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by hinaseno
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  荷風と柳北(その2)


成島柳北は江戸幕府の幕臣でしたが明治維新で野に下ることになります。いわゆる「敗者」の立場になったわけですね。旧幕臣、敗者、そして文芸の才もある。荷風が惹かれないはずがありません。で、柳北が「敗者」の立場になった、まさにその翌年に岡山まで旅したものを記録したのが『航薇日記』でした。

荷風は岡山に来る前年の昭和19年11月に成島柳北の『航薇日記』を筆写します。そのとき荷風はこんな感想を『断腸亭日乗』に書いています。

今その原本を筆写するに臨み新に感じたることは、全文にみなぎりし哀調しみじみと人の心を動かすものあり


正直言えば、残念ながら僕は荷風の書いている「全文にみなぎりし哀調しみじみと人の心を動かすものあり」との感想を十分に共有することができませんでした。理由ははっきりしていて、柳北のそうした心情は日記中に数多く詠まれている漢詩の中で表現されているのですが、僕にはそれらの漢詩を十分に理解し、味わうだけの能力がないので、漢詩の多くは飛ばして読んでしまったからです。情けないですね。改めてじっくりと読んでみようとは思っていますが。
でも、ところどころに「敗者」の側になった柳北の悲哀を感じさせる言葉があります。例えば10月22日の日記には次のような言葉があります。大阪で遊廓に行ったり、あちこち市内見物したりとかなり楽しんだ後、舟で大阪を発って須磨の浦にやってきたときの言葉。

余頃年淪落して風塵に落ツるハ不幸に似たりと雖も瓢遊自在此好風景に逢着するに於て其不幸に非ず至幸といふべきを悟る


なんとなく偏奇館を焼かれて西へ西へと逃げて岡山の地にやってきたときの荷風の心境に
重なるものがあるように思います。実際、荷風は何度も心の中で重ねていたのではないかと思います。

ちなみに、この日の日記は本当に素敵で、個人的には『航薇日記』で最も好きな一日なのですが、その説明はまた別の機会に。

まあ、漢詩の部分は読めないにしても大阪から岡山にやってくるあたり、あるいは岡山のあちこちを訪ねていくあたりの話はたまらなく面白いです。と、同時に驚かされるのは成島柳北という人のマッピング能力の高さですね。それ以前からいろんなところを旅していたみたいですが、初めて訪ねる場所でも、自分が今どこにいるかはっきりと把握しているんですね。当時おそらくたいした地図なんてなかったと思いますが(岡山近辺であれば特に)、柳北という人の中には正確な地図が入り込んでいることがよくわかります。
一回見た風景を正確に記憶する。他の地で見た風景ときちんとつなぎ合わせる。もちろん細かな地名をその都度その地の人に聞いては書きとめておく(旧幕臣であるのに、ごく普通に一般の平民に接しているのも驚きです)。ですから、柳北が行った場所、目にしたものは手にとるようにわかります。

で、柳北は須磨の浦を出た後、高砂を通って姫路の飾磨にも一泊しています。さらには牛窓を経由して10月24日に妹尾に到着しています。

到着した日の翌日の日記。こんな文章で始まります。原文には句点がないのですが、読みづらいので句点を付けました。

晴朝とく起出て成斎とともに後園の山に登る。ここに稲荷の祠あり。祠辺松楓多し。遠く田園を望み風景もよくはた要害あしからぬ塁壁なり。


この「稲荷の祠」のある「後園の山」、これがまさに僕が行った「稲荷山」とよばれる山のこと。僕は柳北と同じ風景を見ていたんですね。

それから11月11日の日記にはこんな記述もありました。

夜に入りけれバ山を下り路すがら春邊野(古き名所なり)...の傍を過ぎつつまた冠童の家にいたる


「春邊(辺)野」。僕が最初に山の麓で地元の人に聞いた「春辺」という、今の地図には出てこない地名が書かれてありました。おそらくは稲荷山の周辺につらなるの丘のあるあたりを春辺野と呼んでいたんですね。括弧付きで「古き名所なり」とも書かれています。先日引用した和歌を柳北は知っていたのかもしれません。
僕が稲荷山に登るために歩いた丘の道を柳北も144年前に歩いていたんですね。
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by hinaseno | 2013-04-09 12:09 | 文学 | Comments(0)