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Talks About Music, Books, Cinema ... and Niagara


by hinaseno
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「困るから出ないでくれ」


ときどき、ちょっとだけ目にした、あるいは耳にした「あることがら」あるいは「ある人物」のことがすごく気になってしまうことがあります。ときどき、ではないのかもしれませんが。
『断腸亭日乗』の岡山での日々を読んでいて、僕は岡山のはずれに暮す一人の名もなき(名前はあとでわかったのですが)老婆のことを意識するようになりました。彼女が荷風という人物のことをどれだけ知っていたのかはわかりませんが、ある時期からいろんな形で荷風の世話をしています。
荷風が岡山を離れてから以後の『断腸亭日乗』を読み進めていたら、熱海で荷風が柳北全集を見つけた数日後に、その老婆から手紙が来ていることも書かれていました。で、柳北とともにその老婆のことが気になって、ちょっと調べてみました。

もちろん荷風が岡山にいたときに荷風の世話をした人たちはたくさんいました。最後には関係が悪化したにしても、やはり荷風のそばにずっといた菅原明朗、そしてその妻である永井智子(荷風の日記によれば2人は三門にいるときに、荷風のとなりの部屋で日々口論を繰り返し、それぞれに荷風に相手の不満を言い続けていたとのこと。で、その後間もなく離婚しているようです)、それから永井智子の知り合いで岡山在住の池田優子。もちろん、荷風に部屋を貸した武南さんや平松さん、あるいはその平松さんの経営していた弓之町の松月のおかみさんもそれぞれにいろんな形で荷風に世話をしたようにも思います。でも、荷風が岡山を去るとき、最後の最後に頼ったのは、そのおばあさんでした。いや、もしかしたらそのときにはそのおばあさんしか頼ることができなくなっていたのかもしれません。
そんな原因はやはり荷風にもあったと言わざるをえないのかもしれませんが、さまざまな煩わしいことがあった何日も後に、気持ちを整えて、そしてあの文体ゆえの気取りを交えた浄書された段階での『断腸亭日乗』を読む限りはわかりづらいのですが、実際にはこの岡山の日々における荷風は度重なる空襲による「恐怖症」で、精神的にも肉体的にもかなり変調をきたしていて、世話をする人たちもかなり困っていたようです。菅原夫婦の口論の原因の多くもそこにあったような気がします。

この時期の荷風の「恐怖症」に関しては、川本三郎さんの『荷風好日』に「空襲による『恐怖症』」と題して詳しく述べられています。
ちょっと辿ると、まずは昭和20年3月10日の東京大空襲で自宅である偏奇館を焼かれます。そのあと菅原明朗と永井智子が住んでいた東中野の国際文化アパートに住むことになります。川本さんによれば、ここは玄関が別々にあってかなりプライバシーが保たれていた場所だったとのこと。でも、そこも5月25日に空襲を受けることになります。その日の日記には「爆弾一発余等の頭上に破裂せしかと思はるゝ大音響あり、無数の火塊路上到るところに燃え出で、人家の垣墻を焼き始めたり」と書かれています。本当にぎりぎりのところで助かったという感じです。
で、そのあといろんな家を転々としながら、兵庫県の明石の西林寺というお寺に疎開します。明石は菅原明朗の故郷で西林寺は菅原家の菩提寺だったんですね。荷風はこの明石をかなり気に入って、ここで暮らしたいと思うようになります。ところが、またしても空襲が襲うんですね。6月9日。爆心地からは4キロくらい離れていたようですが、その日の日記には荷風の住んでいるところまで爆風が来たと書いています。
そして岡山に行くことになり、何度も書いていますがここでも6月20日に空襲を受け、旭川の河原まで走って逃げて、「九死に一生を得」たんですね。

これだけ立て続けに空襲を経験すれば、精神や肉体に変調をきたさないはずはありません。実際、三門に住むようになったときには何度も激しい下痢に悩まされていることが書かれています。
荷風が岡山の三門にいたとき、同じ家のとなりの部屋に菅原明朗といた永井智子は7月25日に、東京にいる荷風の従弟の杵屋五叟に次のような手紙を書いています。平松さんの果樹園に行った10日くらいあとですね。

「永井先生は最近はすつかり恐怖病におかゝりになり あのまめだつた方が横のものを建にもなさることなく まるで子供の様に わからなくなつてしまひ 私達の一人が昼間一寸用事で出かけることがあっても「困るから出ないでくれ」と云はれるし 食べた食事も忘れて「朝食べたか知ら」なぞと云はれる始末です」


「困るから出ないでくれ」と言っている荷風の姿は本当に意外でした。『断腸亭日乗』では窺い知れない荷風の別の姿を見ることができます。

で、おそらくは永井智子さんもまもなく荷風の世話に耐えられなくなるんでしょうね。8月になると、そんな状態にある荷風を知っていながら、荷風をおいて菅原明朗とともにあちこちに出かけるようになっています。荷風は淡々とそれを『日乗』に書き記しています。でも、きっと実際には不安な気持ちでいっぱいだったんでしょうね。ちょっと切なくなります。

7月30日 この日S夫婦音楽演奏の為広島に行く、寓室静なり、仰臥しづかに病をやしなふ
8月11日 S君夫婦菜蔬果実を得むとて日盛りに妹尾崎平松氏の果樹園に行く
8月12日 S君夫婦食料を得むとて吉備郡総社町の旅宿に往く

菅原明朗は平松さんの果樹園にまた行ってるんですね。荷風に声をかけたんでしょうか。

少なくとも自分が避けられているのは感じずにはいられなかったのではないでしょうか。で、荷風は淋しくなったのか翌8月13日に以前から誘われていた、岡山の勝山に疎開していた谷崎潤一郎のもとに行き、3日間滞在します。
三門に戻ってきたのはまさに終戦の日。この日、ちょっとした祝宴をしてるんですね。

この日から荷風は少しずつ東京に帰る準備を始めます。本来であればもちろん菅原明朗と永井智子とともに。しかし、荷風と菅原夫婦との間には修復し難い溝が生じてしまっているようです。

8月23日 S君夫婦池田氏と共に汽車にて弓削といふ処に行く


で、8月27日に「同宿人との関係追々日を経るに従ひいとはしき事の多くなり」荷風は総社の旅宿に行きます。そして8月30日に岡山駅に行き岡山を離れることになります。そのとき改札口で荷風を見送ったのはたった二人。
一人はS君と表記された菅原明朗。
そしてもう一人は永井智子ではなく、荷風が最後に岡山で頼った人、「染物屋の媼」。
by hinaseno | 2013-04-11 10:20 | 文学 | Comments(0)