ドビュッシーの「月の光」、正確にいえば4つのピアノ曲からなる『ベルガマスク組曲』の中の1曲である「月の光」は、ヴェルレーヌの詩をもとにしてイメージを膨らませて作られたものでした。
ドビュッシーのいくつもの曲が、当時のフランスの詩人が書いた詩からイメージをふくらませて作られているものであることはもちろん知っていました。でも、まさか荷風が明石の海の見える西林寺の縁先で読んでいたヴェルレーヌが、古来より多くの歌人によって「月」をテーマにした歌を詠まれていた明石の日々を考えているときに(きっかけは成島柳北が明石で詠んだ歌でした)、ドビュッシーの「月の光」につながっていることに気づくことになるとは。
本当に驚きましたし感動してしまいました。偶然にしてはできすぎた話。
ただ、ドビュッシーがそのイメージのもととしたヴェルレーヌの「月の光」という詩は、昨日紹介した荷風の『珊瑚集』に収められた「ましろの月」ではありませんでした。荷風には残念ながら「月の光」を訳したものはなさそうです。
参考までに「月の光」の訳詞を引用しておきます。詩は堀口大學や上田敏の訳したものがあったのですが、あるサイトで見つけた、もしかしたらそのサイトを運営されている方が訳されたものかもしれないこの訳が一番よかったので、勝手に引用させてもらいました。
あなたの心にひそむ 私の知らない風景には
にぎやかな踊りの仮面舞踏会と 漂うリュートの調べ
そうした陽気な姿のうちに 悲しみの影が差す
もの悲しい調子で歌われるのは
恋の勝利と人生の歌
幸せを信じてはいないあなたの声が
差し込む月の光に溶けてゆく
月の光はいつも悲しく美しい
枝に止まり夢を求める小鳥を照らし
大理石の像より高く吹き上げる噴水を
すすり泣かせては降り注ぐ
素晴らしい詩ですね。もし荷風訳があればぜひ読んでみたいと思いました。どこかにないのでしょうか。
さて、気になるのは荷風はいったいドビュッシーのことをどれくらい知っているんだろうかということ。僕は川本三郎さんの『荷風と東京』をきっかけに荷風の世界に入ったのですが、その本の索引を見てもドビュッシーの名はありません。川本さんの本ではドビュッシーについては一切語られていません。もちろん何か語られていれば目を止めたはずですから。
その前に僕の持っているドビュッシーの歌曲を集めた『ドビュッシー歌曲全集』を見ると、そこに収められた60曲ほどの曲のうちヴェルレーヌの詩に曲をつけたものが17曲。ほかにはマラルメ、ボードレールもありますが、ヴェルレーヌがだんとつで多い。いかにドビュッシーがヴェルレーヌの傾倒していたかがわかります。
ちなみにその歌曲集には「月の光」と題された曲があります。メロディは『ベルガマスク組曲』の中のピアノ曲とはまったくちがいます。こちらはヴェルレーヌの詩にそのまま曲をつけたものなんですね。
これだけヴェルレーヌの詩に曲をつけているので、ヴェルレーヌの詩が大好きな荷風がその詩に曲をつけたドビュッシーの曲を知らないはずはない。しかも荷風がフランスに行った時期はまさにドビュッシーがいろんな楽曲を生みだしている時期と重なります。
で、どきどきして『断腸亭日乗』の索引でドビュッシーの名を探しました。
やはり、いくつもありました。ドビュッシーのことを書いたものが。
最も古いのは明治40年(1907年)1月20日に書かれています。荷風が27歳のときですね。ただ、それは『断腸亭日乗』ではなく、荷風がアメリカ、フランスへ行っていた時に書いていた『西遊日誌抄』に収められたものでした。
明治40年(1907年)1月20日には荷風はアメリカのニューヨークにいました。この時期荷風は連日といっていいほど音楽ホールに行って、フラシック音楽を聴いたり、あるいは歌劇を観たりしています。
さて、その日の日記。驚きました。
午後カアネギイ楽堂に仏人ドビュツシイの作曲演奏せらるゝ曲聞きたれば行きぬ。マラルメの詩「牧野白日夢」を題とせし一曲最も深く余の心を感動せしめたり
「マラルメの詩『牧野白日夢』を題とせし一曲」、言うまでもなく「牧神の午後への前奏曲」。なんとあのカーネギーホールで聴いていたんですね。
ちなみに下の写真は荷風がドビュッシーの演奏を聴いた時から60年以上の後の、1971年6月18日にそのカーネギーホールでキャロル・キングがコンサートをしたときの観客席の風景をとらえたもの。すごいですね。たぶん建物はそのままだったと思います。
この時期に書かれた荷風の他の日記を読むと「○○歌劇場に○○を聴く」という程度で終っているのですが、この日の記述には「最も深く余の心を感動せしめたり」という言葉が付けられています。相当衝撃を受けたことがわかります。
ちなみに「牧神の午後への前奏曲」の初演は1894年のパリ。で、日本の初演は1920年の12月に山田耕筰の指揮で行なわれています。荷風はかなり早い時期、というよりも、もしかしたら日本人で最初に「牧神の午後への前奏曲」を聴いていたかもしれません。
どうやら荷風はこれをきっかけにしてアメリカ、フランス滞在中に相当ドビュッシーを聴き込んだようです。
荷風は翌1908年10月には『早稲田文学』に「西洋音楽最近の傾向」と題した文章を発表しています。これは現在岩波文庫から出ている『ふらんす物語』の「附録」として収められているのですが、これを読むと、荷風がいかにドビュッシーの音楽を集中的に深く聴き込んだかがわかります。
「牧神の午後への前奏曲」についてだけでも、これだけの説明がなされています。
実例の第一は「牧神の午後」の一曲であろう。このポエム、サンフォニックは元来、マラルメが同題の詩を作るに当ってその着想の準備にとの目的で作曲されたという話がある。曲は古来のサンフォニーとは全く違った趣で、先づ美しい横笛と淋しい立琴の音を主としたオーケストルで夢の如く浮び出る。詩章にある通り、「獅子里の海辺、静かなる小石原」に暑き日の輝く夏の午過(ひるすぎ)、腰より下は獣の様して、髯深いフォーンとよぶ牧野の神が、昼の夢覚めて、肉美しいナンフ(女神)と戯れたは、過ぎし現実の歓楽であつたか、或は覚めたる夢の影であつたか。と思迷ふ、夢と現(うつつ)の思出は入り乱れて何かとも弁じ難くなつた。縦笛(オーボワ)の音一際高く、緑深き牧野の様を思はせて、オーケストルは一斉に乱るる思いと、捕えんとする慾情の悩みに高り狂つたが、次第に静り収って、曲の初めに聞えたる涼しい横笛と淋しい立琴の音が、雅びたサンバル(鐃鉢の類)の響と共に現われ、聴者の心もまた夢の如くなって、思出の悩に疲れ果てた牧神が、遂には再び夢みるともなく夢に入る有様を想像せしむる。
マラルメの詩を踏まえつつ、楽器一つ一つの音の意味を考えている素晴らしい解説ですね。まるで自分自身を曲の中の牧神に重ね合わせたように書かれています。
荷風が明石の海辺を眺めながらマラルメの「牧神の午後」を思い浮かべたときに、同時にドビュッシーの曲が流れていたのは言うまでもないこと。そしておそらく、荷風の解説の言葉を使えば、 暑い太陽の輝く夏の昼下がり、明石の海辺の静かな砂浜で、腰より下は獣になってニンフと戯れる牧神となった自らの姿を想像していたのだろうと。