『航薇日記』を読むと、成島柳北は岡山にやってくる途中でいろんな場所に立ち寄っている他、岡山の妹尾に来てからも、そこを拠点にあちこちに行っています。もちろん岡山市内、荷風も歩いた京橋の袂では今も残る大手饅頭の店に立ち寄っています。食べたかどうかはわかりません。
それから荷風も行った吉備津神社、吉備津彦神社。あるいは高松稲荷。さらには何と舟で四国、そして小豆島にも行っています。旅の疲れを知らないなんてものじゃないですね。本当に好奇心旺盛な人です。そういえば『航薇日記』の冒頭で、戸川成斎に妹尾に行こうと誘われたとき、こんなことを書いています。
「烟霞痼」は「えんかこ」と読むんでしょうか。大辞林をみると「烟霞の痼疾」というのが載っていて、こう書かれています。「深く自然の風景を愛し、旅を好む習癖」
なんとなく芭蕉の「おくのほそ道」の序文を思い浮かべてしまいましたが、幕臣でもこういう人がいたんですね。
で、『航薇日記』をもし旅の物語としてみるならば、たぶんそのクライマックスは小豆島の寒霞渓に登る場面になるのだろうと思います。印象的な場面がいくつも続きます。おそらく荷風は他の場面は忘れていても、小豆島の場面だけははっきりと覚えていたんでしょうね。で、あの平松さんの果樹園のあった丘で、小豆島の名前を聞いたときに、はっと気づいたんですね。
おそらく荷風はこの瞬間から『航薇日記』のいろんなことを思い起こそうとしたはず。
柳北はこのあたりに来ていたんだ。『航薇日記』をもう一度読み返して確認したい。でも、それは残念ながらあの東京大空襲の日に偏奇館とともに焼失してしまっている。
荷風は岡山で終戦を迎え、戦後一時期三門を離れ岡山市のさらに西の総社に行っています。同居していたS氏夫婦との関係が悪化したんですね。
ところで先日ようやく気がついたのですが、このS氏は菅原明朗のことなんですね。平松さんの果樹園に同行したS氏も菅原氏のこと。なぜか荷風は、三門の家で同居しているときだけ『日乗』には菅原氏と書かずにS氏と書いています。多くはS氏夫婦に対する不満なのですが。
8月27日の日記にはこう書かれています。
後日、菅原明朗のことを実名でいろいろ不満を書いているのですが、このあたりの関係悪化にはいうまでもなく荷風の方にも原因があったに違いはないように思うのですが。もともと他人と同居するというのが体質的に無理なんでしょうね。
で、その日に早速近くを散策して、柳北も見た吉備津神社、吉備津彦神社に行っています。荷風は『航薇日記』のことをおぼろげに記憶して総社に向かったのか、あるいはこれもたまたまだったのか。
そして、ついに岡山を去る日が来ます。8月31日。
さて、僕は7月13日の日記に添えられた地図に、妹尾の地名、そして柳北がそこにやってきたことを記しているので、荷風は後日、どこかで『航薇日記』を読んで確認したに違いないと思い、荷風の9月以降に書かれた『断腸亭日乗』を読み進めました。意外にもその日はほんの数日後にやって来ます。荷風は岡山を離れて東京に戻ったのではなく、熱海の木戸という人の家に滞在することになります。やって来たのは9月1日。その4日後の9月5日の日記。
「偶然架上に柳北全集のあるを見出し驚喜して巻中の航薇日誌を読む」とあります。たまたま滞在することになった家の書架に柳北全集があったんですね。で、即座にそこに収められた『航薇日記』を読んでいます。荷風の興奮した気持ちが手にとるようにわかります。そして、たまたま来ることになった熱海も柳北と関係の深い土地であることを知ります。
これだけ「たまたま」が重なってしまうと、もう運命的としかいえないですね。
おそらく荷風はこのとき感激のあまり涙が止まらなかったのではないかと思います。もちろん荷風は『日乗』には、いかに感激しても涙を流したということまでは決して書かないのですが。
でも、正直僕はこの日の『日乗』を読んだときには、そこに僕自身の運命も重なったようで、目頭が熱くなってしまいました。
運命的といえば、熱海は、小津安二郎の『東京物語』の舞台になった場所。実は小津は『東京物語』の台本を書き上げた直後に、荷風の『断腸亭日乗』を手に入れて、ある時期それを貪るように読んでいます。そして、そのあとに作られた映画が岡山を舞台にした『早春』。
「断腸亭日乗」「熱海」「岡山」。
偶然にしてはあまりにもできすぎています。それについてはまた別の日に。
それから荷風も行った吉備津神社、吉備津彦神社。あるいは高松稲荷。さらには何と舟で四国、そして小豆島にも行っています。旅の疲れを知らないなんてものじゃないですね。本当に好奇心旺盛な人です。そういえば『航薇日記』の冒頭で、戸川成斎に妹尾に行こうと誘われたとき、こんなことを書いています。
例の烟霞痼の動き出でて遏(とど)めがたければ萬の事皆擲(なげう)ちて旅の装ひをなす事とハなりぬ
