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by hinaseno
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村上春樹と『断腸亭日乗』


1998年9月22日の「村上ラヂオ」で村上春樹が現代語訳している昭和2年1月6日の『断腸亭日乗』はこの部分です。旧字はなるべく新字に直しています。新字が見つからないものはひらがなを使っています。

薄暮銀座に赴かむとて箪笥町崖下の小径を過るに、一群の児童あり余の行き過ぎるを見て背後より一斉に余が姓名を連呼す、驚いて顧るや群童又一斉に拍手哄笑して逃走せり、其状さながら狂人或は乞食の来るを見て嘲罵するものと異る所なし、そもそも近隣の児童輩何が故に余の面貌姓名を識れるにや、是亦吾文筆浮誉の致す所にあらずして何ぞや、虚名の禍此に至つて全く忍ぶ可からざるものあり、世の雑誌新聞記者の毒筆の如きは余之を目にせざるを以て猶忍ぶことを得べし、近隣の児輩が面罵に至つては避けむと欲するも其道なし、浩歎に堪えざるなり、余常に現代の児童の凶悪暴慢なることを憎めり


これを村上さんはこんなふうに訳しています。

銀座に出ようと思って夕方箪笥町の崖下の道を歩いていたら、一群の児童が私の通り過ぎるのを見て、背後から私の名前を連呼した。なんだろうと思って振り返ると、みんなで一斉に拍手哄笑して逃げ去った。まるで狂人か乞食を相手にするような振る舞いである。しかし近隣の児童がどうして私の名前や顔を知っておるのか。これというのも私がものなんか書いているからである。虚名の災いもここまでくれば、まったく忍びがたい。雑誌や新聞の毒筆なんかは、こっちが見ないでおればそれですむことだが、子供の面罵までは避けようもない。嘆かわしいことである。それにしてもいまどきのガキたちの凶悪暴慢さは憎んでもあまりある。


いろんな興味深いことが書かれている昭和2年の日記の中で何でこの日を取りあげたんでしょうか。おそらくは49歳の荷風の『日乗』を読み始めて最初に村上さんにひっかかったのがこの日のものだったんでしょうね。でも、後で書きますが、この日は荷風にとってちょっと特別な日だったんですが。
で、この日の日記を現代語訳した後で、村上さんはこんな感想を書いています。

気持ちはまあよくわかるんだけど、子供相手に『凶悪暴慢』ってのはちょっとないんじゃないかなと思います。いくらなんでも大人げないじゃないか。でも荷風ってなんかすごく変なおっさんだということが、これを読んでいるとよくわかりますね。


「すごく変なおっさん」とか書いてますね。もちろんそれはよくわかっていますが。でも、村上さんはその人物が平面的でなく、くっきりと表されているような文章に反応するんでしょうね。

実はこの日の荷風の日記には、村上さんが引用した部分の前と後にもう少し文章が書かれています。村上さんがその部分をカットしたのか、あるいは岩波文庫版がそのようになっているのか、手放してしまった今となっては調べようがありません。でも、そのカットされた部分が興味深いんですね。
この日の『日乗』の村上さんが引用した前の部分にはこんなことが書かれているんです。

晴れて暖なり、柳北先生硯北日録七巻を写し終わりぬ、余すところ投閑日録日毎之塵其他十数巻あり、卒業の日猶遠しといふべし


村上さんに倣って現代語訳すると、

「晴れて暖かい。柳北先生の『硯北日録』の全七巻をようやくすべて写し終わった。残っているのは『投閑日録』や『日毎之塵』、その他まだ十数巻ある。作業が終るのはまだまだ遠いな」

そう、荷風はこの49歳の荷風は前年末より続けていた、全七巻ある成島柳北の『硯北日録』の筆写をこの日ようやく終えているんですね。荷風が成島柳北の日誌関係を筆写したのは、この『硯北日録』が最初のはず。その作業がようやく終って、きっと心から晴れがましい気持ちになっていた荷風に子供たちの「嘲罵」が襲いかかって来たわけです。
おそらく荷風は柳北への敬愛の度合を一層高めた直後に、少なくとも作家として名が通っていて顔も知られている自分に対する尊敬のかけらもない子供たちの態度を見て耐えられない気持ちになったんですね。
というわけで、この後、自分は尊敬する人と出会ったときにはこうしていたのに今の子供はなんなんだ、とか、その原因は国家や親の教育がなっていないからだと延々と怒りをぶちまけている部分が続くんですね。結構長いですが、その部分を引用します。

窃に余が幼児のことを回想するに、礫川の街上に於て余は屢芳野世経中村敬宇南摩羽峯等諸先生を見しことあり、余は猶文字を知らざる程の年齢なりしかど敬虔の情自ら湧来るを覚え首を垂れて路傍に直立するを常とせり、然るに今の児輩の為す所は何ぞや、余は元より学識徳望両つながら当時の諸先生の比較するもの有るなし、近隣の児童に面罵せらるゝも敢て怪しむに足らず、然りと雖苟も文筆に従事するの士を見て就学の児童等路頭に狂夫を罵るが如き行をなすに至つては、一代の文教全く廃頽して又救ふべからざるに至れることを示すものにあらずや、長父兄の罪か、国家教育の到らざるが由か、余は之を知らず、余は唯老境に及んで吾が膝下に子孫なきを喜ばずんが非らざるなり


