昨日、6月7日に、黄昏どきに菅原明朗といっしょに海岸の遊園地を歩いたことを書きました。実はその日はもう少し足をのばしています。新しい場所にやって来て3日くらい経つと、荷風はちょっとずつ遠くの場所まで足をのばし始めますね。
その日向かったのは明石の港。成島柳北が停泊して一夜を過ごした場所ですね。荷風の滞在した寺からゆっくり歩いても30分もかからなかっただろうと思います。
これが現在の明石港の風景。
この日の『断腸亭日乗』にこんな記述があります。
一条の掘割あり帆船貨物船輻湊す
おそらくこの辺りの風景。
で、日記はこう続きます。
岸上に娼家十余軒あり、店かゞり東京風なり、絃歌の声を聞く
下の写真はさっきの堀の対岸から娼家の建ち並んでいた場所をとらえたものです。
今は高層マンションが所狭しと建ち並んでいますね。でも、なんとこのマンションの建ち並ぶ中に、たった一軒だけ当時の娼家が残っていたんです。この写真の正面の外装工事をしているマンションの向こう側にあります。
荷風が来た当時はここに「娼家十余軒」が建ち並んでいたんですね。黄昏時、家からは「絃歌の声」が聴こえてくる。戦時中、しかも日本のあちこちで連日空爆が続いているのをわすれさせるような光景。
実際、荷風が明石に来ても、この日の3日前には空襲警報が鳴って「黒烟忽ち須磨海辺の彼方に昇る」のを見ています。神戸、阪神間を壊滅させた空襲。絨毯爆撃といわれるんですね。そして翌日も、その次の日も空襲警報はなり続けています。
実際には6月9日には明石の市街地にも空襲があり、荷風は明石を去る決心をし、岡山に向かいます。
でも、その空襲のあった日、荷風は先に岡山に下見に向かった永井智子を明石駅で見送った後、再び明石港の船着き場周辺を散歩します。このあたりは空襲を受けていなかったんですね。
岸には荷物持ちたる人多く蹲踞し弁当の飯くらひつゝ淡路通ひの小汽船の解纜するを待てり、水を隔る娼家の裏窓より娼女等の舩の出るを見る、あたりの風景頗情趣に富む、故もなく竹久夢二の素描画を想起せしむ、是亦旅中の慰籍なり
空襲があって淡路島に逃げようと船を待っている人たちがたくさんいる一方で、荷風は娼家の風景を眺め、「竹久夢二の素描画を想起」しています。竹久夢二のこともここでは何度も書きました。僕の母親と同じ岡山の邑久郡邑久町(現瀬戸内市)出身、古関裕而の「福島夜曲」のイメージのもとになった絵を描いた人ですね。
調べたら荷風は大正14年(9月23日)に玉川まで開通したばかりの電車(都電)に乗って、高井戸という場所に行っているのですが、その辺り(まだ武蔵野の原野が広がっている辺りでしょうか)を散策していたときに、門に「竹久」という表札をかかげた家を発見しています。当時夢二がアトリエ兼自宅にしていた家がそこにあったんですね。荷風は立ち寄ることもなく立ち去っていますが、荷風と夢二の小さなつながりの発見でした。夢二の絵のことも荷風はよく知っていたんですね。
さて、その一軒だけ残っている娼家。まわりは高層マンションだらけ。そのマンションに囲まれたこの2軒だけが昔のままの建物で、向こう側にみえるのが当時の娼家だと思います。なかなか見事な建物。一匹のかなり貧相な猫がやってきてちょうどいい場所で立ち止ってくれました。
正面からの写真も貼っておきます。荷風は「店かゞり東京風なり」と書いていますが、そのあたりは詳しくないのでわかりません。
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高橋
at 2013-06-02 22:15
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竹久夢二と永井荷風について調べものをしていてこちらに辿り着きました。差し支えなければ、「調べたら荷風は大正15年に玉川まで開通したばかりの電車(都電)に乗って、高井戸という場所に行っているのですが、・・・」の部分の出典をお教えただけないでしょうか。
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hinaseno at 2013-06-03 09:25
確認したら大正15年ではなく大正14年の誤りでした。申し訳ございません。『断腸亭日乗』の大正14年9月23日に記されています。文章、訂正させていただきました。
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at 2013-06-03 23:50
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