「烟霞痼」は「えんかこ」と読むんでしょうか。大辞林をみると「烟霞の痼疾」というのが載っていて、こう書かれています。「深く自然の風景を愛し、旅を好む習癖」
なんとなく芭蕉の「おくのほそ道」の序文を思い浮かべてしまいましたが、幕臣でもこういう人がいたんですね。
で、『航薇日記』をもし旅の物語としてみるならば、たぶんそのクライマックスは小豆島の寒霞渓に登る場面になるのだろうと思います。印象的な場面がいくつも続きます。おそらく荷風は他の場面は忘れていても、小豆島の場面だけははっきりと覚えていたんでしょうね。で、あの平松さんの果樹園のあった丘で、小豆島の名前を聞いたときに、はっと気づいたんですね。
余小豆島の名を聞き成嶋柳北が明治二年にものせし航薇日記中の風景を想起して却て一段旅愁の切なるを覚えたり
おそらく荷風はこの瞬間から『航薇日記』のいろんなことを思い起こそうとしたはず。
柳北はこのあたりに来ていたんだ。『航薇日記』をもう一度読み返して確認したい。でも、それは残念ながらあの東京大空襲の日に偏奇館とともに焼失してしまっている。
荷風は岡山で終戦を迎え、戦後一時期三門を離れ岡山市のさらに西の総社に行っています。同居していたS氏夫婦との関係が悪化したんですね。
ところで先日ようやく気がついたのですが、このS氏は菅原明朗のことなんですね。平松さんの果樹園に同行したS氏も菅原氏のこと。なぜか荷風は、三門の家で同居しているときだけ『日乗』には菅原氏と書かずにS氏と書いています。多くはS氏夫婦に対する不満なのですが。
8月27日の日記にはこう書かれています。
三門の寓居には同宿人との関係追々日を経るに従ひいとはしき事の多くなりたければ、未明に岡山駅に至り切符を購ひ、午後吉備郡総社町の旅宿以呂波に至る
後日、菅原明朗のことを実名でいろいろ不満を書いているのですが、このあたりの関係悪化にはいうまでもなく荷風の方にも原因があったに違いはないように思うのですが。もともと他人と同居するというのが体質的に無理なんでしょうね。
で、その日に早速近くを散策して、柳北も見た吉備津神社、吉備津彦神社に行っています。荷風は『航薇日記』のことをおぼろげに記憶して総社に向かったのか、あるいはこれもたまたまだったのか。
そして、ついに岡山を去る日が来ます。8月31日。
さて、僕は7月13日の日記に添えられた地図に、妹尾の地名、そして柳北がそこにやってきたことを記しているので、荷風は後日、どこかで『航薇日記』を読んで確認したに違いないと思い、荷風の9月以降に書かれた『断腸亭日乗』を読み進めました。意外にもその日はほんの数日後にやって来ます。荷風は岡山を離れて東京に戻ったのではなく、熱海の木戸という人の家に滞在することになります。やって来たのは9月1日。その4日後の9月5日の日記。
木戸氏の留守宅頗広大なり、(中略)書斎は西洋づくりにて活版の書冊多し、偶然架上に柳北全集のあるを見出し驚喜して巻中の航薇日誌を読む、余今黄薇の地を去り東行して熱海に来る、熱海は柳北が晩年病を養ひし処ならずや、余弱冠のころより柳北先生の人物と文章とを景慕して措く能はざるもの、今その遊跡の同じきを知り歓喜の情更に深きを覚ゆ
岡山県都窪郡妹尾町ハ維新前旗本戸川成斎が領地なり○妹尾より岡山城まで二里○備中高松稲荷神社戸川主馬助領地○庭瀬ハ板倉候領地高松ハ花房氏の領地なり○吉備郡足守ハ木下候領地○吉備津の宮ハ大吉備津彦の尊即孝霊天皇を祭る
右航薇日記識すところ
「偶然架上に柳北全集のあるを見出し驚喜して巻中の航薇日誌を読む」とあります。たまたま滞在することになった家の書架に柳北全集があったんですね。で、即座にそこに収められた『航薇日記』を読んでいます。荷風の興奮した気持ちが手にとるようにわかります。そして、たまたま来ることになった熱海も柳北と関係の深い土地であることを知ります。
これだけ「たまたま」が重なってしまうと、もう運命的としかいえないですね。
余弱冠のころより柳北先生の人物と文章とを景慕して措く能はざるもの、今その遊跡の同じきを知り歓喜の情更に深きを覚ゆ
おそらく荷風はこのとき感激のあまり涙が止まらなかったのではないかと思います。もちろん荷風は『日乗』には、いかに感激しても涙を流したということまでは決して書かないのですが。
でも、正直僕はこの日の『日乗』を読んだときには、そこに僕自身の運命も重なったようで、目頭が熱くなってしまいました。
運命的といえば、熱海は、小津安二郎の『東京物語』の舞台になった場所。実は小津は『東京物語』の台本を書き上げた直後に、荷風の『断腸亭日乗』を手に入れて、ある時期それを貪るように読んでいます。そして、そのあとに作られた映画が岡山を舞台にした『早春』。
「断腸亭日乗」「熱海」「岡山」。
偶然にしてはあまりにもできすぎています。それについてはまた別の日に。