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Talks About Music, Books, Cinema ... and Niagara


by hinaseno
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海辺の荷風(7)


海辺の荷風(7)_a0285828_16143771.jpg

ドビュッシーの「月の光」はというと、というよりも、ドビュッシーというと、村上春樹の『ノルウェイの森』のことを思い出さずにはいられません。

『ノルウェイの森』の最後にワタナベ君んとレイコさんが、亡くなった直子のために二人だけの「お葬式」をする場面があります。そこでレイコさんが51曲の曲をギターで演奏します。その16曲目に演奏されたのが「月の光」でした。でも、初めて『ノルウェイの森』を読んだときにはまだドビュッシーの「月の光」を知らなかったのですが。
実は僕は村上春樹で最初に読んだのが『ノルウェイの森』でした。といっても、ベストセラーになっていたから読んだのではなく、当時勤めていた会社の同年代の同僚の女性がある日会社に『ノルウェイの森』を持って来て、僕も含めた何人かの同年代の男を前にして、この本の素晴らしさを熱心に語って、ぜひ男の人に読んでほしいと訴えたんですね。でも、だれも「僕が読もう」とは言わない。僕も当時は本なんてほとんど読まない人間でしたし、ましてや恋愛小説(帯には100%の恋愛小説ってありましたから)なんて、とてもではないけど読む気にならない。でも、何となく彼女が気の毒になって、「じゃあ、僕が」って言ってしまったんですね。それがなければ、今の僕はありません。たぶん。

もちろんその小説には引き込まれる部分がたくさんあったのですが、何よりも驚いたのは最後に演奏された51曲(実際にはすべて題名がわかっているわけではありませんが)が自分の好きな曲ばかりだったこと。数年後に「月の光」を知ってその曲を大好きになって、『ノルウェイの森』を読み返したときに、演奏された曲の中に「月の光」が含まれていることを知って本当にびっくりしました。

ちょっと荷風から話がそれてしまいますが、いい機会なのでその51曲を書き連ねておこうと思います。
1曲目「ディア・ハート」(ヘンリー・マンシーニ)
2曲目「ノルウェイの森」(ビートルズ)
3曲目「イエスタデイ」(ビートルズ)
4曲目「ミシェル」(ビートルズ)
5曲目「サムシング」(ビートルズ)
6曲目「ヒア・カムズ・ザ・サン」(ビートルズ)
7曲目「フール・オン・ザ・ヒル」(ビートルズ)
8曲目「ペニー・レイン」(ビートルズ)
9曲目「ブラック・バード」(ビートルズ)
10曲目「ジュリア」(ビートルズ)
11曲目「六十四になったら」(ビートルズ)
12曲目「ノーホエア・マン」(ビートルズ)
13曲目「アンド・アイ・ラブ・ハー」(ビートルズ)
14曲目「ヘイ・ジュード」(ビートルズ) 
 ここでレイコさんにかわってワタネベ君がキャロル・キングの「アップ・オン・ザ・ルーフ」を弾きますが曲数には入れられていません。
15曲目「死せる王女のためのパヴァーヌ」(ラヴェル)
16曲目「月の光」(ドビッシー。村上さんはドビュッシーではなくドビッシーと書かれます)
17曲目「クロース・トゥ・ユー」(バカラック)
18曲目「雨に濡れても」(バカラック)
19曲目「ウォーク・オン・バイ」(バカラック)
20曲目「ウェディングベル・ブルース」(バカラックの曲と書かれていますが、正しくはローラ・ニーロの作った曲。いろんなところで指摘されていますし、村上春樹もローラ・ニーロのファンなので気づいているはずですが、そのままになっています)
21曲目から48曲目までは曲名があまり書かれていません。
 ボサノヴァを10曲近く
 ロジャース=ハートの曲
 ガーシュインの曲
 ボブ・ディランの曲
 レイ・チャールズの曲
 キャロル・キングの曲
 ビーチボーイズの曲
 スティービー・ワンダーの曲
 「上を向いて歩こう」(坂本九が歌ってヒットした曲)
 「ブルー・ベルベット」(ボビー・ヴィントンが歌ってヒットした曲)
 「グリーン・フィールズ」(ブラザーズ・フォーが歌ってヒットした曲)
49曲目「エリナ・リグビー」(ビートルズ)
50曲目「ノルウェイの森」(ビートルズ)
51曲目 バッハのフーガ

いつか時間があれば、21曲目から48曲目までの曲名のわかっていない曲を予測して(もちろんしたことはあります)、全曲YouTubeにリンクさせてみたいですね。今日は数曲だけギターで演奏されたものをリンクしておきます。ギターを弾いているのはいずれもローリンド・アルメイダ。大好きなギタリストのひとりです。

『ノルウェイの森』といえば、ファンであればよく知られた話なのですが、もともと村上さんが小説を書き始めたときには別の題名でした。

その題名とは「雨の中の庭」。
ドビュッシーの『版画(エスタンプ)』の中の1曲。 僕の知る限り邦題は「雨の庭」になっています。 ちなみに『版画』は向田邦子の「水羊羹」というエッセイにも出てきます。水羊羹に似合う音楽として。
いちおうYouTubeの曲を貼っておきます。向田邦子の好きなベロフの弾くものはなかったのでいろいろ聴いていたら、このヴァン・クライバーンの弾くものがよかったのでこれを貼っておきます。

