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by hinaseno
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染物屋の媼の話


昨日紹介した川本三郎さんの『荷風好日』には「晩年の荷風と小林少年」と題された文章が収められています。小林少年とは荷風の『断腸亭日乗』の晩年にしばしば登場する人物。晩年の荷風が過ごしていた千葉県市川市八幡の家を小林少年が何度も訪ねているんですね。昭和32年以降の(あまり読むべき部分がなくなった)『日乗』には、「午後浅草(あるいは正午浅草)」という言葉とともに「小林来話」との言葉がいくつも見られます。

荷風は岡山を去った後、熱海に一時滞在し、そのあと千葉県の市川に住むようになります。でも、やはりこれまで同様、同居人とのトラブルから何度か住む家を変えています。
昭和23年12月5日には部屋を借りていた人から突然、立ち退きを求められます。70歳の老人が年の暮れにいきなり部屋から出て行けと言われているのですから、気の毒と言う他ありません。その途方に暮れた荷風の世話をして荷風の住む家を見つけてあげたのが小林修という人。そこから小林少年との交流は荷風が亡くなるまで続きます。
a0285828_10305383.jpg荷風は昭和34年4月30日に亡くなるのですが、その2日前の4月26日にも「小林来る」との記述があります。僕の持っている『断腸亭日乗』の最後のページには日付と天気と「小林来話(小林来る)」の文字が並んでいます。荷風がおそらくはもう長くはないことを知り、ほぼ毎日訪ねてきているんですね。

a0285828_10314190.jpg川本さんはこの小林少年のことが気になっていろいろ調べるのですが、荷風の研究書を読んでも小林少年のことにはほとんど言及されていないことを知ります。で、ある年(2004年)に荷風終焉の地である市川で「永井荷風展」が開かれることになり(そのときのポスターがネット上にありました。川本さんの名前もありますね)、川本さんもその企画に関わることになったので、会場に「小林修さんの消息をご存知の方、ご一報下さい」と掲示してもらったとのこと。すると、その小林さんの親族が現れたんですね。写真も見せてもらったとのことです。
この文章の最後で川本さんはこう書いています。

これほど荷風に信頼されていたのなら、荷風死後、マスコミに登場して思い出を語ったりしてもよさそうだが、そういうこともいっさいせず、ただ、市井の人間として黙して世を去ったのも好ましい。

さて、岡山にも荷風の世話をし、荷風に信頼された一人の女性がいました。昨日の最後に書いた「染物屋の媼」のことです。名前も住所もわかっているのですが、ネットでその女性の名前を検索しても一件もヒットしません(ちなみに小林修さんのことはいくつも出てきますね)岡山でも荷風に関するイベントや、あるいは雑誌の特集が何度か組まれていたようですが、その女性のことまでは調べた人はいないようです。

「染物屋の媼」が初めて『断腸亭日乗』に登場するのはまさに終戦の日の8月15日。昨日も書いたように、その日荷風は谷崎潤一郎に会いに行っていた勝山から戻ってきています。その日の日記。

日暮染物屋の婆、鶏肉葡萄酒を持来る、休戦の祝宴を張り皆〻酔うて寝に就きぬ


で、その三日後の8月18日の日記。

帰途染物屋の老媼に逢ふ、此の媼親切にて世話好きと見ゑ余が宿泊する貸二階の周旋をなせしのみならず其後も絶えず野菜小麦粉などを贈り来れり、此夜胡瓜の塩漬を貰ふ


荷風に三門の家を周旋したのは永井智子さんの知人である池田優子さんであると思っていたのですが、実はこの「染物屋の媼」だったんですね。おそらく池田優子さんはこの「染物屋の媼」のことをよく知っていて、荷風の住む家を探してもらったんではないかと思います。つまりこの「染物屋の媼」は三門の武南さんとも親しかったんでしょうね。この日の日記に書かれているように、荷風が三門の家に住むようになってからいろんな、おそらくは自分の畑で採れた野菜などを届けに来ていたようです。

さらに8月21日の日記。この日荷風は岡山市内の焼跡をあちこち見て回っています。

汗まみれみなりて寓居にかへるの三門町染物屋の媼葡萄一籃持ち来れり、一貫目七円なりと云、露店商人の町角にて売りゐたるものよりは品質遙によし


そして岡山を発つ前日の8月30日の日記。

未明に起き九時頃に三門町に帰り急ぎ旅装を理む、染物屋の媼をたのみ行李を岡山停車場に持ち行かしむ、媼餞別にとて手づくりの葡萄汁罎、胡瓜の糖漬を贈る、深情感謝すべし、改札口にて媼と見送りのS君とにわかれプラトフォームに入りて村田氏が家人を携へ来るを待つ