ちょっと長いので現代語訳はしませんが、荷風はまだ字も知らないときでも先生という人にどこかで出会ったら自然と「敬虔の情」が湧いて来て、必ず「首を垂れて路傍に直立」していたと書いています。それなのに、今の子供たちは...。
いつの世もこういうのがあるんですね。で、村上さんが「子供相手に『凶悪暴慢』ってのはちょっとないんじゃない」と書いているくらいに、これだけ荷風が激しく子供を非難しているのは、柳北の日誌を筆写し終えた直後で、幼い頃から柳北に対して敬愛の念を抱き続けて来て、更にその想いを深くしたからにちがいありません。
で、荷風はこのあと銀座に行って一人で食事をしています。そこの引用はやめておきます。

でも、興味深かったのは、村上さんが『断腸亭日乗』を集中的に読んだのが49歳から50歳にかけての時期。で、荷風が成島柳北の日誌を筆写しているのもやはり49歳のとき(実際には48歳なのですが、荷風の『日乗』は数えの年齢が書かれてて、荷風本人の意識としては昭和2年は49歳)。『日乗』を見ると、昭和2年6月6日に柳北の日誌をすべて写し終わったと書いています。具体的な書名はあげられていませんが、おそらく『航薇日記』もこの年の1月から6月までの間に一度写しているはず。二度目に筆写したのは昭和19年の暮れ。

ここで、ふと思い当たることがあって調べてみると、やっぱり。
なんと小津安二郎が『断腸亭日乗』を集中的に読んだのも、同じく49歳。わおっ、ですね。

50歳を前にした人たちが、50歳という節目の年齢を迎えるにあたって何かの手がかり、あるいは心の拠りどころのようなものを求めて先人の日記を読んでいる。
永井荷風は敬愛する成島柳北の日誌を筆写している。そして小津安二郎と村上春樹は、その荷風の『断腸亭日乗』を集中的に読んでいる。個人的にはこれは驚愕の発見でした。

さて、1999年10月8日の「村上ラヂオ」で取りあげているのは 昭和15年2月16日の『断腸亭日乗』。荷風は数えで62歳。考えたら村上さんは今、64歳。もうこの日取りあげた日記を書いた当時の荷風の年齢を超えているんですね。信じられない。

晴。午後平井猪塲二氏来話。共に出でゝ日本橋オペラ館に至る。谷中氏に逢ふ。同氏のはなしにこの日の午後文士高見順踊子二三人を伴ひオペラ館客席に来れるを見たり。原稿紙を風呂敷にも包まず手に持ち芝居を見ながらその原稿を訂正する態度実に驚入りたりと云ふ。曾て三上於菟吉といふ文士神楽坂の待合にて芸者に酌をさせながら原稿をかきこの一枚が十円ヅヽだから会計は心配するなと豪語せしはなしと好一対の愚談なり。


で、村上春樹の現代語訳なのですが、その現代語訳の前にこんなことを書いています。

永井荷風(うちのワープロ機能は「荷風」って一発で変換されないので、「にかぜ」って入力するんです。「ながいにかぜ」と入力していると、なんかすごく変だ。べつの人みたい)の日記『断腸亭日乗』と、丸谷才一さん(こっちは「丸野菜位置」になっちまいます)の『新々百人一首』はどっちも時間をかけてちょっとずつ読んでいます。一度にばあっと読める本ではないので、そのへんに置いておいて、暇があれば手にとってぱらぱらと数ページ読むという読み方をしています。けっこうなごみます。そういう読み方ができる本って、なかなかいいものですね。
『断腸亭日乗』はなんてことのない日記なんだけど、ところどころに「うーむ!」とうなってしまう記述があって、さすがにすごいなあと思います。


確かにパソコンを買った最初の頃は人名がきちんと変換されないで困ることが多かったですね。内田樹先生の名前が「うちだたつる」でぱっと変換されるようになったのは最近になってのこと。僕はずっと「うちだじゅ」と入力していました。願わくば駒沢敏器の名前が一発で変換されるようになればいいなと。

話がそれました。 昭和15年2月16日の『断腸亭日乗』の現代語訳です。最初の部分を少しカットしています。

**君の話を聞くと、今日の午後、文士の高見順が踊り子を二三人つれてオペラ館の客席に来たらしい。原稿用紙を風呂敷に包むでもなく、むきだしにして持って、舞台を見ながらそれに手を入れていたのを見て、驚いちゃいましたよ、ということである。むかし三上於菟吉という文士が神楽坂の待合いで芸者に酌をさせながら原稿を書き、『この一枚が十円になるんだから心配はいらんぞ』と豪語していたという話を聞いたが、それと好一対の愚談である。


で、村上さんの感想です。

荷風という人はこういう『見せびらかし』みたいなことが大嫌いだったんですね。僕もそういうことはあまり好きじゃないけど、しかしそれはそれとして、僕だって踊り子の二三人もつれてオペラ館に行きたいぞ。うらやましいぞ。戦前の文士はもてたんですね。いいなあ。


というわけで、『断腸亭日乗』と村上春樹の現代語訳の引用でした。ふう〜、さすがに疲れました。

ところで、村上春樹の新作、昨夜も一章だけ読んだのですが、見まいと思ってもちらちらと情報が入ってきています。それらをシャットアウトし続けてゆっくり読むのは無理なような気がしてきたので、今日から読むペースを上げようかと考えています。ああ、悩ましい。
by hinaseno | 2013-04-14 11:05 | 文学 | Comments(0)