とても綺麗なピアノ曲。大きな雨粒の音から目には見えないほどに微細な水の粒子の音まで聴こえてくるだけでなく、その小さな光のきらめきまで見えるような気がします。ドビュッシーのピアノ曲の特徴ですね。「月の光」にしても、その光の微細な粒子を音にしているような音楽です。

さて、題名が「雨の中の庭」から「ノルウェイの森」になったいきさつについては、村上さんはこう説明されています。これはファンからの質問に村上さんが答えたものですね。現在は『ひとつ。村上さんでやってみるか』に収録されています。興味深い発言なので引用しておきます。
僕はドビッシーの「雨の中の庭」というピアノ曲が昔から好きで、そういう雰囲気を持った、こぢんまりして綺麗でメランコリックな小説を書きたいと思っていました。この小説を書きはじめたとき、そういう題が内容的にぴったりしているかなと思っていたのですが、最初に予定していたよりどんどん長い話になってきて、とても「こぢんまりした」とは言えなくなってきました。だから別の題にしたわけです。そのうちにまた『雨の中の庭』という短い小説を書くかもしれません。
『ノルウェイの森』という題をつけるのは、僕は正直なところあまり気が進まなかったんです。ビートルズの曲の題をそのまま本の題にしちゃうのはどんなものかと。でも読んだ人がみんな「この題はもう『ノルウェイの森』しかないじゃん」と言うので、結局自然にそうなりました。僕の大好きな曲ではあるんですが。

『ノルウェイの森』では、いくつか静かに雨が降る場面が出てきます。もっとも印象的なのは小説の最後のページ。ワタナベ君が電話ボックスから緑に電話をかける場面。ワタナベ君の言葉を聞いた緑はしばらく黙りこみます。
まるで世界中の細かい雨が世界中の芝生に降っているようなそんな沈黙がつづいた。

まさに「雨の中の庭」のイメージ。

話は荷風に戻ります。
実は荷風がドビュッシーの「月の光」を聴いたことがあるのかどうかを確認できる確かな言葉を見つけることはできていません。でも、結論的に言えば、ドビュッシーの音楽に惹かれ、しかもヴェルレーヌのをこよなく愛する荷風がそれを知らないというのはありえない。

昨日触れた「西洋音楽最近の傾向」で、荷風はドビュッシーを紹介する中で、ヴェルレーヌやマラルメらの象徴派の詩人や印象派の画家とのつながりを説明し、さらに「牧神の午後への前奏曲」や「海」などの交響詩の色彩美に触れた後で、こう書いています。
ドビュッシーは前述したオペラ及びサンフォニー等、形式の大なるものの他に、無数のピアノ独奏曲と声楽を作っているが、何れも印象派の画に見るべき情景、表象派の詩篇にのみ味われべき情緒の発現である事は例えば「歓楽の島」とか「雨中の庭」とか「水鏡」などという巧な名題の文字を見ても想像せらるであろう。ヴェルレーヌのアリエット六篇、ボードレールの詩五篇を歌うように曲譜をつけたものは、短い唱歌の中でも事に有名なものである。

歓楽の島」(「喜びの島」)や「雨中の庭」(もちろんこれは「雨の中の庭」のことですね)、「水鏡」(「水に映る影」、あるいは「水の反映」や「水の戯れ」)などのピアノ曲のことが書かれています。これだけ見ても荷風は当時1908年段階で発表されていたドビュッシーのピアノ曲を全て聴いていただろうと推測できます。

ちなみにここで書かれている「ヴェルレーヌのアリエット六篇」とは「忘れられたアルエッタ(小曲)」と題された6つの詩からなる作品のこと。これにドビュッシーは曲をつけているんですね。この「忘れられたアルエッタ(小曲)」に関しては興味深いことを発見したのですが、それについてはまた後日。

ところで、荷風は「西洋音楽最近の傾向」を書いた翌年に「歓楽」と題した短篇を発表しています。ドビュッシーを集中して聴き込んだに違いない時期に書かれたものですね。「歓楽」という題名もさきほどの「歓楽の島」につながっています。
この小説は結局、その前に刊行した『ふらんす物語』同様に発禁処分になってしまうのですが、この中に荷風の名文とされる言葉が含まれているんですね。こんな言葉。
月の光も雨の音も、恋してこそ始めて新しい色と響を生ずる

「月の光」、「雨の音」、そして題名の「歓楽」。いずれもドビュッシーのピアノ曲のタイトルにつながるものを感じずにはいられません。
残念ながらこの作品の中にはドビュッシーという言葉は登場しません。ただ、先程の言葉の続きには、こう言葉が連ねられています。
料理屋の夜深けに遠くの座敷で弾く三絃の音(ね)は、封建時代の血なまぐさい恋の末路を目に見る如く描き出させる。海に添ふ避暑地の月の夜に、其れともなく聞えるピアノの調は、直に自分をしてキイツやハイネの詩の生命に触れさせるように思はせた。花の匂い。音楽の響。屏風が包む燈火に色。...

「海に添ふ避暑地の月の夜に、其れともなく聞えるピアノの調」、これはまぎれもなくドビュッシーの「月の光」であったにちがいありません。
by hinaseno | 2013-05-12 16:19 | 文学 | Comments(0)