三門においてあった荷物を駅まで運んでもらうように頼んだのも「染物屋の媼」です。荷風がいかに彼女を信頼していたかがわかります。「染物屋の媼」には手作りの葡萄ジュースと漬け物をもらっていますね。

翌、8月31日の日記。

終日車中に在り、総社市以呂波旅館のつくりし握飯、岡山の媼より貰ひたる奈良漬を喰ひ葡萄汁に咽喉を潤す、美味終生忘れまじと思ふばかりなり


これで終わりかと思ったらそうではありませんでした。荷風が熱海に滞在していた時の9月19日の日記。

岡山より池田優子また染物屋の媼の手紙来る

このあと『日乗』に「染物屋の媼」の名が出てくることがありません。

でも、荷風が市川に住むようになった昭和23年1月10日(小林青年の世話になる1年程前ですね)の日記にこんなことが書かれていました。これを見つけて僕ははっと思ったんです。

岡山市三門町大熊氏干柿を郵送せらる


岡山市三門町大熊氏。
この名前を目にしたとき、一瞬だれ?って思ったのですが、すぐに思い当たる人がいました。これは「染物屋の媼」に違いないと。と同時に「三門町大熊」にも思い当たることがありました。

荷風によって製本された『断腸亭日乗』には、それぞれの巻の最後に何人かの人の名前とその人の住所が書かれています。昭和20年のことは「第二十九巻」と「第十九巻續」の二冊に分かれているのですが、その年の10月までのことが書かれた「第二十九巻」の最後にも20人程の名前が並んでいて、その中に岡山の三門町に住む大熊という女性の名前があるんですね。なんで武南さんでなく大熊さんなんだろうと不思議に思っていました。住所も武南さんの家とは少し離れている。一度も岡山の日々を記した『断腸亭日乗』に登場していないのになぜここに名前があるのかと不思議に思っていました。

ちなみにこのリストに乗っている岡山の人はもう一人だけ。大熊さんの隣(実際には一行抹消されているのですが)に書かれている池田優子さん。池田さんよりも先に記載されています(余談ですが、この大熊さんの二人前には「大森区久ケ原681池上178」という住所が記された名前があって、個人的にはちょっとびっくりしているのですが。それにしても岡山と大森はどうしてこんなに繋がるのだろう? 岡山と大森についてはまた改めて書くことにします)。
さて、そこに記載されている大熊さんの名前。

大熊世起子 岡山市巌井三門町二ノ四〇一

最近になって気づいたのですが、このリストはたぶん荷風に手紙を書いた人の住所なんでしょうね。9月19日に、池田さんと「染物屋の媼」は荷風に手紙を書いています。つまり、「染物屋の媼」はこの大熊世起子さん以外に考えられません。

で、大熊さんは昭和23年1月10日にも荷風に干柿を送っています。それが書かれた第三十二巻のリストには大熊さんの名前がないのですが、その前の昭和22年のことが記された第三十一巻の最後のリストに大熊さんの名前が載っています。

大熊世起子 岡山市三門町二丁目四〇一

製本したのは昭和23年になってのことでしょうから、その製本する前に届いた大熊さんの住所を書いたのか、あるいは『日乗』には書かれていないけど、昭和22年にも大熊さんは荷風に手紙を書いていたのかもしれません。

個人的にはこの発見は大喜びだったのですが、この発見の後、僕の持っている『断腸亭日乗』の最終巻を見ると、かなり詳細な索引があることに気づきました。で、人名索引の「大熊世起子」のところを見てみると、なんと括弧付きで「染物屋の老媼」と書かれています。彼女のことが書かれている『日乗』の年月日も全部載っていました。あらあらって感じ。まあでも、索引を見て確認するよりも、『日乗』の日々を辿りながら発見できたことの方が何倍もうれしかったですが。

さて、前回、三門に行ったときには、ここまでのことを確認できていませんでしたので、大熊さんに関しては何も調べなかったのですが、ここまではっきりと住所がわかっていますので、きっとご親族の方がいらっしゃるのではないかと思います。もしかしたら荷風からの手紙が来ているかもしれませんね。それについてはまたいずれ機会があれば調べてみたいと思います。
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by hinaseno | 2013-04-12 10:33 | 文学 | Comments(0)