れます。それがもうここでも何度も書いている人、菅原明朗との出会いですね。繰り返しますが、菅原明朗は荷風といっしょに「葛飾情話」というオペラを作った人。教え子の一人が古関裕而。偏奇館が焼失して以後、岡山に行くまで荷風とずっと行動を共にした人。そして、出身地は兵庫県の明石。
荷風と知り合ったのは昭和12年(1937年)。で、荷風と意気投合して翌年には「葛飾情話」を作っています。さらに同年には荷風の書いた「冬の窓」、「船の上」という詩に曲をつけた歌曲も作っています。
二人が意気投合した理由はまちがいなくドビュッシー。菅原明朗もフランス音楽に傾倒していた人なんですね。ウィキペディアには「ドイツ系が主流だった当時の日本の洋楽界に、彼はフランス流の新風を吹き込んだ」と書かれています。現在発売されているドビュッシーの「海」の楽譜を書いているのも菅原明朗。
二人が出会って間もない時期の 昭和13年9月5日『断腸亭日乗』にはこんな記述があります。
浅草に往き森永茶店にて菅原君と会見す。同店設置の蓄音機を借りクロード、ドビユツシイのLa Damoiselle Elueを聴く。円盤及び譜本は共に菅原君携来る所なり
「La Damoiselle Elue」、邦題は「選ばれた乙女」。ドビュッシーの作ったオペラ。
この時期、どうやら荷風と菅原明朗は「葛飾情話」の次なる作品のことを考えていたようです。で、おそらくその規範としたのがドビュッシーのオペラ。
このひと月あまり後の10月26日の『断腸亭日乗』にはこんな記述もあります。
区役所横裏の喫茶店ロスアンゼルスといふに入りて店内備付の蓄音機にてドビッシイの歌劇聖セバスチアンの殉教を聴く
今度は荷風は一人でドビュッシーを蓄音機の置いている喫茶店に行って聴いています。この時期、おそらく荷風は次なる作品、「冬の窓」、「船の上」のイメージ作りをするためにドビュッシーを集中的に聴いていたんでしょうね。菅原明朗はその荷風が作った詩に合わせて曲を作ったんですね。
でも、残念ながらこの2曲はたぶんレコーディングされていない。「葛飾情話」とともにぜひ聴いてみたいのですが。
実は「冬の窓」の詩は『断腸亭日乗』9月20日の日記に載っています。この詩、長いので全文引用はしませんが、いくつか興味深い言葉が並んでいます。前作の「葛飾情話」は荒川放水路を舞台にした作品でしたが、こちらの作品のテーマは思い出。
雨の音を聴きながら思い出にひたる場面から始まります。
降る雨にさそはれて木の葉ちる。
木の葉散りては散りしく上に
そゝぎて止らぬ雨の声。
で、こんな一節も出てきます。
ふるさと遠き西の空。
どうやらこの詩の主人公のふるさとは、東京からかなり離れた西の方に設定されています。おそらく、これは荷風が菅原明朗の出身地が明石だと知って、彼をモデルにして詞を書いたんでしょうね。
で、最も興味深かったのはこの一節。
ながめあかしゝ町はいづこや。
「あかし」という言葉が出てきます。この言葉の使われ方、「明石」のことを歌った和歌によく見られる掛詞にもつながります。当然そんな和歌をいくつも知っていたはずの荷風が意図的にこの言葉を使った可能性は高いと思います。明石の出身である菅原明朗に捧げる詩として。
それにしてもこの詩を書くときには想像としてしか頭に描いていなかった明石に、まさか、その7年後に来ることになろうとは思ってもみなかったでしょう。
で、何よりも興味深いのは、「冬の窓」の詩を書いていたときに荷風の頭の中に流れ続けていたのがドビュッシー。そして、度重なる偶然の出来事の末に辿り着いた明石の海辺で、ふと荷風の頭の中にマラルメやヴェルレーヌの詩とともに流れ出した音楽もドビュッシー。